二人をつなぐ楔 Ⅰ
二人の関係に抜きえない楔が打ちつけられた日、それは朝から粉雪の舞う寒い一日だった。
年末から年明けの中頃にかけて、この地方には珍しく、一週間に三日ほど雪の降る日がつづいていた。
例年ならば、一年を通しても一度か二度雪が降る程度で、まったく降らない年もさして珍しいことではなかった。
少年はその年の春から大学に入学した。彼は第一志望どおり地元の国立大学へと入ることができた。
少年には、この町から出たいという意欲も、出ようと思うような理由もなかった。自身が納まるべき笵をただ茫漠と求めるように、彼はただ安定した世界に居続けたいと思っていた。
少年にとって、この町に居ることは彼自身を支える安定と安心の前提といえた。そのため、少年の選択肢の中にこの町を出るというものがなかったのは当然の帰結だった。
漆黒の夜空から、微風に弄ばれるように舞い落ちる雪が、キャンパス内をはしる並木道の外灯に白く映えていた。
コートの襟を立てて肩をそびやかせると、少年はマフラーに顎を忍ばせた。目の端で見上げた時計台は、短針を九から少し回したところに指していた。
こんな雪の日、しかも土曜の休日に少年は学校になど来たくなかった。
けれど事態はそれを許さず、今日の午後からサークルの役員を決定する会議があり、嫌々ながら少年は進まぬ足を大学に向けた。
心でどのように嫌がっていようとも、少年がこの会議に参加しないわけがなかった。雪の休日に出歩く苦労より、会議を欠席することで起こる仲間との不和こそが、少年にとって面倒であり億劫であり不安だった。なによりそれが今後の苦労を生むことも知っていた。
しかし、何故そこまで安定というものを自分が求めているのか、少年自身にも理解できなかった。ただ、こうして自らが理解できずとも、漠然とした不安だけは確実にそこにあった。
少年は、大学前のバス停から駅に向かうバスに乗った。乗車客は少年を含め五人といなかった。少年は、後方の席に座って窓脇に肘をついた。腰を落ち着けると上まぶたが自然と重くなった。
少年はひどく疲れていた。さしたる進捗もないのに声高に交わされる論争、聞こえよがしに為される小声での誹謗、批判や侮蔑の溜息、虚飾に塗れた賛美、欺瞞に満ちた虚栄。
大学生になり、子供と大人の挟間に生きる者たちの剥き出しの情熱と怠惰に渦巻かれた人間関係の内に在ることは必要以上に労力を要した。
会議の始まった午後一時から午後九時ごろまでの約八時間は、辿り着くことのない蜃気楼に向かって歩いているような時間だった。窓枠に肘をついたまま、少年は浅い眠りへと落ちていった。
──少年は、夢を見た。
街中の摩耗したアスファルトの道路を突き破った一本の巨木をただ見上げている夢だった。
その木は、大きく太かった。
大人が何十人と手を取り合って、やっと周囲を囲えるくらいの大きさ。
見た目は杉の木に近かったが、樹幹の表面は白樺のようにつるりとして滑らかな光沢を持っていた。
樹下から見上げるも、そこに一本の枝葉も見えず、ただ太い幹だけを晒して高く空を突き破っていた。言葉どおりに、空は巨木によってまるでガラスを割ったように突き破られていた。
上空には様々な形状をした雲の群れがあり、それが南の方角へとゆったりと流れていた。
いったい、この木をどのようにすれば良いのだろうか。
切れというのだろうか。登れというのだろうか。それとも押し倒せとでもいうのだろうか。少年は考えた。
樹梢の茂りも見えぬ木を見上げながら、少年は上空を流れる雲のように何一つ固着せぬ想念に揺らめいていた。
気がつくと、あれだけの巨木が、いつしか穂の垂れたススキになっていた。
しかし、少年自身もまた一本のススキになっていることを知った。
そこには、手もなければ足もなく、頭と胴体の境目もない。
そのとき、少年は風に揺れる一本のススキだった……。
寝入っていた少年が体を震わせたとき、バスは駅前のロータリーに入る交差点に差し掛かっていた。
窓外の雪は、街中の軽躁な灯火の光を浴びながら驟然と降りつづいていた。白む街を見つめる少年の目に夢の跡はもうなかった。
少年がバスから降りて路上に立つと、携帯電話がそれを見越してかのように鳴り始めた。液晶画面には少女の名が記されていた。
「もしもし、ミッちゃん? どうしたの?」
「ケンジ、いま暇? もし暇ならさ、車で迎えに来てよ」
二週間ぶりに聞いた少女の声には、以前よりも疲倦の色が強く感じられた。少女の語尾が伸びた声は、お酒の香りをさせた。
「残念。いま俺、駅前に居るんだよ。だから、すぐには車を出せない。それよりも、けっこう酔ってるんじゃないの?」
片手で傘を開けながら、少年は苦笑まじりに言った。
「えっ、ケンジ、いま駅前に居るの? どのあたり?」
「ロータリー前の時計台の下あたり。もしかして、ミッちゃんも駅にいるの?」
