幼かった二人のある雨の日に
病院内の緑に囲まれた遊歩道。そこを少女の乗った車椅子を押して、少年が歩いていく。
初春の空は、雲ひとつなく晴れ渡っていたが、風はまだ忘れられぬ冬の寒さを抱いていた。緩やかなスロープの両側で、目に鮮やかなバンジーの花が風に揺れた。
「春休みは、いつまで続くの?」
少女は言葉をゆっくりと吐き出したあと、冷たい空気を求めるように大きく息を吸い込んだ。
「たぶん、二週間とちょっとくらい。四月の頭には、講義が始まるみたいだから」
少年はすこし思案顔をしてからそう返答した。
「まるで、他人事みたいに言うのね」
「あまり詳しく知らないだけだよ」
スロープを抜けると二人はコの字型をした病院の前庭に出た。病院の壁面は方々にひびが走り、そこから塗装が剥落して灰色のコンクリートを晒したり、雨垂れによって黄ばんだりしていた。お世辞にも見る者の心を和ませる外観とはいえない。
しかし、少年と少女は、この病院と幼少の頃から遠からぬ縁を持ち続けてきた。
事の始まりは、二人が時を前後してここに産まれたこと。
それからは、少年が山から転げ落ちた際に担ぎ込まれたのもこの病院。少女の父親が短くも今際のときまでを過ごしたのもここ。
そして、あの日、少女が運び込まれたのもこの病院であり、こうして今も通院でリハビリテーションをここで行っている。
まるでへその緒を握られて引っ張り込まれているかのように、二人はこの場所へとやってくる。
少年は、眼下の少女を見た。いったい彼女はこの病院にどのような思いを懐いているのだろうか。
自分のこと、父のこと、少年のこと。彼女はいったい何を思っているのか。
いつものように少年の内に起こった少女への問いは、ただ彼の心を乾燥させるばかりで悄然と消えてしまう。
あのとき何をすべきだったのか、このときに何ができるのか、次があるならば何をなしうるのか。
少年には、まだ何一つの答えも見当たらなかった。ただ自身の無力さに気づき、自らの心を焦燥させ、いたずらに心を爛れさせるだけの、それは実のない懊悩だった。
* * *
少女の父の葬儀は、不安定な曇天の秋空のもとで行われた。
当時、少年が中学二年生、少女が三年生の年だった。
両親に連れられて参列した少年は、人々の間隙に久方ぶりの少女の姿を探した。十畳間の和室の奥、生前の慈悲に富んだ微笑みを見せる父の遺影の傍で、中学校の制服を着た少女が視線を畳に据えたまま固まっていた。
その瞳は涙もすでに枯渇してしまったのか、潤う光のない奥深い黒さをしていた。久しく見ていなかった少女は姿の見えない悲哀に濡れて、女子から女性という性にいつのまにか成長しているように、少年には映った。
そのとき、不意に顔を上げた少女と少年の目が交わった。下まぶたの腫れた眼から放たれる視線に少年は射抜かれ、少女の深遠で黒色の瞳の奥に彼の心は迷い込むように引きつけられた。
──その日も、何の変哲もない繰り返される延長線上の一日なのだと皆が思っていた。
けれど、少女の父はその日の午前、仕事場で唐突に倒れた。
営業先に出向こうと自身の席を立った、その途端だったという。隣席で働く同僚の椅子へと覆い被さるように、彼は横転したそうだ。倒れた直後にはまだ意識があり、激しい頭痛に顔を歪めて嘔吐を繰り返しながらも言葉を発することができたが、救急車が到着する頃にはすでに昏睡状態へと陥っていた。
病院での手術は無事に終わったが、彼の意識が戻ることはなかった。二十三日の入院の後、彼は昏睡状態のままこの世を去った。
少女は入院する父のもとへ毎日通った。放課後になれば彼女の足は誰が求めるでもなくそこに向いた。
父の倒れるそのときまで、少女も多分に漏れず、男性の象徴である父に対して、年頃の女の子に特有の生理的な嫌悪を感じた。そうした感情が、日常生活の上で父へ向けた直接的な行為や言動となって表面化することも再三あった。
父の些細な言動、態度や癖、父の体臭、父の洗濯物、父の入浴後の残り湯。そういった父の生活すべてが、少女の胸裏へと激しい嫌悪感となって押し迫るような気がした。
父の倒れた日の早朝にも、少女は母が父の洗濯物と一緒に自分の衣類を洗ったことに対して、本人の面前でなじった。
