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茶巾寿司とエクレア 2

 

 列の先頭には会計をしている年配の夫婦がいて、色違いのフリースとニット帽子を揃って身につける彼らは金額の端数を揃えようと、互いの財布にある小銭に手こずりもたついていた。自分の並んでいる列でないのならそこそこ笑える話だろうが、正直そんな程度でも苛つくものだ。もし私の前で順番を待っている、後ろ姿は間違いなく素敵な三十代くらいの女の買い物かごの中に、フードパックに詰められた二個入りの黄色い茶巾寿司を目にすることがなければ、結局は自分自身も不快になることを承知しながら間違いなく舌を鳴らしていたと思う。緑色の丸い制服帽を被る、ふっくらした色白顔の、黒目の大きい孫のようなレジ係りへ訛りながら謝り慌てる年配の夫婦を煽るように。そしてまた女子高生か女子大生であろう、人のよさそうな若い女へ無意味な威嚇も兼ね、嫌悪感のある言葉をよく転がすようになってしまった私の厚い舌は大きく、複数回は鳴ったはずだ。

 ・・・・・・食べた記憶はない。どこかで、つまりこれまでの人生で、赤い小さな無頭エビが頂きにある薄焼き卵に包まれた、干しシイタケやニンジン、たまにアナゴ等を混ぜ込む拳大の酢飯を一度も食べたことはない、とまでは断言できないのだが、この時も掌に感じる見た目の重さがなんとなく想像できるくらいだった。

 おおよそ害のない感傷的な痺れをやや感じるにまかせ何も思い浮かばず、どこかにはあるはずの過去の時間や経験等が的へと直列する気配は微塵もなかった。

 

 小銭の撒かれる賑やかな音がして、私の前でスマホをいじり静かに待っていた、茶色い髪をアップで束ねる茶巾の女は春色のコットンパンツに下着の線を浮かべた肉厚で幅の広い尻を、すっとしゃがませた。もたつく年寄りの財布から逃走した硬貨の何枚かを拾ったのだ。

 私のスニーカーの先にも五円玉が一枚転がってきたが、そんなもん拾いたくはない。

 レジの中から孫も出てきて、小銭の派手な逃走現場に立ち会い年寄りの焦った気持ちを一緒に回収した。彼女はまるで自分の失態であるかのように、私と茶巾の女へ頭を下げた。

 茶巾の女は自分が拾い集めた何枚かを老婆の財布に直接入れてやり、訛る老夫婦とレジの孫から丁寧な礼を言われた。女はいくつものピアスが縁に沿って縦列する薄い耳から赤いイヤフォーンを抜き、シャカシャカした音を首にかけたまま無言で首を振った。おそらくは微笑みながら・・・・・・まだそこら辺に落ちてはないだろうか、とこちらを振り向くと私の足元に一枚を発見してしまった。春色をした幅広の尻は心持目付きのきつい、なかなか素敵な女だった。私へ一瞥することなくもう一度しゃがもうとしたので、さすがに私は自分で拾ってやった。こっそりどこかへ蹴ってやってもいいくらいだったのだが、でも私は年寄りがばら撒いた五円玉をレジの孫に渡してやったのだ。

 何をどれだけ買ったのかは知らないが、結局老夫婦はレジの孫に財布を預けてようやく清算を終え、茶巾の女は何事もなくあっ、という間にカードで支払いを終えた。

 ようやく私の番が来て二割引きのかつ丼とエビスビールの500ml缶一本だけの支払いを済ませると、レジの孫は「先ほどはお金を拾ってくださり、ありがとうございました」と茶巾の女に掛けた同じ言葉を雨の上がった空のような表情で私にも言った。箸の必要を問われたとき、潰れたネジよりも心ない顎先で憮然と断った、そんな私にも彼女は丁寧な礼を言ったのだ。

 人の弱さを知る人間が、臆病なくせに高圧的な弱者と同化せぬよう生きていくうえでの武器を突き付けられた私は、そんな武器を放棄した私自身と対面させられてしまい、彼女が自然な感覚として信じながら育ってきたか、思春期の孤独に打ち負かされぬよう育てられてきたに違いない黒目がちの目から、目を逸らさずにはいられなかった。

 そんなわけでまじまじ見てやる立派な若い胸ではないレジの孫の胸元に視線をやった。すれ違うだけの客に対し、過剰なマニュアル以上の誠実さを持っている、膨らみのない胸に付いていたプラスチックの名札が目に入った・・・・・・彼女の、あくまでやや微妙な程度にだけ珍しい名前は、私の胸の内の魔女の指先に上る、霧よりも遥かに薄い煙をおそらくこれからはずっと消さなくした。「忘れても全く構わないはずの記憶」を、ともすれば仕組まれたのかもしれない、偶発的な一件から発見したのだ。今日を境にもう二度と「彼」の名前を忘れることはないだろう、と思った・・・・・・。





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