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ラブコメ論

作者: 日寝月歩

若干の偏見が混じっているかもしれませんが、お見逃しください。


 ラブコメについて、いろいろと考えることがある。




 このジャンルの作品は、映画、大衆小説、ライトノベル、アニメ、漫画において、古今を問わず氾濫している。ここでは、その歴史性については多くは述べないが、解釈を拡大すればかの『源氏物語』さえも、この語の範疇に収めることもできるだろう。




 私は特に「ライトノベル」におけるラブコメについて話したい。それにあたって、隣接関係にある漫画やアニメについても多少言及することになるだろう。




 まず、「ラブコメ」について。手近な資料がないので、ひとまずネットの記事を引用させてもらうと、概要は以下の通りになる。




 欧米でいうロマンティック・コメディが非日常の特殊な状況における主人公たちの恋愛心理の機微を一回性の物語で描くのに対して、むしろシチュエーションコメディの要素を積極的に取り込み、現実にありそうな日常の設定の一部分を極端に逸脱した状況を仮想設定したうえで主人公の恋愛関係に焦点をあて、毎回異なった状況下で周囲を巻き込んだ事件や混乱が繰り返されるドタバタ喜劇(スラップスティックコメディ)的要素の強い作品が主流を占める。


(『ラブコメディ』Wikipediaより引用)




 まあ、問題含みではあるだろうが、話しのタネにする程度には充分、簡にして要を得た説明ではないかと思う。




 ここでいうロマンティック・コメディとは、シェイクスピアの『十二夜』や『夏の夜の夢』を想像して頂ければ良い。スラップスティックコメディは、チャップリンの無声映画などが始まりだろうか。ちなみに、厳密に言うとスラップスティックコメディをドタバタ喜劇と訳すのは誤りだそうだが、そんなことは気にしない。




 そういえば、渡航の『路地裏トラッシュ/スラップスティック』はいつか発売されるのだろうか……




 閑話休題。




 シチュエーションコメディは『Mr.ビーン』や『フルハウス』などが想像しやすい適当な例だろうか。




 こういった、日常のひとコマを切り取り、それをやや大げさに描き、そこに男女なり、同性同士なりの恋愛を混ぜ込み、一話完結の連作に仕上げることによって、我が国のサブカルチャーにおける「ラブコメ」は成長していったのだと思う。




 その原点にして頂点は、個人的に高橋留美子大先生だと思う。異論反論異議申し立ては色々あるだろうが、学生の戯言なので甘い目で見て、聞き流して頂きたい。




 私が新たな説として提唱したいのは、今日われわれが「ラブコメ」と呼ぶジャンルの作品について、これは大きく分けて、(まあ有機物と無機物とを分ける程度に「大きく」分けてであるが)二種類に分類することが可能なのではないか、という事だ。その二種類は以下の通りである。






A:主人公が、ヒロイン(またはそれに類する役割として造形された登場人物)から好意を持たれた状態で物語が始まる。




B:主人公が、ヒロイン(またはそれに類する役割として造形された登場人物)に、強い異物感、敵対心などを持たれた状態、あるいは無関心やそれに近い関係として認識された状態で物語が始まる。






 こんなのわざわざ書かなくても当然だ、あるいはこんなのは間違っている、という指摘もあるだろうが、あくまで雑談なので許して欲しい。必要なのは、寛容の心である。




 さて、「ライトノベル」におけるラブコメであるが、読者層の高齢化が叫ばれて久しい今でも、描かれる対象の主流は十代後半の男女の恋愛であることが多いと思う。だから、具体的な作品もそれに沿ったものを挙げる。というか、実は最近のライトノベルをあんまり読んでないし、古いのは古いので記憶が曖昧なので、若干想像(や記憶修正)が混じっているが許してほしい。最近の人気作を教えて欲しいくらいである。




 Aの典型例が、2010年代前後に隆盛を極めたMF文庫の、いわゆる「学園ハーレム」作品、それに続いてブームとなったいわゆる「なろう小説」に顕著な「異世界転生チーレム」作品だろう。




 Bの典型例として、渡航の『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』や、竹宮ゆゆこの『とらドラ』が挙げられると思う。




 ただし、Bは読者を飽きさせない工夫として、最初から主人公に好意を持ったサブヒロインが控えている場合が多い。しかし、全体のプロットとしては、無関心であったり敵対心を持っていたヒロインが主人公に好意を持つというところに作品の主眼が置かれるので、多くは報われない恋となる。




 こうして「負けヒロイン」が誕生するのである。




 このプロットという逃れがたい圧力の犠牲になった「負けヒロイン」として、西尾維新「物語」シリーズにおける羽川翼がおり、漫画であれば古味直志『ニセコイ』の小野寺小咲がそう呼べるだろう。




 ちなみに、いま|(2019年3月現在)アニメが放送されている春場ねぎ『五等分の花嫁』に関しても、恐らくこの法則は当て嵌まりそうで、そうなった場合、恐らく勝つのは五女ではないかという予想が立てられる。


 私は、長女推しだ。だからこの法則に予想を裏切って勝ってほしい。




 ではAに関してだが、ネット等で叩かれることが多いのはこちらではないだろうか。キャラが薄っぺらい~や、なんで主人公に惚れるのか理解不能~の語で作品が批判されているのを、皆さんも一度は見たことがあるだろう。私もそう思ったりするが、まあエンターテインメントだし……別に叩くほどでもないような、という気がしないでもない。




 だが意外かもしれないが、日本の文学作品に通ずるものはむしろAではないかと思う。漱石作品の多く、例えば「こころ」に顕著だが「なんとなく惹かれる」・「通じるところがあるような気がする」そういった「感覚」によって登場人物同士が接触・接近する場合が多くある。




 漱石は、いわゆる文壇的私小説をメインストリームとして成長してきた日本近代文学の正統からは外れるが、一種メルクマール的な存在である。まあ、太宰とかの作品にある「なんとなくモテる」が、そのまま、「なんとなく」続いているのがこのAの状態なのではないか。漱石の例はいらなかったかもしれない……




 一方で、Bはジェイン・オースティンの『高慢と偏見』等と基本的な流れを同じくしている。だが、日本文学でこういうパターンはあんまり見たことがない。単純に読んでる量が少ないだけという批判は甘んじて受け入れる。




 私がさっきラブコメの起源として高橋留美子の名前を出したが、『めぞん一刻』・『らんま1/2』などの優れた作品は、Bの構造を持っている。オースティン同様に女性作家であることも、無関係ではないかもしれない。




 結論をめいたことを言うなら、日本的なラブコメの正統はBにある、ということになる。かもしれない。ならないかもしれない。どっちでもいい。




 ラブコメで特に人気の作品、あるいは評価の高い作品も、思い返せばBに分類できる場合が多い。




 Aの擁護をするならば、気晴らし(エンターテインメント)として読む場合、心地よいキャラクター消費ができること。今も昔も主人公(=自分)に無関心・敵対的な他者は、造形するのが困難であり、また受容する際にも多少の苦痛が生じるということもあって、マーケティングの面からして今の時代的に好まれるのはAであるという面もあるから、仕方ないことは仕方ない。




 まあBの場合も負けヒロインが主人公にデレてくれるから、どっこいどっこいではあるが。でもやはり、敵対的だった他者が自分を認めてくれるカタルシスが、Bの魅力なのである。




 A・Bというここでの「一応」の分類は、もちろんツリー・ダイアグラムのように細分化が可能である。あくまで、「ちょっとラブコメ書いてみようかな」的な人の指標になれば、程度のものである。




 くれぐれも、叩いたりはしないで欲しい。


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