表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

幼い二人のある夏の日に

 お久しぶりです。で良いのでしょうか、卯月之蛙と申します。

 この度、投稿させていただくのは数年前に完成していた物を加筆、再構成した作品となります。

 現在の文体とはかなりの部分で違うところもありますし、多分に拙い点が散見されますが、あえて当時の自分と向き合う意味でも大きな変更をせずに投稿させていただこうかと思います。

 一部当たりの文章量にムラがありますが、五部構成での投稿を予定しております。

 少女と少年が、ふしあわせのしあわせを見つける物語、どうか最後までお付き合いいただければ幸いです。

「ねぇ、殺してよ」

 いつものように、抑揚の欠けた平坦な哀訴。

 感情のない眠たげな目で、窓外の色の薄い空を見つめながら、少女はそう訴えた。

「いやだよ」

 いつものように、力のない先細りの返答。

 隠しようのない疲れをまぶたに乗せ、擦りきれた微笑みを浮かべながら、少年はそう答えた。

 それが、少年と少女の現在だった。

 リクライニングベッドに背をあずけた少女は、なにを見るでもなく晴れた北の空を見つめる。

 初春の空は、晩冬より微かに青みを含みだしてきたものの、まだ春とはいいがたく、色素の薄い青白さをしていた。

 化粧台の椅子をベッドの脇に寄せ、少年は頭を下げたままそこに座っていた。その目はシーツの上で力なく開かれた少女の手のひらをじっと見つめる。少し節が張っているけれど、白くて柔らかなこの手のひらに握られた思い出があるはずだった。

 少年は、何度か自分の手のひらを開いたり閉じたりしてそれを思い起こそうとした。

 しかし、もう彼の指先が過ぎ去った何かを掴み取ることはなかった。体の思い出も、心の思い出も、少しずつ確かな足取りで少年から遠のいてしまっていた。

 少女は、今も体の記憶を思い出すことはあるのだろうか──少年の心を、山裾に吹く木枯らしのような不意の思いが掠めていった。だが、声に表されることもなく心の表面をよぎった言葉は、ただ少年の胸裏にじわりと滲む擦り傷をつけていくだけだった。

 少年の視線は苦しげに少女の指先から逸らされ、彼女と同じ空に向かった。目を凝らせば散り散りの薄い雲が空にゆっくりと流れているのがわかった。


* * *


 少年と少女は、まるで姉弟のように育った。

 二人の家は三棟ほど挟んだ近燐にあり、また母親同士が中学生の時分から友人だったこともあって、彼女たちの旧交の上で少年と少女は物心つく以前より親しく戯れていた。

 二人とも兄弟がおらず一人っ子だった。まだ幼かったゆえ、それを寂しいと思うことは二人になかったが、それでも物心がつき始めた頃には、お互いが自分の中に欠落している何かを補完し合うかのように一緒にいるようになっていた。

 少女が幼稚園に入園するまでの間、母親にせがんでまで彼らは毎日のように遊んだ。二人の遊びは虫取りであったり、ままごとであったり、いたずらであったりと、そこに性別の違いはなかった。二人が遊びたいことをして遊ぶ。それが何よりも楽しかった。

 年齢としては、三月に生まれた早生まれの少女と、四月生まれの少年とでは一月の違いしかなかった。しかし、四月を境とした学年割りによって、少女は一年先に幼稚園へと入園した。

 それまで年齢など意識することもなく、つねに一緒にいた少年と少女の間に、このとき二人を分かつ不可視の一線が引かれた。

 けれど、二人はその隔たりによって心の境界線を生まず、ただ大人の引いた一方的な線引きに戸惑っただけだった。しばらくするとその戸惑いも消え、それは二人にとって初めから入るべき鋳型であったかのように、何一つの不協和もなく受け入れられた。

 それを機に、いつしか少女が「姉」になり、少年が「弟」になった。

 二人にとってこの変化は、ままごと遊びと同じだった。

 ときに少女が「母親」で、少年が「息子」。あるときは少女が「妻」で、少年が「夫」。またあるときは少女が「生徒」で、少年が「先生」。そうした色々な配役をあてがいながら、幼い二人だけのままごとの世界は作られていた。

