身勝手な願いと現在進行していること
妻は無言で立ち上がると薄暗い居間へ行った。息子を愛しているのだ。鬼のように怒り、口うるさい姉が生意気な弟からされるように息子から挑発され、嘘をついたりつかれたりしても二人は信頼しきっている。私は妻と息子が「再会」するのに介在できたことをうれしく思う。誇りに思ったっていいだろう。
・・・・・・私は息子が学校から持ち帰った「笹の葉」の短冊にそのような願い事を書いてつるしたかったのだ。
いつか何かの偶然が働き、隣の住民同士だった私たちは心から互いに愛し合い、何事にも省みない突進力と冷酷な決断力を手に入れ、君の下着を嗅いでしまったことがある、と告白する。すると彼女はケラケラ笑い、わたしがあなたであなたがわたしだったら、わたしがしていたことよ、と言う。あなたの奥さんやお子さんにどれだけ申し訳ないけれど、わたしたちは一緒にならなければならないわ。
でもそれじゃぁ、君の旦那や娘にだってどれだけ申し訳ないよ。
いい? これは仕方のないことなのよ。わたしたちはようやく出会ってしまったの。どうしても逆らえないことって、巨大な権力や突然の病だけじゃないの。タイミングが少しズレてセットされた「運命の愛」もそれなの。逆らってはいけないし、逆らってもいけないの、分かる?
親父たちがビワを引っこ抜いたタイミングのことだね?
そう。でもそれだけではないわ。もっともっと複雑な法則があって、それでも結論は一つだけ。あなたはわたしに、あなたとわたしの子供を産ませてくれなければならないの。わたしは、あなたとわたしの子供に「再会」しなければならないのだから。わたしと、あなたとわたしの間に生まれる子供との間には、どうしてもやり残したことがあるの。それをわたしたちは遂げなければならないのよ。その為になら、どんなことにもわたしは我慢できる。たとえばいつかあなたが他の誰かと惨めすぎるような浮気をしても、そんなことは屁でもないわ。わたしは屈しない。わたしはあなたと、あなたとわたしの間に生まれてきた子供を変わらずに愛し続けるわ。わたしのツケを払い切らなければならないからだけじゃなくて、あなたのツケもわたしが払うし、あなたとわたしの間に生まれる子供のツケもわたしが払うからよ。
どうしてそこまで?
と、言うくらい身勝手な短冊を吊るしたい。「あの素敵な奥さんから永遠に愛されますように」・・・・・・。
私は短冊を吊るすとようやく気が付いた。近所の素敵すぎる奥さんとのあれやこれは全く妄想ではなく、多少の脚色こそあれ現在進行している現実なのだ。
二人がまだ20歳の時の晩秋に、私は一人寝袋を持って信州へ一泊のツーリングに出かけた。そのとき立ち寄った何某国立公園の駐車場でカワサキエストレイヤを押し掛けする背の高い女を見かけると、声を掛けた。私は水色のエストレイヤを後ろから押してやり、三回目くらいでようやくエンジンが掛かると、マフラーはポコポコ歌った。背の高い女は満面に微笑んだ。そのまま一緒に一番近いガソリンスタンドへ付いていき、女は念のためにバッテリーを交換してもらい、私のCB400にはレギュラーガソリンを満たしてくれた。そのあと二人は二時間ほど一緒に走ってから別れた。
年が明けて春になると背の高い女は普通自動車の免許を取得したことをきれいな字の手紙で連絡してきて私たちは下りの双葉SAで待ち合わせた。実家のセルシオに若葉を張り付け待っていて、私はCB400を駐車スペースに停めたまま助手席に乗り一日を過ごした。車の中はちっとも寒くなかった。
一月後に私は、一年ほどのあいだ転がり込んでいたバイト先の女の部屋を出た。一緒に暮らしていた白猫がいて、私が部屋を出て行くその日はずっと押し入れの中に隠れていた。
どこで誰と出会うか、どこに自分の人生の分岐があるのか、本当に分からないものだ。
薄暗い居間から立て続けに息子の鼾が響くと、妻の幸せそうな笑い声も聞こえた。寝ているのをいいことに好き放題ベタベタしているに違いない。