幼いふたりのある春の日に
「もう、満足したでしょう」
その一言は、いつものように唐突で、感情の起伏を欠いていた。
暮れゆく初春の夕暮れを背に、ゆっくりと川沿いの遊歩道を歩く二つで一つの歪な影が、その一言にぴたりと止まった。
見上げる空は、紅色の空。対岸に咲き溢れた菜の花畑を、緩慢な一陣の春風が撫でて過ぎ去り、軽い葉擦れを奏でて舞った。
「もう、私には十分なの。ケンジから償いを受けるのも、他人の足で歩くのも」
その言葉は、静かな湖面に小石を投げこんだように、少年の心を次第に波立てた。少女の投げた一石は、少年の沈静し始めていた心の水面を打ち、水底に積もった小石の山を瓦解させた。
「どうして?」
辿る順路もないままに少年の口端に上ったのは、その一言だった。
「どうして?」
不思議そうに、少女はそう繰り返した。
「それを、あなたは、わたしに訊くの?」
何かを踏みつぶさぬよう注意した抑揚で、少女が静かに問い返す。少女の問いに、少年の返しうる言葉は何もなかった。少年たちは、黙したままに立ち尽くした。
しばらく沈黙がつづいてから「風は、いつもどこかに向かっているよ」と少女が和らいだ声音をだした。少年の知る、姉の声だった。
「地上の風も、空の風も、いつも風は、どこかに向かってちゃんと吹いてるんだよ。まっすぐだったり、曲ったり、たまにぐるぐるまわったりするけれど、ちゃんとどこかに向かってる。どこにも向かわない風なんて、どこにもない」
「だから、ミッちゃんは、死にたいの?」
流れる雲に訊ねるように、空を見上げて少年は呟いた。静止した彼らの横を、颯爽と一台の自転車が走り抜けた。少しずつ小さくなっていくその影を、少女はじっと見ていた。
「だから、ミッちゃんは、死にたいの?」
少年は、その言葉を噛み締めるように、もう一度くり返した。少女に向けて、なにより自分に向けて問うために言葉にした。
「だから、わたしは、殺してほしい」
空から視線を戻した少年が、少女を見下ろし、静かに震えた。夕暮れの空を眺める少女の眼から、澎湃と涙が流れ落ちていた。はらはらと、少女は声なく泣いていた。
けれど、流れる涙には悲哀も、憂愁も、儚さもなく、少し楽しげに微笑ったその顔が、一朝一夕の黄昏の空より美しく、散りゆく桜により勝り、しっかりとそこに生きている証を示していた。
* * *
──あの女さ、援助交際してんだってさ。
予感は、当たっていた。にたにた笑いながら噂好きの級友が近づいてきたとき、良い話ではないということを、少年はどうしてか予感していた。その級友が、少女の名を挙げたときには、確信的だった悪い予感が不安となって彼を攻めた。
少女が、援助交際をしている。
その噂を耳にしたのは、少年が高校二年生の冬休みに入る数日前のことだった。そのとき、少女は、同じ学校の三年生だった。
この時期の三年生には二種類あった。進学を希望し勉学に一年間を翻弄され疲弊している者と、推薦で早々と進学先が決まったり、就職先が決まったりして楽しげに笑う者の二種だった。少女は、後者の就職組にあたった。
だが、実際に後者であるからといって、少女が気ままな日々を過ごしていないことを、少年は知っていた。彼の知る少女は、奨学金をもらいながら高校に通い、放課後にはアルバイトをして母子家庭の家計を助ける真面目な姿だった。
それを知る少年にとって、その噂は彼自身が想像していたよりもひどく衝撃を与えた。もし噂が真実であるのなら、少女はどのような真意でもってそれを為しているのか、少年には少しも理解できなかった。少女がただ金銭のためだけに自分の体を売るような娘ではないと信じていたから。