 この二人だけの場面演劇が、現実に応じて延長され、少女を「姉」へ、少年を「弟」へと置き換えた。

 しかし、夕暮れ時にかくれんぼが自然と終わってしまうように、あくまでも遊びには終わりの瞬間が必要だった。時計台が鳴るのでもいい。母親が迎えに来るのでもいい。ただ、そうした何か一つの契機さえあればよかった。

 終わりのない遊びは、人を遊びの中に引き止めて、どこにも連れて行ってはくれない。だから、帰るべき場所がどこなのかわからす迷子になってしまう前に、その瞬間を見つける必要があった。

 時を経て、少年と少女が共に小学生になっても、二人が姉弟であるかのような意識に大きな変化はなかった。ただし、小学生になって学年が上がっていくごとに、二人だけで遊ぶことは稀になっていった。当然ながら二人とも同性の友人を作り、彼らと遊ぶようになった。

 けれど、二人の姉弟という関係は、毎日遊ぶことの上にだけ成り立つものではなく、むしろ会う機会が少なくなる分だけ、今まで意識的だったものが無意識的になり、無意識的だったものが意識的に変わっていった。

 それは、ある夏の日だった。少年が小学三年生、少女が四年生の夏休み。少年たちは夏休みの宿題の風景画を描くために、山上にある公園を目指して山道を歩いていた。山の背は低く平たかったが、町全体を囲い迫るように広がっていた。

 少年たちは色鮮やかなリュックサックを背負い、袈裟掛けにした大きな画板と水筒を揺らしながら登っていく。彼らの小さな体には脇の下の画板が邪魔になり、二人とも右へ左へとふらふらとバランス悪く歩いていた。登り始めて半時間とすれば二人の息づかいは次第に荒くなり、額から流れ落ちる汗に何度も目をつむった。

 二人の登る山道は、山裾にある寂れた神社の境内裏から伸びていた。公園に向かうには舗装された道路が整備されていたが、少年たちはこの細く荒れた山道を選んだ。そこは、二人が園児のころお互いの両親に連れられてピクニックに歩いた道だった。

 左手の登りの斜面にも、右手の降りの斜面にも、椎や樫といった木々が乱立し、二人の頭上高くで日傘となっていた。樹下に茂ったシダの下では暗褐色の腐葉土が眠り、そこから立ち上る湿気がときおり吹き上げてくる風に流されて、二人を生温かく火照らせる。夏の森の熱気が二人を包み込んだ。

 その年の夏は、油蝉が例年にない異常な発生をみせて、山道のいたるところにその亡骸をさらした。

 それでもなお、頭上からは涙も枯れてしわがれた老婆の慟哭のように、油蝉の間断ない鳴き声が響いていた。その響きは、山全体にとどろく夏の饗宴のようだった。自身の生命が今にも朽ちてしまうことを知っているかのような狂乱の声。自身の内に秘められた情熱を夏の熱気へと還元する焦爛された声。そうした声にならない夏の騒乱こだまする山道に、二人を除く人影はなかった。

 歩くことにも飽いた少年は、足元に無数に転がる蝉の死骸を踏みつぶし始めた。少年の小さな足に踏まれていく蝉は、クシャと紙を丸めるような音をたてて潰れた。

 足の裏に何かを蹂躙するときの背徳感を覚えつつも、そこに秘められた楽しさが少年を捕らえた。少年は蝉の死体を見つけては踏み潰した。一足飛びに死骸があることもあれば、四五歩先に点々としていることもあった。

