妻が突然死んでから、妻の連れ子との関係は、ギスギス、ギクシャク、率直に言って最悪の状況です
「おじさん、生理用品を買うから、お金ちょうだい」
「……生理用品って、いくら?」
「五千円」
「……そ、そんなにするのか?」
「いくらでもいいじゃない、黙って五千円ちょうだいよ。それとも代わりにおじさんが私の生理用品を買ってきてくれる?」
妻が突然この世を去ってからというもの、妻と元旦那との間に出来た連れ子のミライとの関係は、ギスギス、ギクシャク、率直に言って最悪の状況であった。
――――
ミライが中学一年生の時に、私は妻と結婚をした。職場のパートタイマーとして働いていた妻の方から、上司である私に、半ば強引な食事のお誘いがあった。
「あの~、こんな私に、なかなかの猛プッシュですね」
「ふふふ、人生はね、小細工なしの、ぶっつけ本番なのです」
妻は、そう言って太陽のように笑った。異性に免疫の無い四十代の私が、自分に好意を抱いてくれる素敵な女性に対し、恋心を抱くのに長い時間を必要としなかった。その後、二人の交際は深まり、やがて私たちは入籍をした。恋愛に関して奥手だった私は、当然ながら妻が初婚の相手だ。
妻がバツイチであること、妻にミライという連れ子がいることは、交際時から承知をしていた。元旦那といかなる理由があって離婚に至ったのかは、あえてこちらからは一切触れなかった。その時の私には、まるで関心のない話だったのだ。私は妻を一途に愛していたし、妻に係る全ての事柄を愛してあげられるという、今となれば何の根拠も無き浅はかな自信に満ち満ちていた。
妻とミライは、それまで住んでいたアパートを出て、私が住んでいるマンションに転がり込んだ。三人の生活が始まって半年が過ぎても、彼女が私のことを「お父さん」と呼ぶことはなかった。ミライは、母の新しい男である、どこから見てもくたびれ果てた中年サラリーマンである私のことを、吐き捨てるように「おじさん」と呼んだ。
「ごめんね、難しい年頃なのよ。心配しないで、ミライは今、あなたがいるこの新しい生活に困惑しているだけよ。いずれ慣れるわ。ある日突然、それが当然であるかのように『お父さん』と呼ぶようになるわ」
妻は、あからさまに毛嫌いした態度をとるミライを見るにつけ、申し訳なさそうにそう言った。
――――
妻が死んだ。交通事故だった。スーパーでの買い物帰りの途中に、スマホをいじりながら運転するプロパンガス業者のガスボンベを大量に積んだトラックに撥ねられた。即死だった。私は、愛する妻の目の前で、元旦那との間に出来た連れ子のミライに、私のことを「お父さん」と呼ばせることが、実は密かな夢だった。だから私は私なりに、懸命に彼女の父になろうと歩み寄ったつもりだ。でも結局、妻が生きているうちに、ミライが私のことを「お父さん」と呼ぶことは一度も無かった。
私は、ミライと二人きりの生活を余儀なくされた。正直に言って、どう接してよいのか、さっぱり分からない。まるで未確認生物と共存をしているようだ。
「おじさん、ご飯まだ?」
「おじさん、私、明日から期末試験だから」
「おじさん、トイレの電球が切れた」
彼女は、日頃から必要最小限の要件だけを私に事務的に伝えた。こうなってくると、私から気楽に話しかけるのも何だか憚られ、ミライとの親子らしい会話は、事実上皆無となった。
妻が死んでから、ミライの生活態度は荒れた。地元の悪い仲間たちとつるんで夜遅くまで遊ぶようになった。学校で問題を起こし呼び出しを喰うことも頻繁にあった。
ある時、勤務先に警察から連絡があった。ミライが仲間と万引きをして捕まったのだ。保護者として、ミライを警察署まで引き取りに来て下さいとのことだった。
多忙な業務を中断して警察に出向くと、取調室のような部屋に、ミライが一人で俯いて座っている。一緒に犯行に及んだ仲間の二人は、数時間前に既に保護者に引き取られたらしい。
「お父様ですか?」
警官が私に尋ねる。
「……いや、まあ、身内の者です」
私は、警官とは一切目を合わせず、そう答えた。
「遅い! 何をしていたの! 来ないかと思った!」
ミライは、不遜な態度でこれでもかと私をなじった。
