紅茶に砂糖を入れるなんて! なんて野蛮な事をするの!
「紅茶に砂糖を入れるなんて! なんて野蛮な事をするの!」
急にそう叫ばれて、僕は今まさに砂糖を入れようとしていたマグカップをひっくり返しそうになってしまった。いや、もしかしたらちょっとこぼれたかもしれないが、茶色い地味なカップだから、少々こぼれても良く分からない。
「紅茶に砂糖を入れるなんて、野蛮な事はしてはいけないのよ!」
彼女はまたそう叫ぶと、僕が持っていたスティックシュガーを取り上げてしまった。その勢いで、黒髪のポニーテールがふらりと揺れ、ベージュのロングフレアスカートが風に舞う。
かろうじて、口が開いたスティックシュガーから砂糖がこぼれなかったのは幸いだ。
狭い1DKに申し訳程度に存在するキッチンは、僕と彼女、2人が立っている事でずいぶんと狭くなってしまった。そういえば、彼女の前で僕が紅茶を飲むのは初めてだったかもしれない。いつもはチェーンのハンバーガー屋なんかでコーラを飲むばかりだったものな。
「どうしたの、紅茶に砂糖なんて普通の事でしょ」
「ダメよダメダメ。砂糖を入れるなんて野蛮すぎるわ! そもそもお茶に砂糖を入れるなんておかしいと思わないの?」
彼女は、今度はお茶に砂糖を入れるもんじゃないと言ってきた。僕は彼女に返事を返しながら、その手にあるスティックシュガーを取り戻そうとして、小競り合いを始めた。
「そりゃあ緑茶を飲むときは砂糖は入れないよ。だけど紅茶を飲むときは砂糖を入れる人の方が多いと思うんだけどな。僕も砂糖を入れた方が好きだし。ねえ返してよ」
「ダメよ、私たちは東洋人なんだから、そんなイギリスにかぶれた考えに陥っちゃいけないのよ。砂糖を入れるなんて成金趣味で下劣だわ」
今度はイギリスかぶれの成金趣味で下劣ときたか。僕は彼女を力づくで押しのけないよう気を付けながら、その手にあるものを取ろうと頑張っては見たが、無理をしたら砂糖がこぼれそうだ。
「ねえ、なんで紅茶に砂糖を入れるだけで成金趣味なのさ。僕は一般庶民でしかも学生だし、紅茶も砂糖もスーパーで買った安いものだよ。このカップだって特に高級なものを設えたわけでもなく、100円そこそこで買える程度の物さ。お湯だって安い電気ポットで沸かしたもの。小市民ここに極まれりじゃないか」
理不尽な仕打ちに、ちょっと早口でまくし立てて弁明する僕。彼女はそれを聞くと真顔になってこう言った。
「あなた、何故紅茶に砂糖を入れるようになったか知ってる?」
僕の弁明には全く耳を貸さず、彼女は質問を投げかけた。隙をみて砂糖を取り返そうと何度か試みた僕だったが、黒いしっぽとスカートの折り目が揺れるばかりで、目的は果たせそうにない。
「そりゃまあ、入れた方が美味しいからじゃないかな。紅茶に砂糖を入れると、こう、香り立つというか、一段美味しさが増すんだよ」
僕は紅茶党という訳でもないが、これは実体験として間違いない。美味しいから入れるに決まってるさ。
「違うわ」
彼女は眉をへの字に結ぶと、否定の言葉を僕に投げかけた。
「イギリスが覇権を取っていた時代。紅茶の原料はどこから輸入していたでしょう?」
突然のクイズが始まる。スティックシュガーは彼女の背中に隠された手の中だ。僕はそれを取り返すことを一旦諦めた。
彼女は後ろ手にややしゃがむ格好を取ったので、白いカットソーの襟もとから鎖骨がよく見える。僕はドキッとして赤らんでしまったであろう顔を悟られないように、クイズの答えを考えるふりをして目線を外した。
「うーんお茶の産地と言えばスリランカ? いややっぱり中国かな」
「ええそうね。じゃあ砂糖はどこで作っていたでしょうか?」
「うーんと、確かブラジルだったっけ。南アメリカ大陸だね。授業で習った」
「そう。そしてその砂糖畑の労働者は、アフリカ大陸から連れてこられた奴隷よ」
「なんかそれも習ったっけな。それが何か関係あるのかい?」
突然の歴史クイズが続き、まあこういうのも楽しいよなという気持ちで軽く考える僕に、彼女は心底嫌悪の顔をしながら語りだした。
「いいこと? イギリス人は東の果ての中国やインドからお茶を仕入れ、西の果てのアメリカ大陸から奴隷労働で作らせた砂糖を仕入れたの。そしてその2つをこれ見よがしに合体させたのよ!」
手に持ったスティックシュガーを天に掲げ、まるでシェイクスピアの芝居のように彼女は空を仰いで訴えかけた。この安アパートの天井は舞台のように華やかではなく、どこにでもある白い壁紙と光るシーリングライトしか無いのだけど。
さっきから取り返そうとしていたブツが目の前に差し出され、それをひょいと取る事も出来たろうけど、彼女の話の腰を折ってしまうような無粋な真似は僕はしないさ。それを知ってか知らずか、彼女はまた語りだす。
「世界の覇権を取ったイギリス人は、東の果てから手に入れた紅茶に、西の果てで奴隷労働をさせて手に入れた砂糖を入れて、まさに成金趣味の飲み方を完成させたのよ! 私は世界中からなんでも集める事が出来るんですって自慢気なアピールをする為に! 当たり前にお茶を飲んでいた東洋人にとって、お茶に砂糖を入れるなんて馬鹿な真似は考えもつかない。紅茶に砂糖を入れるなんて、品性下劣で野蛮な行為なのよ……」
