こっちのババァの湯とあっちのババァの湯~二度と嗅ぐことのないペンキの匂い~
小学校の卒業が近づいた、あのそわそわする時期に千賀とバッティングした。おそらくその日が風呂屋で彼と会う最後の日になったのだろうと思う。と言うのもその頃、つまり小学校の卒業が迫っていた頃に、元々風呂屋とは全く別のところにあったコイン・ランドリーと併設するコイン・シャワーなる施設が現れ、100円で五分間シャワーを使えるようになっていたのだ。
・・・・・・中学に入るとそのうち何となく周りからの影響で自慰行為を覚えた私は、相変わらず妹と隣り合わせで寝ていたので、風呂屋ではなくコイン・シャワーをどちらの用途として利用するようになったからだ・・・・・・。
洗い場の風景画が塗り直された直後にしばらく漂う、青すぎる富士山と青すぎはしない凪いだ海の、あのペンキの匂いを嗅ぐ機会はもう二度となくなったわけだ。それは千賀と風呂に入ることとは比べようもない寂しさだった。早い時間に一人で行くようになった妹がペンキの匂いを自慢すると、私は余計意固地になった。何はともあれ、そういう年頃に差し掛かっていた。
あの日、私たちは向こうの風呂屋で鉢合わせた。
私は卒業式に向け散髪をしていた。母親は散髪した日はお風呂で髪を洗うものだからとにかく行け、行け、と言い張り、私はもちろん床屋で最後に洗ってもらったので必要ない、と抵抗した。今日は鉢合わす「危険日」だったのだ。それでも散髪をした日には必ず身体を洗わなければ、下の毛が生えなくなるという迷信が田舎にはあるのよ、とその場ででっち上げたはずの話で私を追い込んだ。普段は父に、余り適当なことを言って怖がらせるな、と言っていた母だったが、そこそこ言うことを聞かなくなってきていた私に対する、効果的な禁じ手を使ったわけだ。そんなわけで私は強い「風」に吹かれながら、起るべき事態の予感を抱えたままアウェーへ出向いた。
理屈など無く下駄箱で確信を得ていたから、髪を洗っている千賀を見つけた時は驚きもしなかった。しばらく気が付かなかったようだったが、そのうち千賀は隣の洗い場に移動してきて、相変わらず私に無視された。
身体を洗い終わった私が湯舟の縁へ腰かけ水を流しているとき彼は42℃の湯の中でうつ伏せに身体を伸ばし、初めて私が興味を持つようなことを言った。
「お父さんと相撲取ったことある?」
今頃は、私と変わらぬ小汚い尻になっているのだろうが、あの頃は他所を向く毛や赤い吹き出物ひとつない静かな白桃を水面に浮かべていた。
「・・・・・・」私は、ヨ~ソロ~っ、と心の中で呟き、豪快に冷水を流す蛇口を止めては開きを繰り返し、取りあえずは無視した。
「俺、卒業式の日にお父さんと初めて相撲するんだ」
「・・・・・・」
「入学した日に約束していたんだ。でも六年間なんてあっという間だったよね」
「・・・・・・」
「勝てるかな?」
「・・・・・・」勝てるわけがない。彼の一言は、どれほどこの話を聞いてもらいたいか、話したいかを示唆していて、だから私は興味を持ちながらもなおさら無視してやろうと決めた。
「何でお父さんとそんなことするか知ってる?」
どうあれ一方的に話してやるぞ、と宣誓しやがった、と私は向こうの壁にかかる、見る必要のない時計をわざと見ながら面倒臭そうに笑ってやった。
「国技だからなんだ。だから息子と父親は相撲を取るんだよ。知ってた?」
「・・・・・・」知るわけねぇだろ、バカ。
「本気で勝ちにいくつもりだけど、負けたら次は中学を卒業したときにするんだ。つまり中学卒業場所で再戦」
「・・・・・・」だったとしてもまだ無理だろ。
私は思わず、心の中では素直に反応していた。