それぞれの思惑
「外務卿。あの件はどうなっている?」
「はい、陛下。やはり今後の事を踏まえますと……」
アウグストはエヴァリーナと婚約して以来、父のオリヴェル・ケストナー伯爵を外務卿に抜擢した。
もちろんそこにはエヴァリーナに対する歓心を得るという側面も無くはなかった。
一番の原因は今までの外務卿が年配で公務が難しくなっていた事もあったからだが。
アウグストの推薦とオリヴェルの以前の経歴がものをいって障害なくオリヴェルは外務卿になった。
領主と掛け持ちで公務に就くのはこの国では珍しくない。
そしていざ仕事をさせてみれば若干の心配は杞憂となった。
身内びいきという言葉を忘れる程オリヴェルは有能な男だったからだ。
若い時分に海外留学とその後も海外に一時在住をしていた事もあるからか各国の事情にも明るい。
今では王宮に無くてはならない重要な人材だった。
父王は生気が薄く目立たない男だとオリヴェルを評価して遠ざけている節があったがアウグストにはそのような気持ちは無かった。
(俺は父上と違ってこの舅と上手くやるつもりだ。仕事は出来るし、義理の息子になったのだからな)
アウグストの思惑を知ってか知らずか、オリヴェルの仕事ぶりはアウグストを満足させていた。
オリヴェルは時には外交の仕事範囲の領分を超えて相談のできる頼もしい臣下だった。
だからオリヴェルに改めてアウグストは感謝の気持ちを述べる。
「ケストナー卿」
「は?」
「卿の仕事ぶりにはいつも助かっている。これからも私を支えてくれ」
「は。勿論でございます、陛下」
恭しく礼をしてオリヴェルはアウグストの執務室を退出した。
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「エヴァリーナ……私に冷たくはないか?」
「陛下、私はいつもこうして陛下の側におります」
「そう云いつつお前から私に近づかないではないか」
抱き寄せられてエヴァリーナのドレスの上から体に手を這わせている。
夫が妻に対しての行為なのだから別に問題はない。
あるとすれば今は日中で執務中な事だ。
アウグストはオリヴェルと時間を置いてエヴァリーナを執務室に呼んだ。
王妃の処理案件事項とのすり合わせという名目だったが只の口実だ。
実際側近も臣下もアウグストの執務室からは退席させている。
アウグストがこのような時にエヴァリーナに言い寄るのには訳がある。
実はエヴァリーナとはあの初夜以降全くそういう接点を持てなかったのだ。
新婚直後の僅かな仕事の一時停止期間は過ぎた。
お互い多忙な事やエヴァリーナの体調不良も重なっていたのが原因だった。
「何時までも執務室から臣下を遠ざけていては無用な噂もたちましょう?」
「こうでもしないと私はお前に触れられん」
「陛下、陛下と同衾出来ない事は良くお判りでしょう?