「やめなよ、ケンちゃん。セミがかわいそうだよ」

 少年と並行して歩いていた少女が、見かねたように口を開いた。背負われたリュックサックを二人同時に背負いなおした。

「なんで? 死体だよ? 痛くないじゃん」

 その行為に没頭していながらも、心の深奥に言い知れぬ不安を感じていた少年にとって、その言葉は自己に対する弁明でもあった。少年は足の裏に微かなむず痒さが感じた。

「痛くなくても、かわいそうだよ。ケンちゃんだって、眠ってるときに踏んづけられたらいやでしょ?」

 少年の目をまっすぐ見つめながら、少女は鼻の穴を縮めて悲しげな目をした。

「死んでたら踏まれてもわからないって」

「そんなの、わからないよ。もしかしたら生きてるセミがいるかもしれないんだよ。だから踏んだらダメ」

 少年の足元から、クシャという音が鳴った。意図せず少年は蝉を踏みつぶしていた。足先から少年の体を微かな身震いが走った。

「生きてたってすぐに死んじゃうよ。もう飛べないんだもん」

 少年は、睨むように眉を寄せて大きな声を出した。四方からは連綿と蝉たちの鳴き声が降り注いでいた。二人の足では、公園に着くまでにまだ二十分ほどの距離があった。

「飛べなくたってちゃんと生きてるんだよ。死んでたってちゃんと生きてたんだよ。だから、死んでても生きてても踏んづけたらいけないの。ケンちゃんの分からず屋!」

 そう言うと少女は、ぷいっとそっぽを向いた。それと同時に少女の足元から、クシャという軽い音が鳴った。

 びくりと小さく痙攣した少女の体が、その場で硬直した。音に反応して振り返った少年を、鼻孔を縮めて悲しさに耐える少女がむかえた。

 少女がそろりと右足を上げると、そこには落葉に隠れた蝉の死骸が見えた。

「ああ。やっちゃったあ」

 少年が大仰な声を出して笑いかけた。

「これでおあいこだね。ミッちゃんも、今からセミつぶし屋!」

「ケンちゃんとは違う! わたしは踏んづけたくて踏んづけたんじゃない! ケンちゃんのアホウ!」

 頬を紅潮させ、二度三度と少年の頭頂部を平手で叩くと、少女は肩を落として潰れた蝉のもとに屈みこんだ。両手を合わせた少女は目を閉じて静かに頭をたれた。

「セミさん、わざと踏んだんじゃないんです、ごめんなさい。やすらかに天国にいってください。本当に、本当に、ごめんなさい」

 少女の必死な声は、熱気にむせる森に消えた。樹間を木霊していた蝉の声が、少女の謝罪に答えて少し強まったように聞こえた。

 少年の心に刺さった無数の小さな棘が、屈んだ少女を見ているとずきずきと疼きはじめた。少年は、靴の底を力強く地面へと擦りつけた。

「そんなことしなくたって大丈夫だって。セミはもう死んでたんだから。だから、もうやめろって!」

 少年は、少女の肩に手をかけて無理やり立ち上がらせるとすぐに背を向けて歩き出した。その場にじっとしていられなかった。

 頭上の枝葉に遮られたのか、二人を照らしていた木漏れ日が微かに陰った。頭上の梢がときおり強く傾ぐのがわかったが、木々の間を抜けて二人のもとに吹き上げてくる風も、吹き降ろしてくる風もなかった。

 雑木林の停滞した熱気を揺らすのは枯れた蝉の声だけ。いつまでもその声は途切れないというのに、山道に蝉の死骸が見当たらなくなっていた。少年の心に刺さった棘がちくちくと痛んだ。

 不意に少年の左手を柔らかく湿ったものが包みこんだ。驚いて少年が振り返ると、乳歯が一本抜けた不恰好な歯並びを見せて少女が笑っていた。

「ケンちゃんの分も、謝っておいたよ。お友達を踏みつぶして、ごめんなさいって」

 少女は意地悪げに口辺を上げて見せたが、目尻には優しい微笑が浮かんでいた。いたずらっ子をたしなめるような少女の目が少年を見つめた。

 その目に映っているのは、安心して緊張を解く少年の姿。

 しかし、少女の笑顔にそんな自分を省みてしまい、少年は恥ずかしさに顔を逸らした。

「そんなことしなくて良いんよ。べつに呪われたりなんかしないんだから」

「つよがりだ。怖かったくせに」

「ぜんぜん怖くなんかなかったよ。ミッちゃんのばか!」

 少年は、少女の手を力強く握って引っ張るように歩んだ。強引に引かれながらも、少女は強く少年の手を握り返した。

 二人が数分ほど黙々と歩いていると、降り斜面側の草に隠れるようにして一つの蝉の死骸が転がっていた。

 少年の心が小さく波立った。少年はみっともないままに事が終息してしまうことが恥ずかしかった。虚勢であっても、強がっていたかった。

 これで最後の一匹。そう心に決めて少女の手を強く握り締めた少年は、勢いよく地面を蹴った。少女が小さく声を上げた。

 少年の右足が踏み潰した蝉は、何の音も鳴らさなかった。ただ不快な感触だけが足の裏を伝わった。

 蝉の横たわる地面は、柔らかく湿気に富んだ腐葉土だった。それを足の裏に感じた瞬間、身体が軽くなった──そう思ったときにはすでに、少年の足を乗せていた腐葉土は横滑りに瓦解していた。

