いびきと口笛
私は隣の居間へ顔を出した。息子は相変わらずソファーでうつぶせたままスヤスヤ寝ていたが、幾らか驚いた。ソファーとガラステーブルの隙間に座った妻が、そこで寝ている息子のゲーム機を手に取り勝手に続けているのだ。あのデス調の8小節はもう少し明るめの8小節を繰り返している。どうでもいいことだがステージが進んだのだろうか?
「もうこんなに大きいから二階に運べないわね」私が顔を出すと妻はゲーム機から目を離さずに言った。
「そんなもん勝手にやっていいのか?」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
一人で晴れやかな気持ちになっていた私だったが、ゲームに集中している振りをしているだけの妻の、間違いなく攻撃的な沈黙に構えた。
「明日さ、親父の墓にでも行ってこようと思って。ちょうど彼岸の中日だしな」
「そう」関心のない言い方は、つまり実際的な攻撃に入ったのだろう。
「あぁ」私は構えすぎてしまい幾らか固まった。
「遠いいから、早いの?」
「そのつもり。シャワーに入るけど、先に入る?」私は逃げようとしたのだ。
「・・・・・・こいつマジでムカつく」ゲーム機の操作ボタンを忙しく動かした。
「・・・・・・」もちろん私は、自分のことと受け止めた。
「ねぇ、ここで一緒に寝てあげてよ」妻は顔を上げず舌を鳴らした。
「俺が?」
妻は私の退避を許さなかった。
「ええ。そう、あなたが。私は自分の部屋で寝るから・・・・・・本当にこいつクっソ邪魔、とっとと失せてくれっつうの」妻は全く顔を上げなかった。
「一人で寝てても平気だろ?」私に対しているはずの妻の汚い言葉使いに耳たぶが熱くなる。
「・・・・・・」
私が我慢している雰囲気を察した妻は、息子のゲームを続けながら微かに微笑んだ。でも私は固まっているに過ぎないのだ。妻は、私がより危機的な状況になる方へ、読み間違いしているわけだ。
「布団掛けてやれば風邪ひかないよ、たぶん」
「あなたが一緒に寝てあげてよ。この子の傍で、床で寝てあげて」
「床で?」
「昔はよく疲れたまま炬燵で寝てたじゃない?」
「炬燵は床とは違うぞ」私の言い分は、本質の欠片もないものだった。
「嫌?」一瞬妻は顔を上げた。黒目がちな瞳は冷たく激怒していて、ほんの少し潤んでいた。妻が眼を潤ませることは、汚い言葉と同じくらい珍しい。
「嫌っていうか」正直、私は怯んだ。
「なら何?」潤んだ瞳を私に見せてしまったからかもしれない。たぶん今度はそんな理由で再び舌を鳴らした。
「・・・・・・」
私は居間の主たる旅人の木を見た。でも植物は本来無口なので無視された。
「死んだわよ、死んじゃったわ」
妻は静かにゲーム機をガラステーブルの上に置いた。
「他所の女となら床でも、車の中でも一緒に寝てあげられるでしょ?」
「先にシャワー入るぞ」私は逃げ出したかった。怒りを抑えられなくなることを回避するためではなく、この場にいるのが単に怖かったのだ。
「今朝ね、お母さんたちは離婚しないの、って初めて聞かれた」
「・・・・・・」
「絶対にしないから安心して、って答えたの。そしたらぼくが大人になったらすればってさ」妻は息子の髪を触った。
「あぁ」
「でも、それでもお母さんはしない、って言ったわ」
「・・・・・・」なんだこの緊張感は!!