ここに子供が居るのですから……」
そう言ってエヴァリーナはまだ膨らんでいない自分の腹にアウグストの手を導き触れさせた。
エヴァリーナは妊娠していたのだ。
あまりに夢中だったのかアウグストは初夜の記憶が若干あやふやだ。
しかし、成す事を成したのは間違いなかった。
女官や宮廷医師にも確認させたから間違いは無い。
「この子が無事に生まれるまでは辛抱ください。この子は大事な跡継ぎなのですから」
「しかし、全くお前に触れてはいけないというのも耐えがたい」
「……しょうがないお方……」
そう言ってエヴァリーナは自分から口づけをした。
しかし、それ以上の事は何もしない。だが不思議とアウグストは少しだけ満足した。
あの王立学園時代の『氷の令嬢』をこの様な行動をとらせる女に自分が変えた事へのささやかな満足感だ。
「私を愛でてくれる事は嬉しいです。でもあなたはこの国の王。国と民の事が優先ですわ」
「……わかった。そうだな」
「ご理解いただきありがとうございます。では失礼致します」
そう言い残してエヴァリーナはアウグストの執務室を去って行った。
残されたアウグストはそのまま執務に入ることは出来なかった。
下手に火を付けられては消さなければどうしようもない。
アウグストは呼び鈴で側近を呼び、その世話をする者を呼びつける様に言った。
執務中にもかかわらずその様な要望を出す若き王に対して、側近は顔色を変えなかった。
申し付けられた通りにそういう役割をこなす侍女を呼んだ。
父王の時代から仕えている側近にとっては別に珍しい事では無かったからだ。
♦
自分の執務室に戻って時間を暫しおいてからエヴァリーナは外務卿を呼んだ。
例え父とはいえ、今では身分が違う。
だが今回は仕事で呼び出した訳では無かった。
家族間の個人的な会話がしたいという事で臣下や使用人を外させていた。
「お父様、わざわざすみません」
「いや……どうした」
「そろそろ限界が近い様です。これ以上は難しい様子なのです」
エヴァリーナはそう云って先程アウグストの執務室での出来事を話した。
オリヴェルが思案に沈む。
「……確かに、我慢がどこまで続くかは心もとないな。あの方に関しては」
「妊娠が判明するまで避けてきた事自体が難しかったかもしれません。
私以外にそちらの世話をする者には困らないから問題ないと思っていましたが」
「かなり早いが……手を打つ時かどうか……」
「……」
「わかった。お前の云う事が正しいだろう。手配をしておく」
「お願いします」
自分の執務室を出ていく父の背中をエヴァリーナは頼もしげに見つめた。
ある侯爵家の子息に偽名で書かれた手紙が極秘に届けられたのはそれから数日後だった。
この侯爵家令息は結婚適齢期にもかかわらず女性と縁を結ぶ事をしていなかった。
その事で領主である父親は息子に対し常々苦言を呈していた。
「ヘルマン、分かっているのか! お前はこの侯爵家の跡継ぎなのだぞ!」
「分かっていますよ、父上」
「なら、どうして私に相談せずに婚約破棄などするのだ!
この前の事も……問題ない縁組だった筈だ。あの令嬢達に不服な所でもあったのか?」
「言ったでしょう。私には真に愛する人が居るのです」
「だから、それは誰だ! 家格の違いか? それとも平民か? 何故云わん」
「今は言えないのです、今は……。ですが、私はその女性と必ず結ばれる運命なのです」
その言葉で侯爵の脳裏にある事が思い浮かんだ。
自分の息子がかつて現王妃に付き纏った過去があるという事を。
「……まさか、お前はあのお方にまだ執着している訳ではあるまいな」
「何の事です?」
「王妃の事だ」
「いいえ」
「分かっているならいい」
そう言って侯爵は胸をなでおろした。
息子は決して馬鹿ではない。現実と妄想の区別くらいはついている筈だ。
だが、王立学園を卒業して20にもなろうとするのに未だに浮いた話一つ無い。
その事は貴族の跡取り男子にとって世間的に人物の実直さを示すものとは取られない。
寧ろ次期領主としての自覚の無さを示す事であった。
「とにかく! これは当主命令だ。近日中に謝罪に行け!
婚約破棄など無かった事にするのだ。心から謝罪すれば許してもらう事も出来よう。
私も同行するからな」
荒々しく扉を閉めて出ていく父をヘルマンは即座に脳裏から追い出した。
自室に戻り引き出しの中に大事に保管していた手紙を取り出した。
(ああ……やはり私の情熱はちゃんと届いていたのだ)
学園を卒業してから想い人と接触できなくなり困り果てていたヘルマンに、ある時光明が差した。
向こうから極秘にメッセージが届いたのだ。
以後、不定期だが絶え間なく届く様になった。
手紙は読み終えたら逐一処分する様に指示されている。
彼女の高貴すぎる身分から当然であった。
ヘルマンは文章を脳裏に焼き付けて手紙を父の灰皿の上で焼却した。
無論、父に返した返事は嘘である。
「誰も真実を知らないんだ。私と彼女は密かに愛し合っているという事を。
待っていてくれ。私は今、君を迎えに行くよ……」