そのときの少女の父は怒るでもなく、どこか羞恥と困惑の混じった苦笑を浮かべていた。そうした罵言が父の聞いた娘の最後の言葉になった。
病院へと向かう少女は、その事実を何よりも悔いていた。そしてこの慙愧の念に反して父に対する愛情は今更ながらに高まり、より深まる結果となった。けれど、それが後悔と寂寞にまみれた不誠実な愛情である、という自覚が少女自身を際限なく呵責した。
病室を訪れるたびに、少女には父がどんどん死に近づいていくのを感じた。
理由もなく、ただ漠然とそう確信できた。どのように母や医師から手術の成功を言い聞かされようとも、少女の心に父の死を受け入れるための棺が作られていくことを止められなかった。
わたしは、お父さんに何ができたというのだろう。
大小様々な管につながれ、人工呼吸器を取りつけられた父の顔を見つめながら、少女の心は暗中を漂っていた。病室には母も看護師もおらず、少女がひとり父の枕元に腰掛けていた。
お父さんは、幸せだったのだろうか。お父さんは、幸せなのだろうか。お父さんは、幸せになれるだろうか。
少女は、物言わぬ父の顔から答えを探し出すようにじっとその顔を凝視した。一見するだけでは、ただ眠っているだけのように見えるほど和らいだ顔をしていた。
わたしは、幸せだったのだろうか。わたしは、幸せだろうか。わたしは、幸せになれるだろうか。
少女は父の手を握った。冷たかった。
けれど、深く奥の方にほのかな温かさを感じた。父が生きることを渇望しているのか、死ぬことを切望しているのか、手を握る少女にはわからなくなった。
いったい何が、幸せだというのだろう。
少女は、父の右手を両手で包み込んだままじっと目を閉じて、彼の内に残る温もりを引き出そうとした。次第に少女の温かさが父の手へと伝わり、彼女と同じ温かさをその手は持ったように思えた。
しかし、その温かさも少女が手を離すとすぐに霧散していった。
入院から三週間以上が経ち、母の顔から目に見える疲労が現れ始めた。もう少女を気遣うだけの余裕が余りないのか、少女が病室にいる時でも嘆息が彼女の口をつくようになった。
その日の夕刻だった。母子のそろった前で、父の心拍が乱れた。不意に緩急が乱れ、弱まり、そしてぴたりと止まった。
母は、夫の名を叫んだ。彼女の叫び声は狭い病室に木霊した。少女は溢れそうになる涙を堪えて、医者の手により胸を押しつぶされる父の姿を見つめた。
きっとお父さんは死にたがっている。少女は眼前の光景をぼやける視界で見ながらそう感じていた。
そうして、父は安らかな寝顔で我が家に帰宅した。
祖父母や叔伯たち、父の訃報を聞いて駆けつけてきた少女の見知った近縁者たちのみで、ささやかな通夜が催された。父の夭折な死を悲嘆する声が夜通し家を覆った。
倒れてから三週間過ぎでの予期せぬ死に、入院中に顔を見に来られなかったと嘆く県外の伯父が、父の手を握り締めて泣き崩れていた。
祖母は父の首に細い腕を蔦のように巻きつけ、父の夭死をもう償うことの出来ぬあんたの罪だと、号哭の中で糾弾していた。彼らには父の死はあまりにも早いものでしかなかった。
少女の母は壊れた自動人形のように、訪問者の応接や明日の葬儀の準備にと家中を忙しなく動き回っていた。
周囲の者は、必死に駆けずり回る彼女を止めることがむしろ残酷であるように思え、それとなく休むよう忠告することしかできなかった。
通夜の沈鬱な空気の中、少女は父の枕元について親縁者と父との面会に立会い、慰藉の言葉を互いに交し合った。皆は一様に少女に向けて涙ながらに慰めの言葉を告げた。
少女の心の内の棺は、彼らの哀号を父の付属物として納めた。
このまま明日、父の遺体が納棺され火葬されるとき、少女の内に秘された棺は、誰にも知られることなく心底に埋葬されることだろう。その棺は燃やされることもなく、深くふかく手の届かぬどこかへと。
深夜を過ぎた頃になって、遠方に住む数名の親類が泊まるほかは皆この家を去っていった。
少女が自室の扉を開いたとき、時計の針は零時を半刻ほど過ぎていた。
月明かりだけの薄暗い部屋の中、窓際に立った少女は呆然と外を眺めた。
自宅前は街頭のほのかな光にぼんやりと染まっていた。ふと庭に目を向けると、そこには昨日の洗濯物が取り込まれないままに干してあった。
