魔王との馴れ初め
牢屋には窓が三つあって、その内の一つは城の中庭に面している。風に揺れるコスモスの花を眺めながら、眠気にあらがうように欠伸をする。
つぎのラジオまであと三日。もちろんフリートークなんて考えていないし、する気もない。しかし、万が一、私が何らかのやむにやまれぬ事情で、もう一度、マイクの前に座ったとしたら、そのとき私は何を話すのだろうか。また前回と同じように、魔王を倒すためにどれだけ努力してきたかを話すのは、いくらなんでも芸がない。
「勇者様」
やぶからぼうにウソコの声が飛んできた。
「なんだ? また新しい家具でも届いたか?」
「いえ、お客様です」
「ったく。またアパーが遊びに来やがったか? それともスターツが仕事の愚痴でも言いにきたか?」
「どちらでもありません」
私はぎょっとする。
「まさか魔王か?」
「いいえ」
ウソコがゆっくりと首を横にふると、悠然とその人は現れた。
「こんにちは」
長くしとやかな銀髪に雪原のように真っ白な肌。長くとがった耳には三日月の形のイヤリングが光っている。シルク生地のクラシック・ドレスに身を包んだハイエルフは、目を閉じたまま、澄んだ声で言った。
「スコーンを作りすぎてしまいまして。もしよかったら、ご一緒にお茶でもいかがかしら?」
突然の誘いに私は唖然とする。
「無理にとは言わないけれど、ぜひいらしてください。私は先に中庭に行って準備をしておきますね」
そう言うと、魔王の妻は何やらウソコに耳打ちした後、かすかな鼻歌とともにその場をあとにした。
「おい、ウソコ。今、何言われたんだ?」
「『ウソコの分もあるから、来て』と言われました」
「行くのかよ?」
「はい。勇者さんは?」
「私はパス」
即答した。だって、なんか気まずいし。
「いけません。ルナ様がせっかくお茶やお菓子を用意してくださったのに、欠席するなんて。どうせ暇でしょう。私と一緒に行きますよ」
「いやだね」
「なら、こうです」
ウソコが口から何かを吐き出した。それは素早く私の両手首にからみついた。
「なっ。糸?」
「さあ、行きましょう」
ウソコが糸を引っ張る。私は足の踏ん張りを効かせて抵抗する。
「いーやーだー」
「まだ駄々をこねるのですか。そんな子にはこうです」
ウソコはまた糸を吐き、今度は私の足首を縛り上げた。しまった。これじゃあ、身動きが取れない。
ウソコが衛兵を呼ぶ。衛兵が私を担ぐ。
「くそっ。ウソコ。てめー、覚えてろよ」
「なぜそんなに嫌がるのか、わかりません。ルナ様の焼いたスコーンは絶品なのに」
食べ物は関係ない。ただ、気まずいのだ。殺そうとしていた魔王、その奥さんとお茶をするのが。
しかし、魔王の妻、ハイエルフのルナ・イトオールは柔和な笑みで私を迎えた。黄昏時の中庭はセピア色に暮れかけていて、金木犀の香りのする風がそよそよと吹いている。
「どうぞおかけになって」
私はぎくしゃくと椅子に腰をかける。
「そんなに緊張なさらないで」
ティーカップに紅茶を注ぎながらそんなことを言うルナさんに、私は率直な疑問をぶつける。
「私をここに呼んだ理由って何すか?」
「言わなかったかしら。スコーンを焼きすぎてしまったの」
いや、スコーン焼きすぎたのは、私をここに呼ぶためだろう、絶対。
「ルナさんは私のこと、嫌いじゃないんですか?」
「あら、どうしてそんなことを思うの?」
「いやだって、私、つい先日まであなたの夫を殺そうとしてたんすよ。そんな奴、好きになれます?」
「うふふふふ」
こらえきれないというように、ルナさんは上品な笑い声を口から漏らした。私とウソコに紅茶をサーブし、最後に自分のティーカップを引き寄せて席に座ると、
「どうぞ召し上がって」
と告げた。
「いただきます」
ウソコは何の遠慮もない様子で紅茶をぐびぐび飲み、スコーンに手をつける。私はというと、ティーカップをのぞきこみ、黄金色に輝く紅茶に映りこんでいる自分の額をじっと見つめていた。
「キサラさんはキンヨー大陸出身なのよね」
ルナさんが言った。
「そうですけど」
