花壇に座っていた妻と下着泥棒 1
居間から聞こえた物音と息子の右腕で点灯していた三つ目のバックライト。直後にドア・ロックを掛けたままの状態で玄関のカギ穴が回わる(私の耳にはハッキリと聞こえたのだが)緊急事態。不測の重なりに動揺してしまい、玄関ドアを開けた勢いのまま、大袈裟に言えば「水が腐る」ほど久しぶりだった肉声での夫婦の会話、というか挨拶の延長程度が尻蕾で途切れ、私たちは一度互いの部屋へ引き上げた。
しかしこのまま今夜を終わらす気はどちらもさらさらなくて、息子が小学校を卒業した日の夜だからこその夜に導かれ、そんな夜に首根っこを掴まれ、それぞれ着替えを済ませると再びキッチンの大きすぎるテーブルで向かい合っていた・・・・・・。
今夜は一度しかない、という意味を持ち帰った五分ほどのブレイクを取ったことで、そして証明のしようのない細やかな現象がもたらした「勢い」がもうどこにもないという状況下で、家庭内疎遠状態の妻と向かい合うとさすがにとんでもなくぎこちの悪さを感じずにはいられない。
・・・・・・もう十二年以上も前のことだが、子供が生まれて三カ月後くらいだったはず。出産の祝いで家に遊びに来ていた私の妹が、すっかり昼寝をしている息子を見ていてくれると言うので、私たちはランチを食べに近所のファミレスへ行った。産後初めて「二人きり」になる時間だった。
羊水の中で臍が繋がり、やがて深夜に破水してから五時間後に「あぁ、やっとか」と微笑んだ妻は、その後も一切実家に帰らずにいた。
駅周辺の店まで自転車で移動しているとき、妻は人生に於ける新時代を象徴した赤ちゃんからの一時の解放を大いに感じていた。どことなく「これまで」の表情に戻った感のあった妻と自転車を並べ走る私もいくらかの解放感を共有していたと思う。しかし、どうしたわけか係りに案内され席へ着くなり私たちは面と向かうと気が付いたのだった。視線の逃げ場がないこと、どんな会話にも経験したことのない気恥ずかしさを聞き取ること、またこちらが口にしていることを実感したのだ。息子へ、半分ずつ、あるいは何割かずつ命を分け与えたことで私たちは、それ以前の何の違和感もなかった「これまで」の繋がり方を失っていた・・・・・・。
私は今、あのときとよく似る、しかしかなり出来の悪い異母兄弟的なぎこちなさを感じている。肩まであった髪を知らない間に耳が隠れる程度まで切っていた妻は、もともと薄い化粧をすっかり落とし、白いニュー・バランスのジャージ上下に着替えていた。
私は横目で久しぶりの妻を改めて見てみた。
・・・・・・確かにこの女が自分の妻ではなく顔を見知っているだけの関係であるのならば、私は誰にも知られず、そして注意深く、頭の中にもある「現実」との隙間に展開し得る「非現実」のそこで熱を上げるだろうな、と思った。私の様な男の手では決して届かない、抜きに出た美しい「女」か「人妻」だ。
仮に私のこの妻が隣近所の住人でときどき挨拶を交わすような間柄だったとする。私は間違いなく下心を抱くだろう。しかし挨拶以上の素敵な展開を望むのであれば、それは性犯罪の一線を越えるしかない・・・・・・でも私には(誰が見ても私と釣り合う)妻がいて、年頃でだらしのない息子が一人いる。だから私は頭の中にもある「現実」との隙間の中で、まずは妻(つまりここでは隣近所の人妻)の下着を手に入れるのだ。私は「非現実」の真っ昼間に忍び込んだ彼女の家の庭に干されている洗濯物の中から女物のボクサーを選び嗅ぐ。それはピンク色の迷彩柄。そしてそれは・・・・・・いや、しかしそれは、いつだか家の風呂場の洗濯籠の外に落ちていた。発見した時ピンクの迷彩柄の靴下であれば何の抵抗感なく拾い籠へ入れていただろう。しかし実際は自分の妻が一日中履き続けて脱いだ下着だ。私は足で摘まみ入れることも憚った。見ない振りをしたってわけだ・・・・・・よく晴れた日の他人の家の庭先で、普段より半音高い心臓の爆音が顔面に鳴り響く私はピンク色の迷彩を狂ったように嗅ぎながら、ワナワナ膝を揺らしながら、一生に一度でいいから、無形文化財であっていいはずの素敵な女の、この、この、ど真ん中を直接嗅いでみたい、口を付けてみたい等と夢見て、清潔な洗剤と罪のない日向の匂いを鼻孔から脳みそへと吸い込む・・・・・・。