いつも一つだけ離れて干されていた父の下着は、もうどこにもなかった。
探しても、さがしても、風に揺れるいくつもの洗濯物の中に、父の下着はもうどこにもない。
少女の頬を一滴の涙が流れた。
一筋が流れるとその後はとめどなく涙が溢れ出した。少女の悌泣が暗く狭い部屋にかぼそく響いた。
翌日、葬礼はつつがなく執り行われた。抑揚のついた枕経の響くなか、参列者たちは飴に向かう蟻の行軍のように焼香を済ませていく。
そこには少女の知らぬ者たちが数多くいた。むしろ知らぬ者たちばかりだった。
彼らは、お父さんの生前の記憶たち。記憶たちの鎮魂と懺悔の整列。わたしは、父のことを何も知らなかった。そう、私は何も知ろうとしていなかった。
少女は、静謐とした湖面へゆっくりと入水していくように静かに目を閉じた。
凪いだ湖面には、少女と共に父の棺が粛然と浮かんでいた。
ふと静謐だったその湖面に、小さな波紋がたった。
少女は、不意と顔を上げる。そこには、少女を見つめる稚気とした双眸があった。
それは、久しく見ていなかった少年の黒目勝ちな幼い眼差しだった。少女は、彼の瞳から放たれる純朴な光になぜか苛立ちを覚えた。
そうして、一瞬の再会の視線の交わりも、少女が目を閉じて顔を伏せたことにより終わった。
焼香を済ませた両親に付き従い、少年は、故人の眠る白菊に囲まれた祭壇を離れた。去り際の少年は少女を横目で追ったが、彼女はじっと目を閉じて俯きつづけているだけで、もう顔を上げることがなかった。
門の両脇には敬弔の花が立ち、塀を白黒の鯨幕が覆っていた。その前を沈重な面持ちをした弔問客が粛々と歩いている。
少年は、家路を歩きながら、先ほどの少女の眼差しが自然と思い出された。少女の瞳の奥に秘された何かが少年の心を掴んでいた。
少女が小学校を卒業したのを境に、二人が遊ぶことも、互いの家を行き来しあうこともなくなった。けれど、それはお互いを異性として意識し合うようになったゆえの疎遠さではなかった。
それは言うなれば、年頃になり成長過程において姉が弟に対して興味を無くしていくことと、弟が姉に対して漠然とした疎ましさを懐いていくことが彼らのうちにも起こった結果に近かった。
二人の関係がこうして疎遠になっていた中学生の時分において、二人が身体的にも精神的にも最も近接した日がこの日だった。
少女の家から帰宅した少年は、二階にある自室から霊柩車が遠のく姿を見送った。
その絢爛な輝きに随伴して数台の自動車が後進していく。この一団の中に少女を乗せた車があるはずだった。晩秋の濃淡ある曇天のもと、遠くに見る黄金色のレリーフは、まるで平板な現実から彫り出された異界の物に見えた。この黄金色の異邦者が旗手となり従えた一群は、目指すが死地だと知りながら鈍く重い足取りで去って行った。
しばらくして、雨が降り始めた。音もなくしとしとと降る驟雨だった。
午後三時を少し過ぎた頃に、少女たちを乗せた自動車の群れが雨の降るなかを帰ってきた。ちょうどその光景を眺めた少年は、相当な苦戦の果てに達成感と開放感に満ちた帰還者の姿をその一団に見たように思った。
夕刻になり降っていた雨が止んでから、少年は家を出た。どうしてだか自室でじっと閉じこもっていることに耐えられなかった。
少女の家の前で何気なく立ち止まり塀の内側を窺うと、そこから疲弊の底で澱んだ人声が漂って聞こえた。そこに少女の声は判別できなかった。
弔問客の人いきれが途絶えた街角は、すでに生活音にあふれた日常の中にあった。
大きく溜息を一つ吐いた少年は、少女の家を通り越して近くの公園へと足を運んだ。
そこは、五階建てマンションの隣にあるうえ、背の高い街路樹に囲われて日中も影が広がるような薄暗い場所だった。けれどその半面、訪れる者が多くない静かな公園でもある。
幼いころ母親に怒られて泣いて家を出たときに、少年はよくこの公園で泣いていた。今でも一人になりたいけれど一人になりきれないような微妙な気分を抱えたとき、少年はここに来た。
しかし、このとき、公園には先客がいた。
喪服代わりのセーラー服を着て、ひとり木陰のベンチに腰掛ける少女。
