プロローグ
一目見て、勝てないと悟った。
最終試験に合格し、勇者になった。万全の準備を整えて海を渡り、魔王が支配するこの大陸にやって来た。目指すは魔王城。しかし道中、私が勇者だと言っても力を貸してくれる人間は一人もいなかった。それでも、歩いて、歩いて、歩いて、ようやく魔王城にたどり着いた私は、夜を待ち、闇にまぎれて城内へ侵入した。
いつでも抜けるよう聖剣に手を添え、螺旋階段を駆けのぼる。途中、誰ともすれ違わなかったのは幸運か、それとも罠か。ここまで来たら、あとは魔王の首を獲って帰るだけ。
最上階に到達した私は、禍々しい魔力を長い廊下の奥から感じた。
重厚な扉の前で立ち止まる。
大天使タリナイ様、どうか私に神の御加護を。
祈り、軋む扉を押して中へ。
私は目をみはった。
そこにいたのは、肩に巨大なバーベルを背負い、一心不乱にスクワットに励む男。褐色の肌には光る汗が浮かんでいる。はちきれんばかりの上腕二頭筋、六つに割れた腹筋、竜の顎を彷彿とさせる大腿四頭筋。
勝てない、どうあがいても。
全身が震えてくる。とりわけ手の震えがひどく、聖剣を床に落としてしまった。
「ん? 誰だ?」
男がこちらに気づいた。
「金髪の髪に、勝気そうな吊り目。そしてその聖なる輝きを放つ剣。さては貴様、勇者だな」
私は何も言わず、隙を見せないようにゆっくりと、落とした剣を拾う。
「そう怖い顔をするな。大陸の西の果てにある港に降り立ち、迷いの森を抜けるルートでここまで来たのだろう?」
すべてお見通しだとでも言うように男は余裕の笑みを浮かべ、声を大きくして先を続ける。
「遠路はるばる来てくれたのに、ろくなもてなしができんですまんな。だが、貴様も貴様だぞ。こんな深夜に来おってからに」
「もてなしなどいらない。欲しいのは魔王、お前の首だけだ」
「ガハハハハ。言うではないか、勇者。しかしあいにく我は今、日課の筋トレ中である。スクワットをあと百八回したら相手をしてやるから、しばし待て」
勇者であるこの私より筋トレを優先するだと?
「ふっ、ざけるなっ」
瞬間、私は駆け出していた。もはや恐怖など感じない。ただただ、こけにされたことが悔しかった。
床を蹴り、飛び、聖剣を頭の後ろからふりかぶり、魔王に叩きつける。
手ごたえあり。
そう思ったのも束の間、すぐ異変に気付く。
手ごたえがありすぎるのだ。どれだけ力を入れても、剣は魔王の肉を切ってくれない。
魔王は、首から肩にかけて広がる筋肉、僧帽筋で聖剣を受け止めたまま、にやりと笑う。
「まったく、そんなに我と遊びたいのか?」
そう、魔王にとってこれはただのお遊び。戦闘ですらない。
魔力、筋力、ともにあちらが上。勝てるわけがない。
それでも、万に一つの可能性に賭け、剣をふるう。どこか、弱点はないか。どこか。体のあちこちにあらゆる角度から斬りこむ。奇跡が起こると信じて。
――信じなさい。さすれば、道は自ずと開かれる。
そう、大天使様は言っていた。
けど、私の人生最大のピンチ、この土壇場で、奇跡は起こらなかった。
魔王の肉体は無傷のまま、むしろ聖剣の方が刃こぼれしてくる始末。
もういい。もう、十二分に理解した。これ以上剣をふるっても虚しくなるだけ。
今度は自らの意思で聖剣を床に落とし、力なく膝をついた。
「私の負けだ。煮るなり焼くなり好きにしろ」
「好きにだと? それは我の言うことをなんでも聞くと、そう言っているのか?」
「違う。とっとと殺せと言っている」
魔王を倒せなかった勇者に価値はない。
「何も死ぬことはないであろう」
「これ以上私を侮辱するな」
「よかろう。そこまで言うなら今週土曜の夜、貴様をラジオで公開処刑してやろう」
ラジオ。聞いたことのない地名だ。けど、そこが私の死に場所になるのか。
「どんな場所なんだ、そのラジオってところは」
「どんな場所かだと? そんなもの、面白くてしょうがない、最高の場所に決まっておろうが」
つまり、誇り高き勇者が面白おかしく死ねる最高の場所だと、そう言っているのだ。
「くくく。土曜の夜が楽しみだな」
そう呟くなり、魔王はスクワットを再開した。もう私のことなど眼中にない。黙々とハムストリングスを鍛えている。
くそ。
私は、生まれて初めて唾を床へ吐き捨てた。
勇者になんてなるんじゃなかった。