噂を持ちかけてきた級友に対し、何も意に介していないような気のない応対をしながらも、内心の動揺を隠して事の真意を探り出そうと、少年は会話の端々を食指で探った。しかし、その会話から少年が得たものに、彼女の心は一片も見つけられなかった。
この級友によれば、駅裏から延びた猥雑な歓楽街を、背広姿の中年の男と少女が歩いているのが何度も目撃されているということ。また、その男というのが毎度違っているということ。
そして、これは憶測だが、と前置きしたうえで、もうかなり前から少女はそれを行っているはずだと最後に付け加えて、級友は忍び笑った。その下品な笑い方を前に、少年はこの級友の頬を力の限りに殴りつけてやりたかった。
少年と少女の関係は、同じ公立高校に入学すると、中学生の頃よりは若干の親近感を取り戻し、通学路や校内で行き違うときなどには挨拶程度の会話を交わすようになっていた。
それでも、昔のように能動的にお互いに関わりあおうとすることこそなかったが、少女の父親の葬式の日の邂逅が、どこか二人の距離感に変化をもたらしていたのは確かなようだった。
それは、クリスマスを過ぎて、年末に向けた新たな活気と焦燥に沸くどこか忙しない雑踏が駅前に溢れた、そんな日だった。
少年は、午後九時五十分の定時どおりに予備校の授業が終わると誰と話をするでもなく早々に正面玄関を出た。この頃の少年は、部内での軋轢からサッカー部を辞めて以降、人間関係を維持、発展させていくことに億劫になりだしていた。
予備校は駅前通りに面したところにあった。無意味な慌ただしさを執拗に欲しているように往来する群集を、気もなく眺めやりながら、溜め息をひとつ少年は喧騒へと歩を進めた。
しかし、少年の足は数歩と行かず人ごみの中に止まってしまう。
そのとき、少年の眼前を少女が歩きすぎたからだ。少女は、前髪が薄くなりはじめた中背で肩幅のある筋肉質の中年男性と一緒にいた。その男には、どこか傲岸で野蛮な印象があった。
少年の前を通り過ぎた少女は、彼の知らない媚びた笑みを浮かべていた。それに伴って、男に併行する彼女がどこか蠱惑的な歩き方をしているように、少年には見えた。それは、少年のまったく知らない少女の姿だった。
数歩だけ過ぎた辺りで、少女は不意に後方を振り返った。少年と少女の驚愕と苦渋の眼差しが、このとき纏綿として錯綜した。
──父の追憶を求めて、このようなことをしているんじゃない。
青紫色のライトが照らし出すほの暗い部屋を、少女はベッドに仰向けになって眺めやりながら、彼女の心に吸いつこうとする何かを足蹴にした。
こんな陳腐な青い光のどこに雰囲気などという言葉があるのだろう。ざらざらとした男の舌先が、少女の白い臍の周りを這った。小さく嬌声を上げながら、少女は何を求めてこのような男と此処へと入ったのか、自分でもわからなくなってきた。
初めて少女が男性と寝たのは、高校一年生のときだった。その男は、当時のアルバイト先である居酒屋にやって来た一人の客だった。少女が給仕中に意味あり気な目線でもって少女を見つめ、少女の仕事が終わるのを店先で待っているような低俗な男だった。たしか年齢は四十を少し過ぎた程度で妻子を持った男だったと、少女は薄れながらも記憶していた。
それ以後も、関係を持つにいたる男というのは、だいたいがバイト先で知り合う者たちが多かった。
相手は、客のときもあれば同じ店の店員のときもあった。三十代から五十代と年齢には少しばかり幅があったが、決まって妻子を持つ男であるという共通点があった。
しかし、別にそうした男を少女が特別に狙って言い寄っていたわけではなく、なにより少女からアプローチをかけたことは一度としてなかった。ただ単純に彼女に言い寄ってくる男がそういう男ばかりだっただけだ。
ときおり年の近い男が言い寄ってくることもあったけれど、そうした連中を少女はにべもなく断った。どうしてか少女には彼らにまったく性的な魅力を感じなかった。
