千賀の学ランと親父さんのジャケット
小学校の卒業式の日、千賀は一人だけ、私たちがこの四月から通う中学校の真新しい学生服を着てきた。現在の身体よりも2サイズは大きな学生服だった。学ランの袖とズボンの裾を何重にも捲りあげ、顎先は丸い襟元から少しだけ覗く白いプラスチック・カーラーの中へ沈んでいた。殆どの者が紺のブレザーと黒いズボン、あるいは明るい色のスカートの組み合わせのなか、何人かは光沢ある生地のスーツ上下に白ネクタイを締めてもいたが、誰も彼もが近々やってくる真新しい生活を象徴した、胸にある丸い金ボタンの一列がどうしたって一番目立った。
式の日の朝、黒板に卒業を祝うチョークの大文字と旅立ちを意味する鳥の絵が描かれていただけで、たったそれだけで昨日までとは全く違う雰囲気を醸す最後の日の「教室」に人知れず戸惑っていると、何やら千賀が「長ラン、ボンタン」で来た、という噂が流れてきたので、クラスの違った私は友達と走るようにして見に行った。彼は自分の席で恥ずかしそうに顔を赤らめ、でもそれは注目に照れているだけで、決してみんなと違う正装で式に臨む故の羞恥によったものではなかった。結局、誰も彼もの視線は遠巻きのまま話しかけてやる者はいなかった。もちろん彼のクラス担任は口にしたろうが・・・・・・。
日の丸の飾られた舞台横の階段で待機していた千賀の名前がとうとう呼ばれると、若干のざわめきを持ってすでに認知していた保護者や式に参加している五年生たちの大きな拍手が起きた。千賀は自分を呼ぶ担任の声に「はいっ」と応え、堂々と舞台中央へ歩んだ。顔も名前も私は覚えていないのだが、いずれにしろ間違えなく微笑んでいる校長から「以下同文」の言葉と証書と大きすぎる学生服に感じ入る、他の卒業生とは違った笑顔を千賀は受け取った。
たまたま私のいた席から、式に列席していた千賀の親父さんが見えていたので、私はそっちを見た。えんじ色のコーデュロイのジャケットの下は色落ちしたダンガリシャツに黒い石のループタイ。ズボンはジーパンだった。そんな親父さんは、頭の禿げている男親というだけで目立っていたわけだが(私たちのころは父親の列席は皆無だった)息子の登壇で場が盛り上がると顔も頭も赤くなり、息子の晴れ姿を直視してはいられなかった。
「・・・・・・あの野郎」
みたいなことを自分の足元へひとりごちた。本当に、親父さんはどれほどうれしかったことだろう。
中学に入ると、私は今後三年間を過ごす上で必要なポジション取りに勤しんだ。そうしているうちに、いつからか胸の中で燻っていた、尖る小さき何かがおもいっきり開花して、特定の先輩以外には殆ど誰からも、したいことややりたくないことを強く阻まれるようなことがなくなり、イライラするでもない満開の花は散らずに咲き続けあっという間に卒業がきた。そのときふと、突然に私は千賀を思い出した。でも彼はどのクラスにもいないような気がして、それでいちいち全部のクラスを回った。彼は七クラスのどこにもいなかった。そしてまた彼を覚えている者も少なかった。少ないうちの一人が教えてくれたことには、一年生の夏休み前か休み中に転校したはずだ、という。
あの黄色い土地のアパートもすっかりなくなっていて、今は新築住宅が何軒も建ってるよ、と言った。楽勝の先輩の名前を出され、教えてくれた本人もその中の一軒へ、学区内の引っ越しをしたらしい。私たちが三年生になったのときの春だった。
私は消滅した黄色い土地をわざさわざ見に行くことはしなかったのだが、もし千賀が今もこの学校にいたら親父さんと相撲すんのか? と聞いたろうな、とだけ思った。もちろん高校を卒業するときも同じことが頭を過った。というか思い出していたと思う。ただ大雪の降った成人式の日は間違いなく忘れていたし、父は息子が生まれる前に尿瓶を溢れさせ鬼籍へ入っていたので、もう一つの世界でじっと待ち構えていた息子がひょっこり妻の腹の中へ現れたとき、私は当然父を思い出した。しかし相撲を云々などは微塵も思い出さなかった。
妻と息子が家に帰って来た日の夜に「引っこ抜いたビワの残りは全部俺が持っていってやるからな」と言っていた父の口癖を思い出したことは今でもよく覚えているのだが。