雨のなか座り続けていたのだろう、黒く長い髪が額や頬に張りついていた。その目は何を見つめているのかただ虚空に向かっていた。
少年は、予期せぬ邂逅に困惑した。どのように声をかけるべきか悩む少年には、その始まりの一言がどうしても出てこなかった。少女のまとう何かが、少年の心をざわつかせた。
茫然として定まらなかった少女の視線が少年に向かい、ゆっくりとその焦点が合わさった。
「なにしてるの?」
少年の耳に届いたその声は〈少女〉の声ではなかった。十四歳という〈少女〉にあるべき様々な色彩が脱色されて聞こえた。
「ちょっと、そのへんを散歩」
少年は、自分の喉から出た声に嫌悪した。喉仏も出てしわがれた大人の声に少しでも近づいたと自惚れていた声は、何ひとつ本質的に変わっていないことを知らされた。
何の重みも持たない薄っぺらな声。けれど、それがゆえにいつか変遷を遂げられる未開の声。しかし、それがこのときはあまりにも口惜しかった。
「お葬式は、もういいの?」
「もういいんだよ。お父さんは、骨になったんだから」
少年と少女の間には、子ども一人分の水溜りが雲の影も鮮やかな空模様を映していた。その水面を数秒に一度小さな雨粒が打った。
「ケンジ、背伸びたね」
そう言って、少女は口元だけの微笑みを浮かべた。
「こうして近くで見るの久しぶりだから、なおさらそう感じるのかもしれない」
このとき少女は初めて、少年を『ケンちゃん』ではなく『ケンジ』と呼び換えた。けれど、それは呼ばれた本人にも気づかれないほどに自然な置換だった。
「俺も、久しぶりにミッちゃんを見た。お互いに、背たけ以外あんまり変わらないね」
少年は、少女にも、彼自身にも嘘をついた。少女の心身両面からの変化を感じ取っていながら、それを認めることに抵抗があった。
少女の視線には、少年を非難する色が明らかに見えた。それがいったい何に向けられた非難であるのか、少年にはわからなかった。ただ、その非難が自分に向けられているものであることだけが、その曖昧な非難の中で彼の持ちえた唯一の確信だった。
「これからが、たいへんだよ」
少女はそう言葉を吐いて、曖昧な微笑を付着させたままに小さく呟いた。
「でも、どうするべきなのか、私には、よくわかんない」
そう嘯いた少女はくすりと笑った。相手を省みない若い自虐と自棄に満ちた微笑み。
少年は、じっと一途に黙したまま、その微笑みに不器用な笑みを返した。雨上がりの湿った風に、少女の額にたれた艶やかな黒い髪の毛先が揺れた。
「ねぇ、生きるために足掻くことは正しいことだと思う? それとも、いずれ誰もが死ぬんだから、そのたった何年間のために頑張る必要なんてないと思う?」
少年は、曖昧に笑ったまましばらく黙っていた。少女はその姿をじっと見つめていた。
「そんなの、俺にはわからない。でも、人間は生きてるから死ぬんだよ、きっと」
少女は、目をつぶり口元だけで笑った。その笑みが少年の答えなど初めから求めていなかったことを漠然と語った。
「私ね、思うんだ。死ぬことが恐くなくなったとき、それが一番生きることを満喫できるときなんじゃないかって」
そう呟く少女は、薄く眼を開けて水溜りの空を見つめていた。
「たぶん、死ぬことが正しいわけでも、生きることが正しいわけでもなくて、どっちが正しいのかって判断もできなくなって、そうして心から人がどちらも諦められたら、人は生きることも死ぬことも満喫できるようになるんじゃないかって、そう思うんだよ」
「……ミッちゃんがなに言ってるのか、俺にはよくわからないよ。生きるとか、死ぬとか。正しいとか、正しくないとか」
少年は、少女から視線を逸らし、搾り出すように言葉を紡いだ。
「なんで? 誰だって生きているし、死ぬんだよ?」
「そんなこと考えながら生きてないよ、誰だって」
ぽとり、ぽとりと、小さな雨粒が降り始め、二人を分かつ水面に大小の波紋を広げた。少年は、小さく身震いした。
「おかしいよ、そんなの」
そう言ってから少女はゆっくりと顔を上げて、眼前に立つ少年を見た。
「じゃあ、生きることが辛くなったら考えるの? それとも、考えないままに死んじゃうの? それなら、なんでお父さんは生きようとしたり、死のうとしたり、動かない体で悩まなきゃいけないの? 教えてよ。ねえ、教えてよ!」