そのようなことをしているため、少女が一つのバイト先に長く居つくことはなく様々な店を転々とした。それでも、少女は自分の身体を売るような仕事だけは絶対にせず、共に寝た男たちから金を受け取るようなことも一度としてしなかった。
それと同じように、少女は、一度寝た男とはもう二度と交わらないという信念を持っていた。だが、少女のそうした意思も汲み取れず、一度寝たというだけで自分の情婦であるかのように、しつこく追い回してくる男に少女は何度かあった。
「絶対に嫌です。私は、あなたの女になったつもりなどない。奥さんとでも、やっていればいいでしょう?」
そう言った少女は幾度か殴られた。殴られることで自分の身体を諦められるというのならそれで良い、少女はそう思って頬をさすった。それでもなお、少女に固執する男がいないではなかったが、最終的には、彼女の悪意ある無関心と無反応に口汚い罵声を浴びせかけ、彼女の前から去っていった。その中からストーカー紛いの男が出てこなかったことだけは幸運だったと、少女は心中で苦笑した。
どうして、私はこんなことをするようになったのだろう。
事が終わり、生温かく湿ったシーツに包まって、少女は静かに心の底へと沈んでいった。
浴室からはシャワーの飛沫が弾ける軽快な音と、それに呼応したようなどこか調子の外れた男の鼻歌が聞こえた。ひどく音程の外れた鼻歌がおかしくなって、少女はまだ温かさの残るシーツに頭から丸まりこみ、小さく声に出して笑った。シーツの隙間から見た時計は、午後九時を指していた。
この自分以外の温もりが伝播したシーツに包まっているとき、少女は幸せを感じた。何もかもを受け入れられたような許容感や充足感に身体が包み込まれるように思えた。
そうだ、私は、この感覚が好きだったんだ。
元来、処女だった頃から少女にはセックスそれ自体や純潔であるということに、これといった特別な幻想を懐いていなかった。
それでも、茫漠とした破瓜への恐怖だけが彼女の内に拭えずにあった。しかし、その破瓜の痛みなど感じることもなく、初めての夜は過ぎた。もしそれが名前も覚えていない自分の初めての男の手柄であるのなら、それはあの男に感謝しても良いと少女は思った。
セックスに何かしらの嫌悪感を植えつけられることもなく、事後のこの不思議な布団の温もりがあることをただ教えてくれるために少女の前にあの男が現れたのだとしたら、彼は少女にとっての足長おじさんなのだ。そう思うと名前くらいは覚えておいてあげてもよかったな、と少女はくすりと笑って思い返した。
ただし、少女にとってこの感覚は、一人に対して一度きりにしか感じられなかった。二人目か三人目の男と二度目のセックスをしたときに、この温かな何かを少女は感じられなかった。そのときから少女は、一度セックスをした男とは交わらないと心に決めたのだった。
この幸せなシーツは、私ひとりだけの温もりでは作り上げられない。少女にはそう確信できた。目には見えず、言葉にもできないけれど、何かが温もりという形を取って少女を幸せにした。少女は湿り気を帯びた生温かなシーツに包まれながら幸せについて思いつづける。
ふと、その温かなシーツにくるまったままの少女に、この場にはまるで相応しくない、幼いころの少年の顔が浮かんだ。いたずら好きのくせに臆病で、でもすごく甘えん坊で人懐っこい、そんな幼かった少年の姿。その目に浮かび純真さが、ひどく懐かしくて、少女の頬が自然とゆるんでいた。
薄暗いホテルの玄関を抜けると、歓楽街に立ち並ぶネオンの軽躁な光が少女の目を眩ませた。
