二人をつなぐ楔 Ⅱ
少年は、少女のいる病室へゆっくりと歩を進めた。
天井との接点を黄ばませた白壁と、奇妙な艶をもつリノリウムの床が共謀しあい、来訪者の足音をいやに反響させて、病室に待つ者たちにその来訪を告げているかのように聞こえる。
――ミサね、体を自分の力でもう動かせないかもしれないんだって。自分で歩いたり、ご飯食べたり、なんにもできなくなるんだって。
昨夜、病院の廊下で知らされた少女の体について語った、彼女の母の言葉がまた聞こえた気がした。
その言葉はずっと脳裏をめぐり、ベッドに横になることもできぬまま、寝ているのか寝ていないのかもわからない意識で、少年はこのときまでを過ごし、気がつけばその足は自然とここに向かっていた。
もう自由になることのない、少女の体。
病室に向かう少年の足は、まるで全身を循環する血が足先で砂に変わり、次第に沈殿していくように重たかった。病室へと近づくにつれ、その堆積した砂が固着して、まるで足の形をした石へと変わっていくような気がした。
それでも、少年の足は前へと進んだ。それがたとえ自己の意志によらなくとも、それが義務と自責をひたかくしに隠した欺瞞の意志だといえようとも、その足は病室に向かった。
――どうして、こんなことになるの? どうして、私にばかり、私の家族にばかり、こんなことが起こるの?
それは、深夜の病院でつむがれた運命への怨嗟の言霊。
病院の待合室で、今にもくずおれそうになる膝を懸命に支えながら、少女の母は少年の前に立っていた。そのときの静かで苦しげな嗚咽が今も少年の耳に残っている。
少年は、ドアの閉まった病室の前で立ち止まった。ネームプレートに彼女の名前はなく、ただ『在室中』とだけ記されていた。
どのような顔で、どのような言葉でもって、少女に接すればよいのか。
少女のさらされている現実を知った上でなお、こうして顔を合わせる瞬間を、どのように過ごせばよいというのか。
少年の内を渦巻く罪悪、悔恨、懺悔、悲嘆、そして、感謝。けれども、それらはどれもどこか違うような気がして、何一つとして彼の中で言葉としての形を成しえなかった。
ゆっくりと何度か深く息を吸ったあと、少年はドアを開けた。
病室は、白色の六辺を黄昏の茜色に染めぬかれていた。
息苦しくどこか圧迫感を感じさせる四畳半ほどの部屋で、少女は静かに眠っていた。
少女の額は白い包帯に巻かれ、首にはその存在を誇示するかのように太いネックサポータが着けられていた。左の上下肢のギプスが赤い夕日の中でひやりと冷たく見えた。
ベッドの傍らに座った少女の母が、力なく義務的な笑みを浮かべて少年を迎えた。少年は黙して長く頭を下げた。
枕もとのパイプ椅子に座って、少年は少女の顔をじっと見つめた。顔は傷一つなく綺麗なままだった。
白い皿にのったりんごが、少年の前に差し出された。見上げると少女の母があいかわらず小さな笑みを描いていた。少年は礼を言って一切れのりんごを手に取ると口へと運んだ。思えば、それがその日はじめての食事だった。
舌先に広がっていくりんごの酸味が、少年の体に昨夜の雪の冷たさを思い起こさせた。
あのとき、倒れ伏した少女を前に、少年は音もなく崩壊していく日常を恐れ、ただ愕然と震えつづけていた。少年の心は、眼前にあるはずの世界を拒否していた。
激したクラクションの音。何かが撥ね飛ばされた鈍い音。バイクの横転し滑走していく擦過音。閑静だった夜の街路を引き裂くように駆け巡ったそれらは、近隣住民に異常を知らせるに十分だった。
夜間にもかかわらず知り駆けつけた人々が二人を取り巻いても、少年は酸欠で水面に浮かんだ金魚のように口を小さく開いて浅い呼吸を繰り返すばかりだった。
降り積もる雪が救急車の灯火に赤芒と輝きだすと、少年の心にひとつの焦点が合わさった。
少年は唐突に立ち上がり、救急隊員の肩口を強く握り締めて猛然と叫び上げた。
──助けてください、ミッちゃんを、助けてください! お願いです、助けてください! 殺さないで、お願いだから、ミッちゃんを殺さないで!
