即位と婚約
「……何だと?」
王太子専用の執務室で自分の裁量の範囲内の仕事をしていたアウグストはその報告を聞いて固まった。
呼び寄せた王宮秘書官の口から信じられない言葉を聞いたからだ。
エヴァリーナが父王陛下の側妃となるという内々の決定事項である。
「馬鹿な! 彼女に関しては俺が父上に話を通していたはずだ。
なのになぜそんな事に……」
「国王陛下の決定です」
「ふざけるな! どういう事になっているんだ!」
(冗談じゃない!)
何処の世界に息子が愛した女性を奪う父が居るのか。
このような気持ちになるのならばさっさとエヴァリーナを手籠めにしておくべきだった。
彼女を傷つけても手に全く届かなくなるよりも遥かにマシだ。
アウグストは自分の執務室を飛び出してヴィルヘルムの元に向かった。
しかし、今は国王は謁見の間で異国の客人と謁見中ですぐに会う事は出来なかった。
臣下が止めるのも聞かずに父王の執務室に入ってじりじり時間を過ごす。
待っている間、父の執務室の書類をかき回す。
すると今度開かれる議会についての草案が見つかった。
そこに書いてある一文に自分の目を疑う。
『ケストナー伯爵令嬢エヴァリーナの側妃への認可』と書いてある。
アウグストはその書類を破り捨てた。
1時間立つ頃にようやくヴィルヘルムが執務室に帰って来た。
国王は自分の執務室に居座る息子に殊更王の立場を強調して対応した。
「ここで何をしている、アウグスト」
「父上こそ何をしているのか分かっているのですか!」
「何の事だ」
「分かっている筈です! エヴァリーナは私が自分の妃と望んだはずです!」
「……色々と状況が変わったのだ」
「何がです!」
「アウグスト、お前もわかっているだろう。以前から考えていた事だ。
諸外国との付き合いには独り身では中々体裁が付かないことがままある。
特にここ最近は帝国の来賓も多いしな」
この王国は云い方が悪いが帝国の属国という側面があった。
帝国と反対側の王国の隣には悪質な軍事大国が耐えず王国との国境で緊張状態を生み出していた。
いわば帝国はその軍事大国から王国を守るための武力であって潜在的な主人とも云える。
軽々しく扱っていい客では無かった。
「だからと言って、なぜこの時、そしてエヴァリーナなのです!
父上が望めば他にいくらでも相応しい者がいるでしょう!」
「家格や立場が相応しくても王族として迎えるには色々と難がある。
既婚者を側妃として奪う訳にはいかないだろう」
過去の自分を澄ました顔で否定して続ける。
「王族がそう簡単に妃を決められないのはお前も知っている筈だ。
相応しい人物の調査の年齢を下げたまでの事だ」
「……エヴァリーナの事を父上は知らなかったでは無いですか」
「知る順番が早い遅いかは問題ではない。問題なのは相応しいか相応しくないかだ。
私はエヴァリーナを側妃としてふさわしいと認めた。
既に内々に根回しも済んでいる」
その言葉を聞いたアウグストは激しく落胆した。
何の下準備もなしにこのような決定がなされる訳が無いと思っていたがそれにしても早すぎる。
父は自分からエヴァリーナとの結婚の相談を受けてから早々に決めて行動に移したに違いない。
そうでなければこの手続きの早さは理解できない。
「まだ王族としては半人前の学生のお前と違って私は国王として色々と考えねばならん事が沢山あるのだ。
お前の女々しい泣き言を一々聞いてはおられん」
「……」
「わかったか。わかったら出ていけ。私は忙しい」
アウグストはヴィルヘルムの執務室を項垂れて後にした。
しかしその日の深夜、国王の身に異変が起こった。
寝室に忍び込んだアウグストによって枕を押し当てられて窒息死したのである。
(明日の朝に発見されるだろうが死に方に不信を抱く者は少ないだろう)
ヴィルヘルムは性交する時に薬を多用する事が多かった影響で心臓を傷めていたのだ。
度々発作を起こして胸を押さえている事があったのは臣下として皆よく知っている。