その声は次第に枯れそうな叫声へと変わっていった。その間、鈍く光る二つの瞳が、少年を薄い雨のレース越しに睨みつけていた。
けれど、言葉が切れてしばらくして、ようやく声の先を見ることができた少年は、少女が厳しくにらみつける眼差しのまま泣いていることにやっと気づいた。それが彼女の顔をつたう雨ではなく、涙であると少年にはわかった。
ただ、それがわかったところで、少年が口にできる言葉はそこになかった。
少女は目を閉じるとベンチから立ち上がり、すばやく一歩を踏み出した。
「今日は、お父さんのために、ありがとう」
投げ出っぱなしの謝辞の言葉を残し、少女は横切りざまに少年の肩を撫でるように叩いて過ぎ去った。
その言葉と感触が、少女の去ったあとも雨の音とともに彼の心を打っていた。
* * *
病院からの帰り道、少年は遠回りをして住宅街の一角に車を止めた。そこからは、五階建てのマンションが見え、木々の間にアスレチック型の遊具の一端が見えた。ただ、あのときの木製のベンチは撤去され、新しい緑色をした金属製のベンチに換えられていた。
「どうして、こんなところに、車を止めるの?」と少女が怪訝そうに言った。
「小さい頃さ、よくここで遊んだのを覚えてる?」
少年は、公園を見つめたまま少女を見返すことなく訊ねた。問いに問いで返され、少女は眉を寄せて公園に目を向けた。
「小さい頃はあまり遠出ができなかったし、二人でよくここに遊びに来たよね」
少女は、何も言わない。少年もしばらく目を細めて広場を走り回る三人の子どもたちを眺めた。
「でもさ、大きくなっても、たまにここに来てたんだ。何かに疲れたり、何か嫌なことがあったりしたら、この場所は人がいるのに一人になれる、なんか変に落ちつける場所だったから」
「今が、疲れているとき。嫌なことがあったとき」と少女がぼそりと口にした。
「もう、ここは卒業したよ。ここに、優しさも孤独も、もう何もないんだ」
少女は、公園に顔を向けて目を閉じていた。開け放たれた窓からは、子どもたちの活躍とした喚声が車内へと転がり入ってくる。
「来年、この公園の一部がゲートボール場に変わるんだってさ」
少女は目を開いて、少年へと視線を移した。鼻を縮めてゆるく下唇を噛んでいた。
それは、少年の知る少女の癖だった。悲しみや苛立ち、そういった少女の鼻をつくような感情が起こったとき、彼女はよくその表情を見せた。
「まだ本決まりってわけじゃないらしいけど、でも、そういう話で進んでいるみたい」
「そっか」
少女は微かにも動かない自身の指先を見下ろした。
青白い空を流れていく白色の千切れ雲が太陽を覆い、陽光が優しく陰った。まだ真新しい艶の残った車体から反射する光が薄れた。
「おじさんの葬式のとき、ここで会ったこと、覚えてる?」
少し多めに息を吸いこんで、少年は吐き出す息に意味をまとわせるように言葉をつむいだ。ただ、その言葉に少女の反応はなかった。
「そのときのミッちゃんに、すごく怒られたように思う。あまり詳しくは思い出せないけど、怒られたってことは覚えてる」
「……べつに、怒ったりしてない」
少女は、腿の上に重ねて置かれた手をまだ見つめていた。その眼は、そこへ意志を伝えようとするかのように強く眉を寄せていた。
「そうかもしれない。でも、俺はそのときすごく怖かったのを覚えてる。何が怖かったのか、うまく言葉で表せないんだけど」
「ケンジは、昔から、怖がりだから。それだけの話」
「うん。たしかに、それだけなのかもしれない」
あいまいな沈黙が下りた。何を言うことも許された静けさであったが、発した言葉に違和感を与えるような、そんな沈黙だった。
窓越しに眺めた公園では、男の子がひとり、辺りをきょろきょろと窺いながら走り回っていた。その男の子がきっとかくれんぼのオニなのだろう。
「最近のケンジ、昔話が多いよ」
「そうかな。いや、そうかもしれない。最近、昔のことをよく思い出すから」
そう言って少年はサイドブレーキを下ろした。二人を乗せた車がゆっくりと加速していく。
遠のいていく公園から、子どもたちの歓声が二人の後を追うように高らかに叫び上げられた。