十月の指輪と魔女の指のモデル
「お前さ、自分の誕生日に茶巾寿司食べたことある?」ことごとく残念と思われているに違いない私は、聞いてみた。
「茶巾寿司?」不意な問いに妻の目は、一瞬の純粋さを帯び丸くなった。
「そいつは自分の誕生日だからっ、て言って俺に自慢したんだ。あとエクレアも買って帰るんだっ、て。うちもそこそこ貧しい家だったけど、なんて言うか自分の誕生日に茶巾寿司を食べられる、エクレアも食べられる、って人に自慢しちゃうほど貧しくはなかったような気がするんだ」
「貧しいから、というだけの理由でその日には食べられることに喜んでいたわけじゃないんじゃない?」
妻は笑顔を見せた。半々くらいはこちらへ傾いたのかもしれない。
「いや、お前には分からないと思うけど、俺たちは結構ギリだったからな」
中学から私立学校へ通い夏休みには決まって海外へ一週間近くの家族旅行をして育ったような奴に、私たちの何が分かるというのだろう? しかしそんなことは決して 口にしてはいけない。妻は妻で、私と出会ってからの7~8年はそこそこ厳しい暮らしを強いられてきたのだ。そうこうしている間に、好きだ嫌いだ、愛してる愛していない、とか言う問題ではなくなっていた。泥と石ころしかなかったあのころの生活に身を沈め、ときどき互いを強くなじる言い争いをしても、それでも二人は生活に屈せずたまの休日には細やかな木陰で贅沢しようと言い、二人で一本ずつビールを飲んで、普段とは違う気がする呼吸をした。
「何か思い出があるとか、そう決めていることだったりしていたのかもしれないじゃない?」妻も何かの思い出と鉢合わせたようだ。
「・・・・・・」
「一年に一度、自分の誕生日にだけ口にする、それくらい大事にしている理由があったとしても不思議なことじゃないわよ。家にお金があってもなくても、大事な理由が、ひとそれぞれの人生にはあるのよ。なんて言うか、つまりその子にはお母さんがいなかったんでしょ? 」
「・・・・・・」千賀も母親から生まれたのだ。私はなんとなく改めてそう思った。
・・・・・・思えば妻を初めて私の両親に紹介したとき父は言ったもんだ。
「えらい時間かかっちまったが、確かに引っこ抜いた効果は想像以上だ!!」
そう妻は正直、それは今でもだがその容姿は私と不釣り合いな美人である。170㎝を越えた身長でジーパンの丈詰を必要としない股下。細面の顔は小さく、元々形の整う眉にペンシルは引かれず、時々息子に向けて鬼のような目をする目元だったが、通常は黒目がちで、しかも確かに澄んでいる。そしてもっと澄ました感じの鼻筋は、むしろ冷たさを抱かせることもあった。歯並びは子供の頃から両親に気を掛けられ、不自然なくらい整然としていて、ブリッジの面倒臭さを今では感謝してはいるのだったが、でも息子にはさせたくはない、と言う。若いころの本人は薄い唇を気にしてはいた。それでも昔から顔の輪郭には合っている。もっとも息子が生まれてからは薄い唇も小さな胸も、もうどちらも気にならなくなったようだ。一方私だが、たとえば息子の保育園なり小学校の父兄が、私が彼女の夫であることを知ると一様に驚かれた。少なくとも完全にはその動揺を隠しきれないまま挨拶された。その度に妻の両親が抱く嘆きや悲しみを理解してやってもいい気がした。
「あなたが大嫌いな私の母親、彼女は今でも年に一度だけ嵌める銀の指輪を持っていて、毎年10月のいつだかに嵌めているわよ。父と知り合う前の、大事な思い出なんだって」
「あのくそババァにもそんなところがあんのか?」
「あなたの気持ちも分かるけど、私の母親なんだからせめて、クソ、くらいは取ってよ」
互いに何もかもがいちいち気に入らない老人。白い髪はいつでもセットされ、高価な無駄な石ころととことん硬そうな鉄屑の輪っかを重そうに嵌めている細く尖った華奢な手。ティーカップを持つときには小指が立ってしまうくそババァ。来てくれるな、と告げていたにも関わらず、父の葬儀に遠方からわざわざ顔を出すと、長女の結婚だけが人生唯一の敗北だ、と私の目の前で震えたものだ。そのとき妹の旦那がこっそり耳打ちしてくれた通り父の遺影が確かに笑っていなければ私は何かを言い返していただろうし、弔慰からではなく敗北者の意地で厚みを増した、抜きに出た香典も突き返していたに違いない。
・・・・・・薄い煙が昇る魔女の指のモデルが、いつの間にか義母の指になっていたのかもしれない、と気が付くと私は密かに驚いた。