潜伏キリシタンと家族の臭い 2
あからさまで口にすることはなかったのだが、良くも悪くも私たちはその特異な家族構成を意識していた。「父親がいない家庭」と「母親がいない家庭」の違いは、同級生として認識し受け入れる易さは段違いだった。他にはいない、自分に置き換える想像すら出来なかった彼の生活環境に戸惑い、それでどことなく差別していたのだろうし、また逆に追い込むこともしなかったのだろう。千賀と同じクラスにいる私の友達が言うには、彼の細やかな持ち物が棄損されることはなく紛失もなかった。授業中に回される手紙にも彼の名前や家族構成を示唆する隠喩は現れなかったらしい。
・・・・・・もし彼がいなければ学校生活に於ける各自の精神はもっと安定したろうが、元々は不安定な成長過程にあるだけの「安定」なのだから、いつかは必ず、自重によって底が揺れ始め、気が付いたときはすでにサイコロは振られてしまっていて「目」の揃った誰かがターゲットになっていたはずだ。それらを鑑みると図らずも彼の存在が、少なくとも私たちの学年でのいじめ問題の発生を防いでいたのかもしれない。
それにしてもあいつは微笑んでいた。いつだってニコニコしていた。誰からも相手にされないにも拘わらず、もちろん攻撃もされていなかったわけだが、果敢に話しかけてきた。軽く差別感情を抱かれていることはおそらく把握していたことだろう。しかし悲しそうな表情を見せたことはない。学年が上がるにつけ、幾らかはからかわれることも増えていたはずだが、怒った顔を見せたことはなかった。いつでも微笑み、それは間違いなく誰よりも堂々としていた。まさか自分の孤立に鈍感だったわけではないだろう。迫害こそなかったのだが、余りに屈しない、そしてピースフルな態度。誰の悪口だって口にはしなかった。私のように、個人的には心底思ってはいないけれど周りの雰囲気や話の流れに合わせ、リーダー格への陰口で級友と距離を縮めるような狡猾さは微塵もなかった。
私は潜伏キリシタン(及び隠れキリシタン)のことを授業で初めて知ったとき(それはマザーテレサを知ったときには思いもしなかったのだが)千賀はもしかするとキリシタンなのかもしれない、とやや本気で考えたことがある。奴は「貧乏だから」キリスト教を信仰している、とは恥ずかしくて言えないだけなのかもしれない、と考えたのだ。
日曜日になると、頭の禿げあがった小柄の父親と二人で隣町の教会へこっそりミサに出かけていく。そんな姿を思い浮かべた。そしてまた時代が違えば、奴は決して踏み絵を踏んだりはしないだろう、と確信した。あの親父と二人、全く同じ微笑みのまま一切抵抗せず、訴えもせず、ひょっとしたら英語で讃美歌を歌いながら、手際のいい侍にむしろで巻かれ、重しをつけられ波の穏やかな入り江に捨てられるか白い砂浜に組まれた薪の上で火に焼かれるのだ・・・・・・夜中にそんな想像をしていると怖気づき、嗅いだことのある潮風か、これまで一度も嗅いだことのない圧倒的な量の肉の焼ける臭いを頭の中でありありと嗅いだ。私はとにかく口で呼吸をし、隣で寝ている妹を跨ぎ、染みの多い襖の向こうで寝ている両親の布団の間に潜りこんだものだ。怖い夢を見たと言うと、ゲラゲラ笑った父親の体臭はすでに嫌だったが、母親の匂いはまだ嫌いではなかった・・・・・・入れ江に漂う潮の香も肉の焼ける臭いも、布団の中にあった家族の臭いを凌駕することはなかった。