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ドア・ロックアームと足元を冷やす春の夜 1


 二杯目のロックを飲み終わり小便に立ったとき、今がピークを迎えているのだろう、心を覆う真正直な闇の会話と共に玄関のドア・ロックアームを凝視した。どこかで燻っていた禁忌の火種が、抑えがたい心の表面へとその存在を誇示してきたからだ。やはりどうしたって間違っている、との認識を持ったままに・・・・・・妻は毎晩、内側から鍵をかけるときに同じことを考えているのかもしれないと思った。家中の電気を消して二階へ上がり、必ず鍵をかけている息子の部屋の前で「おやすみなさい」と声をかけ、まだ声変わりには程遠いい声色の生返事が返ってくる。そして滅多なことでは充電を怠らないスマホの電源を切り、自分の部屋の明かりを消す。するとそのうち家の固定電話が鳴るだろうが、寝入った振りをし、あるいは本当に寝入ってしまう。下のキッチンで電話が騒いでも夜更かしの息子は反応しないだろう。おそらくは母親の意図を、純粋なうっかり、と勘違いし、故に夜中の電話の呼び出し音を清々しく楽しむ・・・・・・トイレから出ると自分のクロックスを履いたまま玄関に腰を下ろし、ボッチに引っかけたばかりの細いスチール製アームを見つめた。全面的な意図を象徴する、その無機質な棒を凝視していると徐々にだが、しかし確実に、足元を冷やす春の夜の玄関はまるで自分の心の中のような空間に思えてきた。闇の奥へ辿る近道は、少なくとも光の先を訪れるよりも格段に容易く開拓できるものだ。


 それにしても、小さな金属音を立ててやる前からすでにハッキリと内なる声が聞こえていて、私はその声に抗っているのを酔いとは別に自覚している。私はそのまま部屋に引き上げる決断が下せなかった。


 大型テレビの画面よりもっと大きな下駄箱の中には全く不必要な(主に妻の)数の靴がしまわれていて、上面には余計な物が置かれず広々している。私の家のカギと車と三台分の自転車の鍵と、認知している限り二本目となる息子の家の鍵がなんとなく一か所に固まっている。後はちょうど真ん中辺に、ロールパンくらいの黒と赤と一回り小さい黒のガラス細工の出目金が三つあるだけだ。私は私と思しき大きい方の黒い出目金を掌に持ち玄関の上がりかまちへ座ったままじっとしていた。家の中も外も同じ静けさで繋がっていて、そのことに鼓膜が改めて気付くと頭上の電気も階段の電気も消してみた。キッチンのドアが半開きしていたことで、私のいる玄関は、過去の幸福から身を潜めるに適した暗闇とはほど遠い薄暗さだったからか、更にもう一つの案をガラスの出目金は産んだ。

 心の代理的空間は私が思っていた以上のリアルを備えていたというわけだ・・・・・・そう、この空間は紛れもなく私が自分で手に入れた。子供の頃には、たかが玄関にこれほどのゆとりを持つ家に住むことになるとは想像も出来なかった。そのうえ「よそよそしい」匂いに満ちている。無駄な靴はもっと心の奥(下駄箱)にしまわれていて、今は限られた対象しかそこにはない。

 真ん中に転がっている息子のナイキを、春の夜の寒さ伝わる足で脇へ払った。そして「いいか、よく見てろよ」と呟いたのだ。

 左側の端で揃えられている妻のビルケンを手に取り自分の足元へ並べた。真剣な気持ちで、深いところからの気持ちで、強く踏みつけてやろうと考えたのだ。足元のコンクリートを割り地面の土の中へ押し込むほどの強さで踏みつけてやりたかった。私はきっと息子の前で妻に手を上げたい気持ちに満ちているのだろう・・・・・・でもしかし右の踵を上げたまま躊躇っていると、すぐに太腿の裏が張り出し、最近はよくポキポキ鳴り始めた膝も疲れてきた。私は座ったまま25㎝の革のサンダルの上で静止している右足を両手で支える為に出目金を尻の横へ置いた。

 ここは代理的空間であっても、今尚憎々しく許しがたい同級生が生き生きと登校する小学校や中学校の下駄箱ではないし、カッとする何かしらの出来事を投げつけてくる街中でもない。だから闘犬に股間を噛み切られちまえ、と言えず苦笑いして謝らなければならない見ず知らずの若者はいない。


 そもそも誰かの靴を踏みつけるのは、本物の心の中だけでする行為だろ? 


 語り掛けてきたのは、初めから特に愛情を感じてはいないガラス細工の黒出目金ではない。アームでロックされた白い玄関ドアの向の夜道を通り過ぎる、尖ったヒールの足音だった。四の五の語り掛けてきたようなその足音は不意に聞こえ始め右から近づき左の方へ遠のいた。いつか遥か遠くで聞いていた白杖の音を蘇らせた。苦くて嫌な、取り戻せない失態の記憶。

 私はヒールの音が聞こえなくなってから右足を支えていた両手を離した。クロックスはビルケンを避けて、パンッと乾いた音を立てた。

 現実的な時間と、堆積していた人としての影の時間を相殺する、腸からの溜息が一つ漏れた。私は尻を上げて出目金を元の場所へ戻した。

 薄暗がりのなか埃のない空白にキッチリ戻すのは難しかったので頭上の電気だけ灯した。何か言いようのないひと山を越えた気分だったが、それでも私はロックしてあるアームを解除しはしなかった。

 このまま自分の部屋へ引き上げでもしたら、どうなるのか予想出来たし、その予想は間違いなく確信と呼べるものだった。サンダルこそ踏みつけはしなかったものの、妻を締め出す行為は悪戯や意地悪ではない。そしてまたこれが、これまでの大小様々な波風への起爆剤となるわけでもなく、このこと自体で私たちの仲は、つまり息子を含む家庭は崩壊するはずだ。


 この一年半の間、様々な思いをため込み続け、何も消化することなく、取りあえずは一人息子の小学校卒業を無事に迎えさせた今夜の妻の掌が、突然人生を区切るドアの抵抗を感じる。

 息子が居間のソファーで寝ていることなど知らず、家の中のどこかにはいるはずの彼のスマホかドア・ベルかキッチンの電話でどうにか玄関までこさせると、ママ友と笑い転げたほろ酔いも若いホストとの妄想だったり約束だったりはわけなくふっ飛んでしまうだろう。妻は、いよいよ時が来た自身の覚悟になど怯まず、一瞬にして他人になった男の家の中に入ってくる。または協議次第では他人がいる、ということになる中古の戸建に戻ってくる。一人息子を想い、自分は毎晩我慢している行動を夫はしでかした。軽々と一線を越えたのだ、と頷きながらも、母親は強くある為に愛する息子へあらためて「卒業おめでとう」と言うはず。そして息子が許してくれようと、くれまいと、そんなものは構わなく、最低でも旋毛にはキスをする。

 私は翌朝に、最近出来たばかりの新しい恋人の赤いGTRの助手席から妻へLINEすることになる。


 そういえば、昨夜はいつもの癖でついうっかりしていたと思う。すみません。





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