芝居がかって、よよと泣き崩れる(本当には泣いていないようだ)彼女。そろそろ大袈裟に過ぎたので、話を本題に戻す。
「そうだね、その頃のイギリス人は確かに成金趣味だったかもしれないね。ところでそろそろその砂糖を返してもらっていいかな?」
「ダメよダメダメ。ダメなのよ。このことが頭をめぐるようになってから、目の前で紅茶に砂糖を入れられると、凄く悲しい気持ちになるの。ねえ、わがままなのは百も承知なのだけど、今日は紅茶に砂糖を入れずに飲んでくれない?」
彼女はまるで借金をせざるを得なくて困ったベネチア商人のように訴えかけてくる。まあ仕方ない、今日の彼女の心は紅茶と砂糖で一杯なのだろう。一回くらい砂糖を入れない紅茶を飲むのも一興だ。ただ、何となく完全に同意するのははばかられて、僕は曖昧にうなずいた。
「ん、んん。じゃあこれが君の分のだよ。ご希望はコーヒーね。どうぞ」
僕はさっき彼女が買ったばかりの花柄のマグカップに、彼女が所望した黒い液体を入れた。彼女は先ほどの芝居がかった態度から、いつもの小動物が鼻をクンクンさせたような、愛くるしい表情に戻っている。僕は彼女のこの表情が好きなんだ。
「ねえ、このコーヒーは砂糖は入れてる?」
「もちろん入れてないさ! 砂糖を入れるなんて成金趣味だろう?」
僕は彼女の芝居への返歌とばかりに、まるで優秀な執事のような(実際に見た事は無いけど)動作で花柄のカップを差し出した。カップを乗せるお盆も無く、手のひらに乗せて差し出す仕草はもうまさに庶民的ではある。
「ダメよ、ダメダメ。ダメなのよ!」
彼女は愛くるしい表情のまま、受け取ったコーヒーをキッチンに置いた。
「私、コーヒーは砂糖を一杯いれないと飲めないの。そしてミルクもたっぷり入れて欲しいの。ごめんなさい、わがまま言って」
あれだけ胸を張って天を仰ぎ、紅茶に砂糖は野蛮だ成金趣味だと宣言した人と同一人物かと疑うほど、彼女は小動物のように小さくなって僕の事を上目遣いで見つめてきた。その表情に僕はどぎまぎする。
「じゃ、じゃあこの使わない予定の砂糖をいれちゃおう。ミルクが無いから冷蔵庫の牛乳で良いかな、熱いコーヒーではなくなるけどね」
僕は彼女から手渡された口の空いたスティックシュガーをコーヒーの中に放り込んだ。
「ありがとう。出来たら、あのその、シュガーを2本入れて欲しいの。沢山砂糖をいれないと飲めないのよ。子供みたいでしょ」
「コーヒーなんて好きに飲めばいいのさ。でも、さっき買ってきてくれたケーキがあるからね。甘いコーヒーにしすぎるとくどくならないかな?」
「ううん! 凄く甘い方が好きなの。甘いコーヒーをケーキと合わせて飲むと、凄く幸せな気分になるのよ」
彼女は甘いコーヒーと合わせて食べる美味しいケーキを思い浮かべたのか、幸せそうな顔をしてそういった。
はてさて。コーヒーだってアフリカや南米の人たちが、おそらく欧州人に無理やり作らされたものであるように思ったんだけど、彼女の中からあの芝居がかった人が出て行ったというのに、わざわざ呼び戻す必要は無いだろうと考えた僕は、ただ、そうだね、と同意をした。
「じゃあさ、このお皿にケーキを用意しておいてくれる? たっぷりの砂糖と牛乳を入れたコーヒーをお持ちいたしますよ、姫」
「もうばか、姫だなんて…… うん分かった、ありがとう。テーブルの用意をしておくわ」
ショートケーキにやや似つかわしくないけども、これしかないので出した2枚の緑色の和風の皿と、大小の不揃いなフォークを渡すと、彼女は鼻歌交じりにテーブルの方に向かう。
さて、砂糖をたっぷりとか。
僕はスティックシュガーの入った大袋から、そうだね、2本のスティックシュガーを取り出すと、黒い液体に追加で一本、そして琥珀色の液体に一本、中身を素早く投入する。冷蔵庫から牛乳を出すと、黒い液体をカフェオレ色に変化させ、我が家に一本しかないティースプーンで良く混ぜた。
ぺろりと舐めたスプーンは甘みと苦みが絶妙だ。僕はそのスプーンで今度は琥珀色の液体を手早く攪拌した。
節約のためにキッチンの明かりを消そうと思ったけど、こちらを消すと隣の部屋も微妙に暗くなってしまう。寂しい夜にならないように、僕は電気をつけたままテーブルに向かった。
彼女はとても甘いコーヒー牛乳、僕はシュガーを一本入れた紅茶。
僕たちは一緒に飲み物を作り、バターを塗ったトーストを食べた。甘い朝だった。
これからシュガーの消費量が増えるから、買い足さないとな。
彼女は2本、僕は1本使うのだから。
私は紅茶に砂糖を入れません。
紅茶はそもそもお茶なんだから砂糖なんて要らないよね? ミルクもレモンも無くても美味しいよね?
と知人に行ったら変人扱いされたのです。
悔しい私は、その気持ちを訴えるためにこの話を書きました。
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