煙草を喫い始めたきっかけ
あの悪夢のようなラジオから三日が経った。
私はと言うと、牢屋での生活をそれなりにエンジョイしていた。もともと住み心地の悪い場所ではない。トイレとシャワー室は付いてるし、何より、ウソコの作ってくれるご飯がおいしい。
しかし、まだまだ改善の余地はある。そう思っていた矢先に思わぬところから金が手に入った。
「いやー、遅くなってすみません。どうぞ受け取ってください」
昼下がりに牢屋にやって来たゾンビは開口一番そう言うと、茶封筒を私の手に握らせた。中には紙幣が十何枚か。
「ギャラです。先日のラジオ出演の」
ゾンビのラジオディレクターは不健康そうな笑顔を浮かべてさらにしゃべる。
「すごく評判よかったんですよ。というわけで今週もどうかひとつ、よろしくお願いしますね」
「金輪際ラジオなんかごめんだ」
「そんなこと言わず」
「嫌だね。けど、金はありがたく受け取っとく」
「次回もギャラ、はずませていただきますから、どうかお願いします。あ、そうそう。言うの忘れてました。今度はゲストではなくレギュラーとして出演していただくので、土曜日までにフリートーク、考えといてくださいよ」
「知るかよ」
「これはまいったな。ハハハハハ」
全然まいっている風でなく、むかつく。
「ウソコさん、いる?」
通路の奥の闇に向かって問いかけるゾンビ。するとウソコが天井を這うようにして現れ、糸を垂らして降りてきた。
「何でしょうか?」
「喫煙所使っていいかな?」
「もちろんです」
「ありがとう。いやー、魔王城は庭も含めて基本的に全面禁煙でね。喫煙所は牢屋の隣のここ一つだけ。いやはや、喫煙者に厳しい時代になってきたよ」
ゾンビはジーンズのポケットをまさぐり、小さな箱を取り出した。それを大事そうに握りしめ、喫煙所へと消えた。
「おい、ウソコ」
「何でしょう?」
「喫煙所って煙草喫うところだよな?」
「はい。喫煙所は煙草を喫うところです」
マジだ。やっぱ魔王がいる大陸はやべえな。煙草が喫えるんだから。私の生まれた大陸では、煙草なんてもってのほかだった。「健康に害を与えるだけの有害な嗜好品は悪以外の何物でもない」と大天使様はおっしゃっていたし、実際、その通りだろう。
「しかしなんで煙草なんか喫うんだろうな」
「単純においしいのでは?」
「煙がモクモク出るっていうあれがか? 私にはわからねーな」
「でしたら、本人に直接聞いてみればいいのでは? 煙草の良さを」
「そんなことして何になんだよ」
「どうせ暇でしょう」
「ざけんな。私は忙しいんだ」
これから昼寝して、起きて、その後は、えーっと、えー、そうだな、うん。
ウソコが牢屋の鍵を開けた。
「喫煙所までの外出を許可します」
私はウソコが切ってくれた外出許可証を握りしめ、牢屋の隣に位置する喫煙所へと足を踏み入れた。
石の壁にもたれて煙を吹かしていたゾンビがにわかに咳き込む。
「勇者さん、いったいどうしました?」
「いや、別に、特に理由はないっつーか、単なる暇つぶしだ」
「はあ。まあ、せっかく来たんですから、一本いっときます?」
「いや、喫わねーよ」
「冗談ですよ」
ゾンビは長くゆっくり息を吸い、ふと、脱力し、ゆっくりと煙を吐く。その一連の呼吸は、無駄がないようにも見えるし、無駄だらけのようにも見えてしまう。
「大人になっても、煙草、喫わない方がいいですよ」
今まさに私に受動喫煙させている大人がよく言う。
「喫わないでやっていけるなら、喫わなくていいものなんだから、煙草なんて」
「ゾン――」言いかけて、面と向かってゾンビと呼ぶのはまずいと思い、名前を呼ぶ。
「スターツさんは、どうして煙草喫ってるんすか?」
天井を見上げて、目を細めるスターツ。
「私はね、いや、今は仕事じゃないから、ぼくでいいか。ため口で失礼。ぼくはね、二十五年前、二十二歳のときに結婚したんだけど、まあ、これ以上ないってくらいいい奥さんをもらってね」
「はあ」
なんだよ、自慢かよ。
「何の問題もなく新婚生活を謳歌しているうちにあっという間に一年が経ち、二年が経ち、三年目の秋に子供が生まれた。ゾンビの女の子でね、ぼくも妻ももちろん喜んだ。けど、幸せな時間ってものはそう長くは続かない。ぼくの場合は続いた方だと思うんだけどね」
「何か起きたんすか?」
「いーや。娘は元気に育ったし、夫婦仲を壊すような事件だって起こらなかった」
「じゃあ、いいじゃないですか」
「まあね」
スターツは短くなった煙草を灰皿に押し付けて火を消し、新たな一本に火をつけた。これで話が終わるわけがなかった。亀裂の入っている天井へ向かって長く長く煙を吐いたあと、また話し出した。
「初めて煙草を買った日のことは今でもよく覚えてるよ。娘はちょうど君ぐらいの歳になっていた。そのぐらいの歳の女の子が父親に抱く感情はろくなものじゃない。うざい、キモイ、うるさい、鬱陶しい。いわゆる反抗期ってやつだ」
そういうものなのか。思春期の頃には父親のもとを離れていた私には縁のない話だ。
「『リビングでママと話すから、大事な話だから、どっか行ってて』そう言われて私は言い返すこともせず、一人さびしく家を出て、近くの売店に行って暇つぶしだよ。立ち読みコーナーで雑誌読んでるうちに外は雨が降り出しちゃってね。仕方ないからビニール傘を買って帰るかって、そう思ったんだ」
「はあ」
「けど、ぼくは傘じゃなくて安物のライターと煙草を買ったんだ」
「なんでそうなるんだよ」
いきなりでびっくりするわ。
「いや、だってよく考えてみてよ。娘に家から追い出されて、売店で立ち読みして、雨が降ってきたらビニール傘を買って帰るって情けなさすぎるでしょ」
「いや、ライターと煙草買ったって普通に惨めだろ」
「情けないより惨めな方がマシだと思ったんだろうね、そのときのぼくは。売店の軒先の下で煙草に火つけて、口にくわえて歩き出したはいいものの、傘は買わなかったから、雨に濡れて火が消えちゃって全然喫えなかった。しょうがないからそのまま帰って、濡れた煙草は翌日乾かして喫ったよ」
以来、今日まで毎日煙草を喫っているという。
「娘さんって今は何してるんすか?」
「アンデッドと結婚して、子供を育ててる。年末とか、夏休みとか、孫を連れてウチに帰ってくるよ」
なんか、色々あるんだな。家族って。
「お孫さんにおじいちゃん口臭いって言われないんすか?」
「口臭対策はばっちりしてるからね」
煙草をもみ消し、捨て、迷いの森で採れるという香りの強いグミを口に含み、噛み噛みしてから、スターツは私を見て言った。
「フリートークの参考ぐらいにはなったかな?」
「まあ、はい」と私は嘘をついた。本心を言うと、まるで参考にならないトークだと思った。だって私、煙草喫ってないし、家族との思い出だってあんまりないし。
でも、何かが胸に残った気がした。スターツの生きてきた人生の何かが。