この光彩を浴びていると、先ほどの充溢した幸福感が次第に蒸発していくように思えて、少女は閉じた目の奥でこれらの消えてくれることを願った。当然ながら、目を開いた先の現実は、なおも傲然と少女を照らしつづけていた。
これから食事でもどうかな、と男が勧めたが、少女はそれを頑なに固辞した。それならせめてタクシー乗り場まで送らせてくれ、と男が強く請うので少女は仕方なくそれを受け入れることにした。正直に言えば徒歩で帰りたかったのだが、機嫌のよかった少女は別れの好意くらい受け取ってあげるべきだろうと思った。
けれど、最後に決然と、これ以後は絶対に関係を結ばないこと、今後身辺に近づかないことの二点を少女は男に要求した。中年の男は、最後に理解力と包容力のあるところを誇示したいのか、大きな声で豪快に笑ったあと、わかったわかったと二度頷いた。少女は男の底浅い笑い声に辟易としたが、このような男の方が単純で扱いやすいと半面に思った。
駅前のロータリーへと向かいながら、少女は賑わう雑踏に閉口した。加えて、隣を歩く男の話す他愛ない話に相槌を打ちながら笑いかける瞬間が、何よりも苦痛だった。このようなことになるのなら一人でさっさと帰るべきだったと少女は後悔していた。
そのときである。不意にどこか既知感のある風景が、少女の横を擦過していった気がした。少し後方を振り向いた少女の眼差しに映ったのは、疲れを帯びながらも至純さを失っていない少年の双眸だった。
あの葬儀の日に感じた少年の純粋な瞳への苛立ちに似た何かはまったく起こらず、その眼瞼の奥に郷愁に似た愛情を感じた。
一瞬の邂逅を経て行き過ぎた少女の瞳の深く暗い色に、少年は見入っていた。
呆然とした少年の心に、ふと先ほどの少女の阿るような笑みが少浮かぶと彼は慄然と震えた。それは、あまりにも少女に不自然な笑顔だった。だからこそ、少年はその笑みを絶対に認めるわけにはいかないと思った。その意志が彼の足を前に踏み出させた。
いつしか駅前のロータリーに向かう衆庶の波に飲まれて、少女たちの姿が見えなくなっていた。少年は、急くように少女たちの後を追って流れる人波を進んだ。少年は、必死になって少女たちを追っている自らを省みて不思議に思った。
別に少女に恋しているわけではない、少年は、そうはっきりと答えられる自信があった。ただ、どうしても何かが不満だった。どうしても認められない何かがあった。
少年が追い人を見つけたとき、すでに彼女はタクシーに乗り、窓を開けて男と何かを話しているところだった。
時計を掲げた鉄塔の下で、少年はその光景を見ていた。頭上の時計が十時の鐘を鳴らした。錆びつき怠惰に聞こえる機械音に、雑踏の足の群れは止まることがない。だが、聞きなれていたはずのその音に少年は驚き、時計台を見上げた。
「ケンジ」
少女の声が、消えゆく時の声を追うように少年に届いた。タクシーへと振り返ると、少女が窓枠に片手をついて小さく手を振る姿があった。少女の顔は、いつかに見た柔らかく優しい笑顔だった。
「一緒に、帰ろうか?」
少年は、恥ずかしさに俯いた。その赧然とする思いのまま、少年の足は自らの意思も待たず、少女に向かって進みだしていた。少年の心を満たしていたのは、少女の朗らかで懐かしい笑顔だった。
少年がタクシーの前まで来ると、隣に並んだ男から鼻で笑う音が聞こえた。男の顔を見上げることも、奥に座る少女の顔を見ることもせずに、少年はタクシーへと乗り込んだ。
ドアが音を立てて閉まったあと、男が少年へと聞かせるかのように、少女の体の具合について下卑な声で告げた。少女は、その場にいる皆に聞こえるほどの大きな音で舌打ちをした。
「はやく車を早く出してください。ケンジ、窓閉めて」
少年が、窓を閉め終わるのと同時に、タクシーが動き始めた。窓を閉めるとき、少年は見送る男の奇怪な笑顔を横目に見た。少女の手に握られていた何枚かの千円紙幣が、くしゃという乾いた音をたてて握りつぶされた。