「私もキンヨー大陸の出身なのよ。どうかしら、これで少しは警戒を解いてくださる?」
私は思わずウソコの方を見た。ウソコはほおばっていたスコーンを飲み込んでから、うなずいた。
「ルナ様がおっしゃっていることは、本当ですよ。そもそもユーラク大陸には、ダークエルフの谷はあっても、エルフの森はありませんしね」
「キンヨー大陸の北方のエルフの森、と言えばわかるかしら?」
頭に地図が浮かぶ。そこはたしか、キンヨー大陸でも最大の規模を誇る森で、大天使様の避暑地としても有名な場所だ。
「ルナ様のご実家はかなりの名家だったんですよね?」
ウソコがなんとはなしに訊いた。
「名家。そうですね、そんな感じでした。でも実際は、何代にもわたってずっと純潔のハイエルフ同士で結婚してきたから、なんとなく周りから一目置かれるようになったってだけの話なのよ」
ますますわからない。
「エルフの中でも上位種のハイエルフが、なんで魔物ひしめくユーラク大陸で魔王の妻やってるんですか?」
「だって、あのままあそこにいたら、殺されていたもの」
ルナさんは秋の空を見上げ、しかし目は閉じたまま、語り始めた。
「人間は大天使様が決めた戒律に従って生きるわよね。エルフもそう。でもエルフは『天使戒律』のほかにもう一つ、守らなければならない法体系があるの。それが『森の掟』」
聞いたことがある。大天使様が愚痴をこぼしていた。エルフは時々、戒律よりも掟を優先して困ると。
「掟は千個ぐらいあるのだけれど、その中の一つにこういう掟があるの。『盲目で生まれしハイエルフは、成人になったあと、速やかに殺すべし。でなければ、大いなる災いが森に降りかかる』」
私は息をのむ。
「そう。私は、目が見えないの」
魔王の妻は微笑してそう言った。周りの夕闇がいっそう濃くなった気がした。
「なんで、そんな掟が」
私は声を絞り出すようにして尋ねる。ルナさんはティーカップのふちを指でやさしくなぞりながら答える。
「エルフは平和を何よりも愛する。だから、盲目のハイエルフは殺さなければいけないの」
「どういうことですか? 全然わかりません」
「盲目のハイエルフは戦争のきっかけになりやすいの。魔力が尋常ではなく高いから」
これまで何度も盲目のハイエルフをめぐって戦争が起きてきたのだという。
「他種族との戦争だけじゃないわ。大天使様から粛清を受けたこともあるのよ。盲目のハイエルフはいずれ神界に害をなす脅威になり得るからって理由で」
戦争や粛清の末にできた、盲目のハイエルフは殺すべし、という掟。
「なんだよ、それ」
私はつぶやいた。大天使様もエルフもこんな汚い一面があったのか。
「シンプルな疑問なのですが」
ウソコが苺ジャムで汚れた口元をナプキンで拭きつつ尋ねる。
「どうして成人になったあと殺すのですか? 生まれた瞬間ではなくて」
「子供を殺すことは別の掟で禁じられているの。それに、エルフの魔力が本格的に開花するのは、成人を迎えたあとだから。せめてそれまでは生かしておいてあげようっていう、そういう中途半端なやさしさが掟製作者にはあったのでしょうね」
そんなやさしさ、やさしさと言えるのだろうか。どうせ殺すならいっそ物心のつかないうちに殺すのがやさしさではないのか。いや、違う。殺すのがやさしさなわけがない。くそ。胸糞わりいな。私は黙ったままでいると胸に何か悪いものがたまっていきそうで、言葉を吐き出した。
「ルナさんはいつぐらいにその掟のことを知ったんですか?」
「十六歳のときよ。エルフの成人年齢は人間と違って十七歳だから、あと一年も生きられないことを知って絶望したわ。死にたくないと思ったけど、掟なら仕方ないか、という気持ちも少なからずあって、自分でもどうしたらいいかわからなくて、大天使様に手紙を書いたの」
キンヨー大陸では大天使様は絶対的な存在で、悩める者は救いを求めることができる。
「一週間待っても、一か月待っても、三か月待っても、返事は来なかったわ。そのうちにだんだん腹が立ってきちゃって。返事をくれない大天使様にも、私がもうすぐ殺されることを知りながら幸せそうに生きてる同胞たちにも。だから私は、手紙を書いたの」
