こっちのババァの湯とあっちのババァの湯~出征場所~
彼の父親は決して大きな身体ではなかった。どうだろう? 背丈は160㎝前後だったと思う。私の背がちょうどそんな程度になっていたとき、彼の父親と同じような目の高さで行儀よく返事をしたり、恥ずかしそうに首を捻ったりしたものだ。
湯にあたり赤々する不毛の頭頂部を頂く卵型の顔の輪郭は親子そっくりで、息子よりも作為のない微笑みを常に穏やかなまま保っていた。しかし全身の筋肉は鋼のようだった。立派な幅こそない小さな肩であったのだがこぶのような筋肉は盛り上がっていた。上腕二頭筋には拳大の石ころが埋まっているようだったし、肘から下はくっきりと縦に走る凸凹が常態していて、激しい川の流れで削られた観光名所の岩肌を想起させる。手の指はどれも硬い木のように節くれ立ち、甲には太い血管が何本も浮かんでいた。毛の少ない胸板に厚みなかった。それでも四角い胸筋の形ははっきりしていて、スピード感に満ちた。腹筋はそれこそ岩畳ですか? の感で六つに割れている。どこにも一切の無駄はなかった。短い脚の太腿は幾らか普通に見えたのだが、脹脛にはやはり固い溝が走り、手の甲よりも余程太い血管が青々浮き出ていた。むしろ静脈瘤の気があったのかもしれない。また背面だが、それは見事だった。肩甲骨の辺りで細かくシンメトリックした隆起は、痩せている野生動物そのままの雰囲気があった。食事とマシーンで鍛える内側から盛り上がった美しさではなく、労働により削り取られた鋭さだった。下の毛に白いものが数本確認される一方、尻は間違いなく跳ね上がっていた。そんな大人に対して、たかが中学を卒業したばかりの息子が相撲で勝てるわけがない・・・・・・いや絶対に無理だとは言い切れないのではないか? 相手は更に三年の月日をおそらくは下るのだ。そして我々はむしろ勢いよく駆け上るはず。
「そこでも、もし負けちゃったら今度は高校卒業場所」
「・・・・・・」お前が今後どんな部活をするかによってだがその頃は完全に五分以上だろ。
「その次は成人式の二十歳場所」
「・・・・・・」
「もしもまだ勝てないでいたら最後のチャンスは最初の子供が生まれたときの初孫場所。そこでは何が何でも絶対に勝たなくっちゃいけないんだ。父親を負かさなくてはいけないんだよ。親の為にも子供の為にも勝たなければならないんだって。でも勝負所はやはり高校卒業場所だよね?」
「・・・・・・」初孫場所まで続いていたら、それは八百長だぞ。
そこで私の心は完全に、というか勝手に動いてしまった。
「双葉山の連勝記録っていくつか知ってる?」相手のいる独り言に慣れた千賀は呑気そうに聞いてきた。
「お前の親父も、親父と相撲したのか?」第35代横綱双葉山定次の連勝記録が69だったくらい知っている私は、そんなことよりもお前にとって、あるいは我々息子にとって重要な疑問を口にしてしまった。
「えっ? うん。お父さんは庭にぶん投げられて負け越したままなんだって。まだすごく小さかったしお父さんのお父さんは結構厳しい人だったらしいから」
「お父さんのお父さんって、お前のじいさんってことだろ?」
「昔の海軍の人だったらしいんだ。出征する何日か前の取り組みだったから出征場所って呼んでる」
「・・・・・・そうなんだ」私は自分でもよく分からない気持ちのまま何度か頷いた。
私との会話に慣れていないはずの千賀は、しかし余裕をもって微笑んだ。
「双葉山って69連勝したんだ。すごいよね?」
「って言うかお前のじいさんってどの船に乗ってた?」
「青葉。知ってる?」
「もちろん知ってるよ。プラモで売ってんじゃん。でも確か青葉って最後まで生き残った戦艦じゃなかったか?」
「・・・・・・そうらしいけど、俺の家では船だけが、ってことなんだよね」
「なるほど」私は自分の言葉に後悔し、湯舟の湯を何度か掬い足元のタイルへ撒いた。
「プラモデル、何か持ってる?」逆に千賀が気を使ったような気がした。
「あっ赤城」そんな私は咄嗟に嘘をついた。
私の持っていたプラモデルは「量産型ザク」だけだ。しかも最終的に完成させたのは今夜もほろ酔い加減の父だった。果たしてどのあたりで投げ出したのかはもう覚えていないのだが、とにかくそんな私を父は小ばかにし、妹はあり得ない無駄遣いだ、と腹を立てた。私は二人へ逆ギレして、もう二度とプラモデルを欲しがりはしなかった。そしてまた私が本当に欲しかったのは空母だったのだ。出来れば「赤城」。じゃなければ「加賀」「蒼龍」「飛龍」なんでもよかった。しかし一時、学校でプラモデルと言えば「ガンプラ」だったので、私自身の意に反しクラスで流行り始めた話題の中へ流されてしまったのだった。
「へぇ、いいな。俺一つも持ってないんだ。大和とか武蔵とかかっこいいよね」
「何気に伊400とかもいいけどな。潜水艦なのに戦闘機積んでたんだろ?」
「うちって、ほら、なんて言うか、まぁそんな感じだからしょうがないんだ」顔も尻もすっかり茹って赤くなっていた千賀が嘘をついていることが私には分かった。いくらなんでもプラモデルの一つくらい買ってもらえないわけがない。
彼は時世がどうあれ「父親」を奪われてしまった上に、まとまった思い出すらなく生きてきたことになる親の心情を気遣いねだることをしなかったに違いなく、だからと言って、たとえばチャラチャラしたカウンタックだったりミウラだったりを欲しいわけではなかっただけの話だろう。
確かに「ガンプラ」は流行っていたし全く興味がなかった、というわけでもないのだろうが、千賀は「戦艦」以外のプラモデルを手に入れたら、余計に「戦艦」を欲しくなってしまうことをちゃんと自己分析していたのだと思う。私にはそのことがはっきりと分かった。私の母親は常に化粧という化粧をせず、またまともな洋服と言えば喪服以外に持っていなかった。化粧をしたり新しい服を買えば何が何でも長年欠けたままになっている前歯をどうにかしたくなるに決まっているからだ・・・・・・。