「子供は、嫌いだわ。ほんとに」
タクシーが交差点を曲がり大通りへ出ると、少女が浅い溜息まじりに言った。また少女の手元から、くしゃりという音が静かな車内に響いた。
「大人になったつもりの、醜くて汚い子供ばかり、世の中なんて」
少女は、窓外に流れる街を横目に眺めていた。バックミラー越しに運転手がそんな少女を凝視しているのが、少年には見えていた。
「私も子ども。ケンジも子供。みんな、子供。子供ばかりの馴れ合いでできてるんだ、この町は。大人なんて、どこにもいない」
「子供って、そんなに悪いことなのかな」
そのとき、不意に少年の口をついたのは、心の抑圧の声を押しのけて、やっと搾り出された程度の小声だった。少年は、窓外の光をうけてときおり艶立つ少女の黒髪を見つめた。それは、昔から何一つ変わらない少女の美しさだった。
「それが、子供なんじゃない」
少女は、流し目に少年の目を見た。外灯が照らし出した少女の潤んだ目は、窓外を流れていく細やかな光の流砂を映して炯然と輝いていた。少女が窓を少しだけ開けて、手中にあった紙幣を躊躇なくその隙間から指で弾いて捨てた。少年が遠慮がちに振り返ったときには、それが後続の車に踏み潰される瞬間が見えた。
「子供って、うまく諦められないんだよ。必死になって、自分が正しいと思うものを求める。学校では、頑張ることの正しさしか教えてくれない。だから、体だけ大きくなっても、結局同じ道を歩いてる」
「それって、良いことだと思う、悪いことだと思う?」
「どっちでもないよ。いつまでも子供ってだけ。でも、ケンジは、どっちが良くて、どっちが悪いと思うの?」
少年へと向き直りその目を直視して、少女は口元だけを小さく微笑ませた。その眼差しと微笑みは、少年に懐古の情を起こした。
「ごめん」
そう呟いた少年は、少女の眼差しを避けるように俯いた。
「どうして、ケンジが謝るんだよ」
少女が額を窓に押し当てるトンという音が、やけに大きく車内に残った。
そうして二人とも黙したまま、タクシーは夜の寂れた公民館の前で停車した。少女の制止も聞かず、少年は乗車代を運転手に押し付けて車を降りた。千円札二枚で十分に事が足りた。
走り去るタクシーのテールランプを見送って、二人はどちらからともなく帰路を歩きはじめた。深夜も近い住宅街は朝が来るまでの間、停滞した静けさをその身に蓄えていた。
「いろいろ、私のうわさ聞いてる?」
少年より少し後ろを歩きながら、少女は鼻でふっと息を抜くようにして笑った。少年は振り返ることなく歩きつづけた。少女の言葉が聞こえなかった風に、ただただ前を向いて歩いた。
「……そっか」
二人は、少女の家の前に差し掛かった。少女の足音が止まった。少年も数歩先に進んでから足を止めた。陰影深く黒い雲に満ちた仲冬の空に、月は見えなかった。
「ごめん、ケンジ」
「なんで、ミッちゃんが謝るんだよ」
「謝らなきゃいけないのは、ケンジじゃなくて、私だから」
手のひらほどに大きな蛾が、少年の頭上をかすめて街燈に吸い寄せられた。羽に広がる鱗粉が灯火の下で埃のように散った。
「だって、わたし、お姉ちゃんだから」
少女の声は恥ずかしげな微震と、嬉しげな躍動によって二人の間にふわふわと浮かんだ。
「それと、ありがとう」
少女の言葉は、静謐とした路上に二人の影を縫いつけるように反響した。
「ばいばい、ケンジ!」
そう言い残して、振り返ることなく少年は駆け出した。彼の心に纏わりついていたものが鮮明になると同時に、跡形もなく消えていった。
顔のない曇った冬の空が、見送る少女と、駆けて行く少年の上にいつまでも広がっていた。
* * *
このとき、風は凪ぎ、ゆっくりと世界は止まろうとしていた。