「そうだよ。待ってて、すぐにそっちに行くから」
少女は、そう言うと電話を切った。
しばらくすると、駅の正面入り口から、雪の降るなか傘を差さずに駆けてくる少女が見えた。ヒールの甲高い音が冷たく張った空気を切り裂いて響いた。
「傘、ないの?」と少年は呆れたように言って、少女の頭上に傘を差し出した。
「電車を降りるまではちゃんとあったんだよ、ほんとに。でも、置き忘れたことに気づいたのが改札を出たあとで、もう手遅れ」
そう言った少女は、自嘲気味に鼻で笑った。仕事帰りなのだろう、灰色の生地に黒く細いストライプ入りのスーツを少女は着ていた。それが彼女の勤めている会社の制服だった。胸元のネームバッジについた雪の雫が行き過ぎる車のライトに光った。
「ねえ、今からどこかに入って、飲む? それともタクシーでも拾って帰る?」
「俺は、眠気覚ましに歩いて帰るよ。それに、今のミッちゃんと飲んだりしたら、いろいろと嫌な思いをしそうだし」
「そう? でも、よかった。実は私ももう飲みたくなかったから。それじゃあ、歩いて帰ろっか。酔い覚ましに、私も歩きたい」
「了解」と言って少年は小さく頷いた。
二人は駅前の歩道橋を渡り、軟らかな粉雪の降るなかを家路についた。
少女は、少年の差した傘の下に潜りこむようにして、少年に身を寄せて歩いた。どこか少女の身体が少し前より縮んでしまったように少年には思えた。
「やっぱり仕事、疲れる?」
「そんなの当たり前でしょ。疲れない仕事があるなら紹介してよ」
おそらく少女を苛んでいる疲倦が仕事によるものだけではないことを、少年は知っていた。
現在交際している男とあまりうまくいっていないことを、少女は少年と会うたびにそれとなく話した。直接は語らなかったが、交際相手は職場の上司にあたり、加えて妻子持ちであることを、その言葉の節々から少年は知った。
けれど、少年はそのことに深く首を突っ込むことを避けていたし、口を挟むものでもないと思っていた。それがきっと少女のためだと自分に嘘をついて。
「ケンジも、最近なんか疲れているんじゃないの? 覇気がないよ、覇気が」
少女は口辺に笑みを浮かべながらも、少年を心配するように慎重な目で見上げた。今では少年と少女の背は、頭一つ分ほどの違いがあった。
「どうだろう。たしかに少し疲れてるかもしれない。ミッちゃんが思っているほど、学生っていうのも楽じゃないんだよ、たぶん」
住宅街を南北に断截する細い一本道に点々と街燈が灯っていた。路上も路肩も、人や車に何度も踏みしめられ、溶解して薄汚れた氷雪に覆われている。街燈はそうした雪の汚れを灯火の下に暴き立てた。
「そっか。ケンジもお疲れモードなんだね。なんとなく、疲れが体からも言葉からもにじみ出てる気がする」
「それはお互い様だよ。ミッちゃんなんか、疲れを周りに垂れ流している感じだし」
「ほんとに垂れ流し?」
「うん、ほんとに垂れ流し」
二人は顔を見合わせて笑った。久方ぶりにお互いが自然と笑いあえた瞬間だった。けれど、それは本当に一瞬の触れ合いだった。
肩を寄せ合い二人が笑いあったとき、閑静な降雪の街道に金切り声のようなクラクションが鳴り響いた。後方から鈍重なエンジン音がクラクションに随伴して辺りへと轟く。
少年が後方振り返った時には、すでに大型バイクの凄烈なライトが彼の眼前にまで迫ってきていた。
たじろぐ少年の眼が、ライトの光照に眩んだ。
その刹那だった。少年の身体が、右前方へと押し飛ばされた。
細い両腕へ全力で体重をかけて、少女が少年の胸を突き飛ばした。
そのとき、少年の手に持っていた傘が雪とともに虚空に舞った。
鈍い衝突の音──肢体を投げ出した少女の身体が空に浮いた。
時間の経過は、眼前の光景を少年の目に焼きつけることを強いるように遅々として見えた。
路肩に肘をついて倒れた少年は、ただ現実を理解することもできないまま、雪をまとって舞う少女を見ていた。
少年から三メートルほど先の路上に少女の身体は落下した。それはまるで枯れ落ちる椿の花のようで、どこか非現実的で、けれど、ひどく肉感的な音がした。
少女を撥ねたバイクは遠くで横様に倒れると、運転手を振り落して滑走した。
尻の下で溶け出した雪が少年のズボンを浸潤させた。それでもなお少年は半身を起こしただけで呆然と口を開けたまま、数刻の間じっと倒れ伏した少女を見つめつづけていた。
少年の心に漂泊するものは何もなく、彼の思考は澱みの上で停滞していた。
倒れたバイクを立て直し、走り去っていく音が、遠く彼岸に木霊する音のように少年の耳を打った。
ようやく不意の小さな痙攣が少年の体に走り、四つん這いの格好で少女へと歩み寄った。
這っていく少年の身体は、汚水と降雪で際限なく濡れていく。汚濁した路上の氷雪へ射す街燈の光が、緻密な浮光となってきらめく涙のように、少女の周囲を輝かせていた……。