「え? 誰にですか?」
「魔王に」
ルナさんは悪魔のように笑った。
「天使がウンともスンとも言ってくれないなら、いっそのこと悪魔に頼っちゃおうって思ったの。でも、返事は来なかったわ。私はなすすべもなく成人の日を迎え、森の最奥部にある断頭台に連れていかれたわ。体を台に固定されて、ギロチンが風を切る音が聞こえた瞬間」
間を置いて、ルナさんは言う。
「来てくれたの、あの人が」
魔王ジールドはギロチンの刃を肩で受け止め、拳一つで、エルフの森の伝統ある断頭台を木っ端みじんにしたという。
「『すまんな。読み書きは苦手で、返事を書くのに手間どった』あの人はそう言って私に手紙をわたしたわ」
「なんて書かれてたんですか?」
ルナさんは口に指をあててつつましやかに笑う。
「盲目の私でも読めるように魔力の文字で書かれていたわ。『細かいことはよくわからんが、今行くから、そこでちょっと待っとけ』って。ちゃんとハイエルフ語で書いてあって、私、それがおかしくておかしくて」
あの脳筋バカ魔王、ハイエルフ語で返事を書いてたから遅くなったのか。
「あとは力任せに私をさらっていったわ。エルフの弓も魔法もあの人の圧倒的な肉体の前では無意味だった。森の外には中天使たちが待ち構えていたのだけれど、ものの数分で壊滅させて、それから、私に尋ねたの。どこか行くあてはあるのかって。私は首を横に振るしかなかった。そうしたらあの人、笑って『ならば我が城に住まわせてやるから来い』って言ってくれて」
ルナさんは声に懐かしさをにじませて語る。
「魔王城で暮らすようになった私は、日中はあの人の秘書として働き、夜は居候として毎日一緒に夜ご飯を食べたわ。私が作る日もあれば、あの人が作ってくれる日もあって。蕗の薹とかさくらんぼとか鰻とか、旬の食材を食べてるうちに季節がめぐりめぐって、いつの間にか、好きになってて、あの人のこと。あの人も私のこと、よく思ってくれてたのでしょうね。プロポーズされたわ。秋刀魚の塩焼きを食べてるときに」
急だな。でも、当時の二人にとっては急でも何でもなくて、ベストなタイミングだったんだろうな。
「さっきから私ばかり話してるわね。キサラさんの話も聞かせて。キンヨー大陸のどちらのご出身なの?」
「私は――」
答えようとしたそのとき、法服を来た羊顔の悪魔が袖を振り乱してこちらに駆けてきた。
「ルナ様、魔王様がお呼びです」
「待たせておきなさい」
「ですが、急用とのことで。私ども中級悪魔ではいかんともしがたい大変な事態で、どうしてもルナ様のお力をお借りしたいとのことで。今週は当番以外の日も皿洗いするからともおっしゃっていました」
「もうっ。あの人ったら、しょうがないわね」
ルナさんは席を立ち、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。こちらから誘っておいたにもかかわらず、自分の話だけして帰るなんて不躾よね」
「いえ、そんな。私たちに気を遣わず、行ってあげてください」
「片付けはやっておきます」
「ありがとう。キサラさん、また今度お話聞かせてくださいね」
ルナさんはそう言うと、花も踏みつけることができないような軽やかな足取りで、夕闇に溶けるように城の中へ消えていった。
私はせっかく淹れてもらった紅茶をまだ一口も飲んでいないのに思い至り、ティーカップを口につけ、浅く傾けた。甘くて、でも、どこか切ない味がした。
「勇者さん、知っていますか」
片付けの最中、テーブルクロスを折りたたみながらウソコが言った。
「今でこそこの大陸には何十、何百ものラジオ番組があり、昼も夜もラジオが流れています。けど、一昔前までは、ラジオなんてもの、なかったんですよ」
「へえ」
「この大陸で最初にラジオを始めたの、魔王様なんです」
「ああ、そういうことかよ」
ラジオは音だけで楽しめる娯楽だ。
「魔王のくせに愛妻家って、ほんと、どうしようもねえな」
私はため息をつく。
勇者のくせにやさぐれてるよりマシか。