私は知らなかったのだが、あの日以来妻は断酒しているらしく、言い分を信じるのならば当然今夜も断っていたそうだ。
卒業生の母親集団が今なおマインドに燻る女学生のころに戻って盛り上がった(クラスの誰それ君がカッコイイ、誰それさんがカワイイ、先生の誰それは痴漢の気がありそう・・・・・・等々)二時間ばかりをソフトドリンクで費やしていた、と言う。
その後は「ホスト」行きと「カラオケ」行きとに別れたらしのだが、妻は特に仲の良かったママ友三人で深夜営業をする喫茶店でお茶をしていた。私のピューロランドからの3DS破壊行為、そして以降の家庭生活の愚痴を聞いてもらおうとしたのだ。しかし、思ってもいなかった事態が起きた。気の許せるママだけになると一人が泣き出してしまい、結局は聞き役に徹したらしい。
自分の愚痴と彼女の吐露を比べることは出来ないだろうが、彼女の身に起きた出来事は、結局誰も悪くないのに自分なんかよりよほど辛いものであったそうだ。少なくとも恨む対象が人間であるだけ「わたし」は救われている、と思えてしまった、と妻は言った。
外から他人に叩かれたり、時として「わたし」や身内が内側からキー、キー、引っかいてしまう、酷く煩いドアがそれでもあるだけ「我が家」はまだマシ。彼女の家は突然にドアそのものを失ってしまったようなものだわ。人間だったら「ドア」だけを奪うなんてことはしないわよね、しかも死ぬほど突然にさ・・・・・・。
妻の話はそこで終わった。私もそれ以上の詳細を聞くことはなかった。目を合わせない妻は飲みかけていたペットボトルの緑茶を無駄にいじってはときどき口に運んだ。普段、灰色の無地のスエットパンツとえんじ色のコンバースのパーカーで寝ている私は、そのかっこうで氷だけをグラスに入れ齧っていた。私の口の中で氷のひとかけらが割れると、右奥歯の解放感と共に軽い音を立てた。
「私に遠慮せず飲めば?」妻は私の目を見た。
始まったのだ。妻は始めたのだ・・・・・・。
いや、いいです
私は手元のスマホをいじりLINEで答えた。妻は着信を知らせた自分のスマホを見て少し笑った。
・・・・・・私は隣近所にいる、とんでもなく素敵な「人妻」の下着に手をつけてしまったことを一時は後悔する。しかし直接的な暴力犯罪ではなかったんだ、と不屈の下心は開き直ることだろう・・・・・・。
「ねぇ、玄関で何してたの?」抑揚のない声がした。
「・・・・・・」
「ずっとそこにいたでしょ?」
隣近所の人妻であれば、私に下着を嗅がれている妻は「ドア」を叩かなかったが、私は「内側」から引っ掻かいていた、ということになるのだろうか?
・・・・・・私は出来の悪い息子が学校から持ち帰った「笹の葉」に心からの短冊を一枚書きたい、絶対に叶えてもらいたい願いを吊るしたい、と思っている途中でスマホを手にした。
私は頭の中の隙間を悟られぬよう、忙しなく指を動かしたが、それは画面に触れてではなく空中だった。 私はスマホをテーブルの上に伏せた。
「何で?」
「ずっと花壇に座っていたから分かってたのよ」
「何で分かる?」
「あなたが外にいて私が中にいたとしてもきっと分かると思うわ」厄介なことだけど、と言いたげなまま言葉は切れた。
「・・・・・・」サンダルを踏みつけようとしたとき、音を立てたからだろう。
「・・・・・・」
「そっちこそ何でそこにいたんだよ?」
「・・・・・・」妻は答えずに私の頭の上の方をじっと見た。
「・・・・・・」
「きっと開けてくれると思っていたから」
私の頭の上の方で何を受け入れたのか、妻は改めて私の目を見た。黒目がちの瞳の中に私は映っているはずだが、私はそれほど強く見返しはしなかった。
「・・・・・・でも自分で開けることにした?」
「・・・・・・?」妻は首を振った。
「だろ?」鍵を差したよな?
「いいえ、あなたが開けてくれたじゃない?」
「お前、鍵を差しただろ? ドア・ロックしてたから慌てたんだ」私はうっかり白状してしまった。
「・・・・・・やっぱりそうでしたか。でも結果的には開けてくれたわけだ」
おそらく妻は人生で一番がっくり肩を落とした。溜息とともに両肩の関節が外れたように見えるほどだった。
「・・・・・・」誘導尋問だったのだろうか?
「・・・・・・」 妻は俯いたまま、右手を左肩に当てた。本当に肩の具合を確かめたのだった。