空の浮雲が所在なくたゆたい、二人の上に物言わず浮んでいる。対岸に咲き乱れた菜の花も、眠りについたように動きを止めていた。堤防に沿って窮屈そうに流れていく底浅い川面に反射した、赤や黄色や橙色の光輝の群れが次第に弱まっていくなかを、大きく伸びた影を従えた少年と少女が、ゆっくりと歩んでいた。
下校する子供や買い物帰りの主婦がときどき往来し、二人の並んで歩く堤防に穏やかな生気を流していった。車椅子を押していた少年は、山間に沈む夕日がよく見える位置でそっと立ち止まった。
「ごめん」
少年の、謝罪の言葉。
「おれには、ミッちゃんを、殺せない」
深く息を吸い込んで、触れた感触もないような繊細な絹糸をたぐるように、少年は口を開いた。けれど、その声は何物にもかき消されることのないように明瞭な響きをたずさえていた。
「おれは、ミッちゃんに、生きていてほしい」
つないでいく言葉の節に乗り、つなぐことで生まれる言葉の意味を、少年は噛みしめるように区切ることで口にした。
「だから、ごめんなさい」
それは、お腹の底に沈殿していた泥を濾し出すように発せられ、様々なものを圧しつづけた末に抽出された一滴の言葉だった。
「こんな弟で、本当にごめん。姉ちゃん」
少年は、いつしか泣いていた。自分がなぜ泣いているのかもわからず、ただ涙が頬をつたった。
「でも、姉ちゃん。本当に、ありがとう」
唾を飲むことで震える喉を抑えつけ、少年は最後の言葉を紡ぎだした。
ふたりの内に戯れ続けていた幼き日々の面影が、活気に溢れて駆け出した。菜の花畑を走り抜け、浅瀬の砂利をまき散らし、斜面のなずなを踏みしだき、暮れゆく時を惜しむように、ふたりの周りを駆け巡った。そうした幼いふたりの影を、少年と少女は見守った。いつ終わるともわからない、その戯れを、じっと、ずっと。
少女の口辺が、小さく動いた。なにか言葉を紡ごうと微かに動いた唇は、けれど、何も発せられることなく閉じられた。対岸から菜の花の葉擦れの音が、遠くからゆるやかに辺りを駆けた。
「風が、また、吹きだしたね。ちょっと、さむい」
帰ってきた風を驚かせぬよう、まるで眠る幼子を抱き取る母のように和らいだ少女の声がした。
上空の雲も、対岸の菜の花も、遊歩道に立った二人の影も、この世界のあらゆるものを、また吹きはじめた風が、悠久のなかで踊らせた。
「うん。そうだね」
少年は、涙をぬぐい、微笑みを浮かべる。その目は、少女を見つめ、風の吹く世界を仰ぎ見た。
そうして二人は、また歩き出した。
「今日の夕御飯は、なんだろう?」
それは、少女の言葉。
「コロッケだと思う。家を出るとき、おばさんがじゃがいもをたくさん茹でてたから」
それは、少年の言葉。
「それは、ちょっとうれしい、のかな」
二人は、静かに笑いあって、ゆっくりと歩を進める。
いつまで続くともしれない、ふたりだけの、幼き日の戯れを残して。
【了】
最後までお読みくださり、本当にありがとうざいました。
この作品は自分の中でも少しばかり思い入れもあったので、こうして手直しをした上でもお目汚しとはいえ発表できたことを嬉しく思います。
この物語において、少女と少年が、ふしあわせのしあわせを見つけられたのか、私にも本当のところよくわかりません。
ただ、もう一度ふたりが歩き出す物語が書けたことに、当時の私も、現在の私も満足している、そんな作品です。
毒にも薬にもならず、むしろ時間だけを浪費させてしまっただけならば申し訳ないかぎりですが、こうして後書きまで目を通していただき、誠にありがとうございます。
お茶を濁す程度に過去の作品を投稿しましたが、できれば次回は新しく書き上げた作品を発表できたらいいなと思っています。それでは、またの日に。