黄色い土地とビワの木 1
一クラス三十人以上の生徒で構成されたクラスが四つある学年において、父子家庭は彼だけだった。母子家庭で言えば、何人かいたはずだが今でも顔と名前の一致する者は一人しかいない。その同級生と私の家は離れていなかったので地域ごとの「班分け」が一緒だったのだ。でも特に仲が良かったというわけではない。女の子だったし、なんていうか一人親でありながら裕福な家庭だったからだと思う。
彼女の母親が出戻りした実家は辺りの地主だ。ピアノとクラシックバレーを習い、家庭教師がいて中学は受験し進学校へ進んだ。私は六年間一度も彼女と同じクラスになったことはなかった。
私たちは近所同士でしかなく、防災訓練の日の集団下校や、班行動行事と呼ばれる、たとえばスイカ割りや花火やらをする夏休みの数日を一緒に過ごしただけだ。近所の一年生から六年生までいてもちろん父兄もいたが、彼女の母親は一度も顔を見せたことはない。
それはさておき、千賀の家は私の家と離れていた。学区域で言えば西側になる。放課後はもとより休み時間にだって遊んだことはない。少なくとも積極的に遊んだことはない。低学年だったころは同じクラスだったような気もしなくはないが、記憶ははっきりしない。それでも彼の家はよく覚えている。未舗装の黄色い土地に建つ、上下六部屋ある二階建てアパートの一部屋だった。
彼方の海辺からだって、そこまではちゃんと続いたアスファルトの道が完全に分断されるその先の、小石が散々に撒かれた黄色い土地には同じつくりの棟が四つあった。ねずみ色だったと思う、建物の外壁が無傷な棟は一つとしてなく、中央から二階部へあがる外階段の手すりが途中でなくなっている棟すらあった。各戸の玄関扉は揃って朽ちそうな木の扉で、脇には土埃に汚れる二槽式洗濯機が必ず置かれていた。物干し竿の洗濯物も、風の一吹きで黄色い土埃を被っていたはず。というか、よくその一帯には無頼的な風が吹いていたように記憶する。用事があって自転車で横切るとき、どこか気の強い、あるいは強面的な、そんな埃がしょっちゅう目に入った。いや風だけではなく、もしかしたら降雨量だって違ったのかもしれない。ちょっとした雨が降ると一帯の黄色い土地は、誰からも歓迎されることのない赤黒いぬかるみになった。その一帯だけはちょっとした雨ではなく、結構な雨が降っていたに違いない・・・・・・。
ハハハ、私は不意に笑ってしまった。
そうだ、きっと雨の量が違ったんだ。あの土地は当時まだいくらか残っていたそこら辺の雑木林などよりもよほどダイレクトな自然だったに違いない。呪術的な、太古の土地の現在。水の惑星にある黄色くて固い地表。