「そりゃそうだよね! おじさんからしたら、私なんて血の繋がっていない赤の他人だからね!」
私はミライの右の頬を力いっぱい張った。乾いた音と共に、頬が真っ赤に腫れ上がった。
「この有様を、天国のお母さんが見たら、どう思うか……」
ミライが、机に突っ伏して嗚咽を漏らす。彼女の父になりきれない自分が、情けなく、不甲斐なく、その挙句、やりきれない感情を、相手に暴力で示した。最低だ。私はこの時の自分を深く恥じ、しばらく立ち直ることが出来なかった。
この件以降、ミライの様子が変わった。必要最小限の要件だけを事務的に伝える日常会話は相変わらずであったが、以前のような荒れた生活態度は無くなった。地元の悪い仲間たちとの関係を断ったようだ。学校からの呼び出しも無くなった。
私とミライは、妻のいない空間で、生活を続けた。彼女は中学を卒業し、高校を卒業し、大学を卒業し、県外にある有名企業に就職を決めると、やがて私と二人で過ごした妻のいないこの空間から、まるではじめから存在しなかったように、何の痕跡も残さず消え去った。
――――
幾年かの後、私に一枚の葉書が届いた。
私は、葉書に記された日時に、指定された場所に赴く。すると、大きな木製の扉の前に、ミライが一人で佇んでいた。私はミライの横に並んだ。この日、この時、私とミライは、お互いが今日まで溜め込んだ胸につっかえた異物を吐き出すかのように、沢山の話をした。
「……突然の葉書で、驚いたよ」
「ふふふ、驚いたでしょう。驚かそうと思ったのよ」
「……少しは相談をして欲しかったよ」
「ごめんね、おじさんに要らぬ心配を掛けたくなくて」
「相変わらずだね、君は」
「ねえ、あの日のこと憶えている? 私が万引きで警察に捕まったあの日のこと」
「う~ん、忘れちゃったよ」
「ふふふ、憶えているくせに。あの日、おじさんに思いっきり頬を張られてた時、私は気が遠のく程に痛かった。頬の腫れはそれから三日は引かなかった」
「その話はやめておくれよ。本当に申し訳ないと思っている」
「違うの、そうじゃないの、私、あの時、おじさんに頬を張られて、本当に嬉しかった。この痛みは、お父さんだ。真っ赤に腫れあがった頬の中に、私のお父さんがいる。上手く言い表せないけれど、私はそんな風に思った」
「いやはや、何と言ってよいやら……」
「私は、その痛みを胸の内に収めた。胸の宝箱に大切にしまった。あの日の痛みは、まだ私のこの胸の中にある。この痛みは、私の宝物」
「ミライ、私はこれまで『お父さん』という称号にこだわり過ぎていたようだ。ミライが健康で幸せであれば、呼ばれ方なんて然したる問題ではない筈なのにね」
「あ、そうそう、その件だけど、私、今日この瞬間から、おじさんのことを『お父さん』と呼びますから」
「ええ! そんなの今更勘弁しておくれよ」
「呼ばれ方なんて然したる問題ではないのでしょう? 私の好きにさせて」
「うーむ、弱ってしまった」
「さあ、ほら、もうすぐ始まるわ」
「で、相手はどんな男だい?」
「誰かさんのように、優しさを煮詰めて、煮凝りにしたような人よ」
「……寂しいよ」
「素直さの欠片もない、いたらない娘でごめんね。今日まで私を大切に育ててくれて、本当にありがとうね。大好きだよ、お父さん」
ウエディングドレスのミライが、私の腕に手を通す。
「で、これからどうすればいいのかな? 段取りが今一つ分からない。少しは予行練習をしたかったな」
私の歩くペースに合わせて付いてきて、その都度私がこっそり指示を出すから。彼女は悪戯っぽく笑い、そして出し抜けにこう言った。
「ふふふ、人生はね、小細工なしの、ぶっつけ本番なのです」
咄嗟にミライの顔を見た。妻かと思った。妻がそこにいるのかと思ったのだ。
木製の大きな扉が開くと、ミライの花嫁姿に魅了された参列者たちが拍手喝采を上げる。
パイプオルガンの幻想的な音色が聖堂に鳴り響くと、私とミライはゆっくりと歩き始める。
正面には花婿。その後方上段に牧師。その後方上段にキリスト。
そして、その遥か上段で、待ちくたびれたとでも言いたげな表情の妻が、あるいは確かに、私たちを見守っていた。