 一瞬の宙へ浮く感覚がすぎると、少年の身体は横ざまに倒れかかった。少年は、左手につかんだ少女の手を瞬間的に離そうとした。

 しかし、離そうとした手は意に反して握り返され、少年が倒れこむのと同時に、少女も腐葉土に足をとられて斜面に転がりこんだ。

 朽ち葉を辺りへ撒き散らしながら、二人の体は重なり合うように斜面を転がり落ちていった。表層の乾いた落ち葉と、その下に堆積して腐食した落ち葉は、まるでソリで滑るように二人の体を止めることなく滑降させていった。

 転がっていくなかで、いつしか二人の手は離されていた。少年の手に握られていた画板が彼をおいて先に滑っていった。

 世界は反転を繰り返し、落ち葉から突き出した木の根幹や石によって、少年の投げ出された肢体はしたたかに打ちつけられた。それでも落ち葉の滑り台は滑降をとどめることがなかった。肩に掛けている水筒が空中を乱舞し、少年の額を何度となく打った。

 自分の胴回り以上もある太い樹幹に右足を強くぶつけたことで少年の体は勢いを少し弱め、別の樹木に背中からぶつかることでやっと止まった。

 体のいたるところが、ずきずきと痛んだ。起き上がろうと少年が左手を地面につけたとき、微かに手のひらに痛みが走った。起き上がって手のひらを見ると、親指の付け根の辺りに暗紫色の小さな鬱血ができていた。

 それを見たことで余計に痛みが、少年の身体を駆け抜けていった。痛みに湧きたった鼻水をすすりあげ、眼尻に溜まる涙を拭った。

「ケンちゃん!」

 山の上方から少女の声が聞こえた。少年が顔を上げると、身近な木々に寄り添うように手をつきながら、少女が慎重に足場を選んで彼へと近づいてきていた。少年は鼻下についた鼻水をぬぐった。

「大丈夫? 怪我はない? 立てる?」

 矢継ぎ早に質問する少女の頬は褐色の土に汚れていた。額に小さな擦り傷があるものの、それ以外目立った外傷はなかった。

「すごく痛いけど、へいき」

 言いたいことが沢山あったはずなのに、いざ口にしようとすると何を伝えたかったのかわからなかった。ただ、少女を前にすると強がる言葉が自然と少年の口をすべり出ていた。

「ミッちゃんは大丈夫なの?」

「うん。わたしもへいき。すぐに根っこにつかまれたから」

土で汚れた頬に少女は小さな笑窪を作った。

「ケンちゃんの頭、葉っぱがついてるよ」

 そう言って笑った少女が、前髪についた葉を払おうと少年の額に手を触れた。

「痛い! いたいよ!」

 少女の手が額に触れると同時に、その手を避けようと少年が頭を左右に激しく振った。少年の前髪の付着していた落ち葉が、ひらりと舞って落ちた。

「痛かった? ごめんね、大丈夫?」

「べつに、触らなかったら、痛くないよ」

 あからさまな反応をした自分が悔しくて、少年は涙の浮かんだ目を隠すように憮然とした表情で顔をそむけた。そうして顔を逸らしたまま、少年は傍らの杉の幹に掴まって立ち上がろうとした。

 しかし、右足に体重をかけた途端、足首から電流を流されたように痛みが走った。声にならぬ悲鳴を上げ、少年はその場へ膝をついた。

「ケンちゃん、どうしたの!」

「足がすごく痛いんだ。ほんとに、いたい」と少年は歯を食いしばって声を絞り出した。

「どっちの足?」

 苦悶の表情をしたまま少年は尻を地面につけ、右足を少女の方へと投げ出した。少女が靴を脱がせようと足の甲を力強く持った。その瞬間「いたい!」と叫びあげた少年の顔が苦痛に歪み、足に添えられた手から逃れようと両足が暴れた。放縦された足は少女の手をしたたかに蹴りつけた。