「あなたはわたしと離婚したい? ドアにチェーンを掛けていたかった?」
「・・・・・・」
「わたしはね、毎晩わざと掛けてから部屋に行って、部屋の電気を消してベッドに入って、それから起きあがって階段を下りてきて外しているの。どうして分かる?」
「・・・・・・」
「心が病気だから」
「えっ!?」思わず声が出た。
「驚いた?」
「うつなのか?」自分の言葉に、なんて聞き方なのだろう、と思った。
「うつ、じゃなくて嘘よ」
「・・・・・・」
増幅していく緊張感の中つまらないダジャレなんか言いやがって、とはこの時はさすがに思えなかった・・・・・・とはいえ、多少の症状を自覚しているのかもしれない、と思えた。さすがに突き刺さる。
「今日まで誰にも言わずにずっと黙っていたけれど、実はね、お義父さんが私にビワの木の話をしてくれたことがあるの。だから私は絶対にあなたと離婚しないつもり。可哀そうなあなた」妻は私を見て、心底下らなそうに笑った。
・・・・・・どんな顔で笑われようとも、諸々は片っ端から吹き飛んだ。いや、物心がついてから今日の今日まで、私の全てが吹っ飛ぶような妻の告白に、しかし私は不思議なくらい静かに驚くのだった。
私は冷静に対処すべく鼻から息を吸い込むと、首の付け根から三つの青白い光が侵入したのを、私の星の下で観察した・・・・・・父たち三兄弟の三つの魂が胸の中で同時に点灯する瞬間を見逃さなかったのだ。
「シャワーは入らないでもう上がるわ。じゃぁ、この子とここで寝てあげてね」
ソファーとガラステーブルの隙間に座っていた妻は、さて、と言い膝立ちになると目の前に散らかっている息子のゴミをまとめて立ち上がろうとした。
「・・・・・・」私が介在したのは、妻と息子の繋がりだけではなく、妻と父も兼ねていたのかもしれない、と初めて実感した。
「よろしくね」食べ残しているスナック菓子の袋とカップアイスの空と飲み残しのペットボトルを両手で持って立ち上がった。
「おっ、お前さ、今度、俺と相撲でもしてみないか?」私はさっきから突っ立ったままだった。
「あらっ、男親は息子とするんでしょ?」息子のゴミを持った妻は私の横を通り過ぎた。
「じゃぁ、その後で」私は妻の背中に言った。
「って言うか、先ずはお義父さんの墓石とお相撲してきなよ。明日行くんでしょ?」キッチンで振り返った妻の半開きする冷たい口元が笑う。
「じゃぁ、行司してくれ」私はかなりまじめに訴えた。
「・・・・・・私と行きたいの?」
眉間に皺が寄り鼻の穴が大きく開いた妻は気持ちいいほど嫌そうだった。
「ああ」本当は嫌だけど、でもいいと思った。
私たちは互いの表情を正確に読み取った。二人とも、本当に、あるいは本当なら、二人は嫌なのだ・・・・・・そんなわけで、私たちは全くしばらくぶりに清々しいほどの大笑いをした。笑った原因が何であれ、どこか川に魚が戻ってきたような気持ちになった。
「三人でなら一晩考える。一緒に行くかどうか、自分で聞いてみてよ」私よりも後に笑い終わった妻は言った。
「起こして?」
「寝てないわよ、その子」キッチンで妻が顎をしゃくった。
「!?」私は息子へ振り返った。
ソファーの上でうつ伏していた息子はおもむろに仰向き、鼻を鳴らして息を吸うときのいびきの真似をし、結構上手な口笛で熟睡を表すような息を吐いた・・・・・・。
本作はぼくが小学生のとき実在した父子家庭の同級生をモデルにしたものです。でも作中にある通り、あるいはもっとずっと親しくはありませんでした。だから同じ中学へ上がったあと彼がいつ転校したのかよく覚えていません。中学の卒業が近づいたある日、彼がいないことに思い当たったのを覚えているだけです。ぼくが在学中に母子家庭になってしまったことが、もしかすると思い出した要因かもしれません。
さて「完結」とした本作ですが、最終章が存在しています。しかし投稿規約により「年齢制限なしR15」では投稿することが出来ない内容となっているので「18禁」へ分割することにしました・・・・・・つまりは「システム」をよく理解していなかったわけです。このまさに「一人相撲」だった手間を今後は活かしたいと思っています。
尚、最終章で本作の内容に「更なる逆転」がある等は全くないので、18禁が苦手な方や、最後に灰を撒かれるかもしれないな、と思われる方はこれにて「完」でよろしくお願いいた.します。