側妃を解任したのはその事もあった訳だった。
もっとも最近は比較的安定はしていたのだが。
「すみません、父上。しかしこれだけは譲れないのです」
王家の人間しか知らない国王の寝室の隠し通路を通り抜けて目的を果たしたアウグストには父を殺した絶望感も混乱も恐れも無かった。
あるのは高揚感と達成感と満足感である。
自室に戻ったアウグストはバルコニーに出て夜空に向かって一言告げた。
「……これで、エヴァリーナは俺の物だ!」
アウグストの予想通り、国王ヴィルヘルムの死はそれほど混乱なく世間に受け入れられた。
深く死因を詮索する者もいない。
息子のアウグスト自身が早々に父が自然死したものと受け止めている事が大きかった。
そして臣下達にしてみれば仕える人物が代わっただけである。
猶予期間の無い王位継承には事務処理上も色々手間取った。
しかし、混乱と云えるのはそれくらいだ。
成人した王太子が存在していたし国の重鎮たちも変わらず存在している。
国の全てを王が一人で回している訳で無いから問題はない。
アウグストは学生の身ではあったが既に王立学園卒業に必要な単位は取り終えている。
国家の緊急措置として特例で早期に卒業してそのまま王位に就くことになった。
アウグスト新国王の誕生である。
急な事だったので即位式も国民や諸外国へのお披露目も比較的簡易的なものだった。
無論、アウグストに不服は無い。
新国王は王位について以来目まぐるしい忙しさの渦中にいた。
しかし自分にとって最も重要な優先事項は忘れていない。エヴァリーナとの婚姻だ。
元々王室とケストナー伯爵の間でエヴァリーナの王室入りは決まっていたのだから問題はない。
結果的にヴィルヘルムのアウグストに対する置き土産となった。
アウグストがしたのはエヴァリーナの立場を父の側妃から自分の婚約者に改めた所である。
まだ世間に公表する前だったから表向きはこれも問題ない。
一方、エヴァリーナが卒業するまでにはまだ間がある。
だからエヴァリーナは卒業までの期間を若き国王の婚約者として妃教育を受けつつ過ごす事になった。
アウグストにも新国王としてやる事は沢山あった。
エヴァリーナの卒業までという猶予期間は国王としての自らの立ち位置を確立するための重要な期間になっていた。
アウグストは精力的に国王として活動した。
誰も知らぬ事であるが自分が招いた事であるから覚悟は出来ている。
有能な家臣たちに支えられつつ急速に国王としての振る舞いも板についてきていた。
♦
世間の注目は王室に起こった不幸から明るい話題にすぐ移った。
エヴァリーナが新国王の正式な婚約者となったからである。
王立学園では当然の様にエヴァリーナの元に祝福の輪が出来た。
遂に決まったか。やっと決まったか。
貴族令息や男子生徒達はこれで叶いもしない高望みをする事も無くなった。
貴族令嬢達も同じだ。男の視線を独占していた者が退場してくれて胸をなでおろす。
エヴァリーナの存在は同年代の貴族子女の婚約事情に少なからず影響を与えていた。
それが無くなるのだ。
学内でエヴァリーナと顔を合わせる者は口々に祝福の声を掛ける。
今日も王立学園の帰り際に声を掛けられた。
エヴァリーナを崇拝する後輩の貴族令嬢達だった。
「おめでとうございます! エヴァリーナ様」
「おめでとうございます!」
「……ありがとう」
貴族令嬢達は一様に憧れの表情でエヴァリーナを祝福した。
「エヴァリーナ様以外に相応しい方はいらっしゃいませんわ!」
「この国の輝かしい未来を確信しています!」
「あなた方の期待に背かない様に努めます」
エヴァリーナは聖母と見紛うばかりの微笑みを見せて立ち去った。
後輩の令嬢達は真っ赤になって感激した面持ちでエヴァリーナの後ろ姿を見つめていた。
伯爵家の馬車に乗って扉が閉まった途端、エヴァリーナの表情は綺麗に消えた。
しかし同乗している者はいなかったのでそれを知る者は一人もいなかった。