あのとき失念することなく、的確な対処ができていたのなら、今の現実は多少なりにも変わっていたのだろうか。
少女の安らかな寝顔を見つめながら、少年は内心に問うた。ただ、それに応える者の影は、いつまで経っても現れてはくれそうになかった。
少年の眼前で、彼女の母親の手によって横たわる体が少し寝返りをうたされた。今は床ずれですらも少女の体を蝕んでいく。
少年は、轢き逃げの犯人について人に語りうる何ものも思い出せなかった。
迫りくるライトの向こうに黒色のフルフェイスのヘルメットが被られていたということだけが、鮮明に彼の中に残された事実だった。
しかし、それは撥ねられた少女にしても相違なく、撥ねたバイクが黒を基調とていたということくらいしか覚えていなかった。
あの静謐とした街路では、被害者である少年と少女の二人だけが目撃者だった。だのに、少年によってとつとつと断片的に語られるだけの漠然とした情景は警察を嘆息させた。
だが、少年にとって、犯人の特定といったものはさしたる重要性を持たなかった。なにより少年に重要なことは、こうして少女に助けられたという事実にあった。
迫り来るバイクを前に、何の反応も示せず棒立ちだった少年。酒に酔いながらも少年を助けるために全力で突き飛ばした少女。
あの瞬間、少年に隣を歩く少女を思いやる余裕はなかった。切迫する危機を前に、彼の思考は漂白されていた。体だけでなく心においても、少年は少女を守ることができていなかった。少年は、一方的な救済を少女から受けたと思った。
しばらくして少女の母が席を立った。自分の夕食を買い出すためだった。少年はドアの脇まで行ってそれを見送り、少女へとまた向き直った。
いつの間に起きていたのか、少女の眼が気だるげに開けられ、風に揺れるカーテンを見つめていた。
「おはよう」
自然と、そんな言葉が少年の口を開いた。いろいろと最初に発すべき言葉を考えつづけていたはずなのに、最初の言葉は少年の考えなど意にも介していなかったかのように自然な形で発せられた。
ただし、そんな日常の挨拶に、返される言葉はなく、吐き出された言葉は赤く染まる病室に散った。
「りんごは、まだ、食べられないよね?」
少年はそう言って皿の縁に手をつけた。けれど、少女に反応はない。皿上のりんごは少しずつ淡く変色を始めていた。
行き場を失った少年の手は、りんごを一切れつかむと口へと運んだ。りんごを噛み切ったとき、しゃりっという軽快な音がやけに大きく響いた。
「いま、おばさんは夕飯を買いに行ってる」
その言葉への反応もなく、少女の眼差しは空に向かっていた。窓外の冬空はすでに茜色を捨て濃紺色の服を着ようとしていた。レースのカーテンが風にゆらりと揺れた。
「寒いかな? 窓、閉めようか?」
窓枠に手をかけて、少年は少女を振り返った。少女は依然として何も言わず、窓枠にかかった少年の指を見つめていた。夕方とも夜ともいえない冷たい風が少年の頬を撫でた。窓はゆっくりと閉じられた。ゆらめいていたカーテンは音もなく止まった。
少年は、ついにかける言葉をなくしてしまった。
静けさは常に二人の間に居座ることを心待ちにしていて、その抵抗がなくなるとわかるや、軽い身のこなしで狭い病室にその身を横たえた。訪れた沈黙は、その場の雰囲気を入念に調べるかのように、少年の心を緩慢に圧迫し、彼の内にある不安をじっくりと醸成した。
廊下を一定のリズムで闊歩する看護師の軽妙な足音も、開け放たれたドアの敷居を境に世界が乖離して遠い別の次元を知らせた。少女の短く浅い息が病室の静謐の中で大きく聞こえ、少年の鼓動が同調して大きく律動した。
「ねぇ」
少女が、静寂を破るわけでもなく、その静けさを汚さないような自然さで、柔らかな声をあげた。
そんな少女の目には、感情がなかった。
「なに?」
少年の鼓動は、次第に高鳴った。静けさに随伴した澄んだ少女の声は、少年の心の不安を掻き立てた。
「殺してよ」
それが、少年へと少女の発した、最初の言葉だった。