茶巾寿司とエクレア 7
私は半ば忍び足で微妙に冷える居間へ入り、テレビと天井の明かりを消し、そこでオイルヒーターもついていることが小さなオレンジ色のスイッチの明かりで判明した。
床暖房を切ってからリモコンでエアコンの設定を見ると26℃の冷房になっていた。貧しく育った私には、彼のこの行動は全く理解できない。もしかしたら電力は国からの支給品だと思っているのかもしれない。もう殆ど私と変わらないサイズになった息子の足の裏を見つめて溜息が漏れた。
タブレットは自動でスリープ状態になっていたものの、手元にあるゲーム機の扱いには気を使う。ピコピコ煩かったのだが、息子のポータブルゲーム機には簡単に手を触れられない理由がある・・・・・・と言うのも私が家庭内に於いて完全に孤立してしまった原因は「今は亡き3DS」に寄った。
変に起こしてしまっても互いに気まずくなるような気がしたので、新顔のゲーム機はそのまま放って置き、床暖房とエアコンを消してオイルヒーターとスタンド電気を残した。妻のブランケットをなるべく無駄のないようにかけ直してやったが、彼の身体は覆いきれなかった。十二、三年前に生まれた時はタオル一枚で十分だったことが信じられない。居間の主たる「旅人の木」は不機嫌なまま無言になった。
私は自分の部屋へ戻らなかったので、部屋着に着替えないまま隣のキッチンでかつ丼を温めて食べることにした。時間は十時を過ぎていた。
妻は子供たちとの謝恩会を夕方には終え、そのままママ友と街へ流れている。今頃は二次会のカラオケで最後の盛り上がりを楽しんでいるか、兼ねてから選抜した数名と連れ立ち、既にホストクラブでこっそり煙草の一本でもふかしているのかもしれない。
ライターも商売道具になる自分よりずっと若い、眉毛を整える男たちと家事に疲れた手をテーブルの下で繋ぎ、好き勝手に結婚指をいじらせたり、膝やその周辺を会話の内容に関係なく触らせながら「それそれっ~!!」とはしゃいでいるのだろう・・・・・・無駄に高い酒を飲む金と時間の虚しい浪費のどこがいいのか? もちろん私には理解できる。最近でこそ出向く機会は減ったが、私は下着だけの若い女を膝の上に乗せていたのだ。まだ若いのに、肌の荒れている苦労感に魅せられたものだ・・・・・・私は食べ終わった割りばしを片手でへし折った。一人息子が小学校を卒業した日の夜に「よそよそしい」匂いのする広いキッチンの大きすぎるテーブルで一人、二割引きされた出来合いものを食べている間に、たとえば顔を知っているけれど名前が分からない、そんな感情が沸き上がってしまったのだろう。
エビスの残りを一飲みすると、ようやくエクレアを買ってこなかったことに気が付いた。道々にあった桜の木に気を取られすっかり忘れていたのだ。あるいは千賀が自慢げに、いつもとはまるっきり違う、何の意図も含まぬ微笑みで説明した「あの茶巾寿司」に集中し過ぎていたのかもしれない・・・・・・自転車を持っていなかった彼は「エクレアも買って帰るんだ」と言い、驚いている私へ、じゃぁねバイバイ、と手を振り私たちが育った町内で唯一のパン屋の方へ誇らしげな背中を向け歩いて行ったのだった・・・・・・私は流しでプラスチックのどんぶりを洗い、不燃ごみ用のゴミ箱へ捨て、アルミニュム缶は一度水を入れてから潰し、やはり台所の隅にある空き缶入れに捨てた。そして戸棚のロックグラスとトマーティン12年を取り出し氷を山ほど入れた。私は風呂に入ることも、エクレアを買いに戻ることもしなかった。