「ごめん、痛かった。でも、ひもを緩めるから、あばれないで」

少女は、少年の表情を横目に観察しながら、ゆっくりと靴紐をほどいていった。靴の緊縛が解かれていく際に痛みが走ったが、少年は強く眼を閉じたり歯を噛み締めたりすることで、それを耐えた。人目に出た少年の足の甲に、目立つ腫れがあった。

「どうしよう、ぷくってなってる。これって歩けるのかな」

 少女の問いに、少年は小さく首を横に振った。先ほど立ち上ったときに感じた痛さを思うと、とても歩けるとは思えなかった。

「じゃあ、()()()()しようか? それならできるでしょ。わたしの肩を持ってけん、けん、けんって歩くの」

 少女は明るい声を出して、少年の靴を持つと立ち上がった。そこには、薄暗い樹梢の下にあっても見間違えることのないほどにまぶしい笑顔があった。

 少年はすこし躊躇いながらも少女の差し出した肩に腕を回した。

 少年たちは乱立する樹幹を支えにして、ゆっくりと斜面を登ろうとした。けれど、斜面を二人で支え合いながら登ることは難しく、前のめりに転んでしまって一向に登っていくことができなかった。軟らかな腐葉土に、急勾配の斜面。二人の見上げる歩道は、ずっと遠かった。

 しばらく休憩のために木の根元に座って話し合った二人は、無理に登っていくのではなく、むしろ下に降っていくことにした。

 微かにではあったが、雑木の間を抜けて陽光の射す平坦な土地が下方に見えたからだ。 その場から見下ろすかぎりでは、登るよりも降るほうがよほど近く見えた。

 二人は立ち上がり、斜面を降りはじめた。

 転ばないように慎重に木の幹に掴まりながら、そろそろと二人は降っていった。注意していながらも、二度ほど二人は尻餅をついて転んでしまったが、そうしたときには少女のくすくすという笑い声が悲壮感を和らげた。

 下方へ近づくにつれて、水の流れる清冽とした涼やかな音が聞こえてきた。二人の心は、水音の聞こえるのに伴い高鳴っていった。そこが町に通じているのかいないのかではなく、ただ清涼とした水音が二人に好奇心という力を与えた。薄暗い林の闇を抜けて、陽の射す場所へ二人は出た。

 そこには、濃い緑に苔むした大きな岩が点在し、こぶし大ほどの暗褐色の石がごろごろと転がる中を、陽に明るい渓流が朗々として流れていた。

 湿気を帯びていながらも清澄とした心地よい風が、両翼に並ぶ木立の梢を揺らし颯然と吹きぬけ、無数の葉々が舞い踊りながら川面へと降り注いでいく。

 数匹の沢蟹が、岩間へとするりと身を隠し、薄い雲に覆われた陽光が穏やかに夏の渓谷を包んでいた。

 その光景に、少年と少女の心は踊った。彼らを捉えていたはずの不安や焦燥は、いつしか高鳴る胸の内に飲み込まれていた。

 少年は、自然と少女の肩から手を離すと片足跳びに清渓へと進んだ。片足で不器用に進む少年の鼓動は、軽やかに高鳴っていた。

 少年の姿に弾かれるように、少女もまた渓流に駆け寄った。岩の上に腹ばいになって手をつき、少女は渓流を覗き込んだ。濁りを知らず水は澄み渡り、底に沈む細やかな砂や小石が微弱に流されていくさまが明瞭に見て取れた。手を流水の中に浸してみると、底流を流れる水は身震いするほどに冷たかった。

 遅れてきた少年も、少女に倣うように腹ばいになって水の中に手を入れたが、その冷たさに驚いて瞬時に手を引っ込めた。清水の細やかな飛沫が辺りに四散した。

 少年の驚くさまがおかしくて、二人で笑いあった。

「ねぇ、ねぇ。ここで、ご飯食べようよ」と言って少女はリュックサックや水筒を足元に下した。

「それなら、この大きな石に座って食べたらよう。風が来て絶対に気持ち良いよ」と少年も少女の提案に笑顔で応えた。

 二人は、近くの岩に腰を落ちつけると自分の弁当箱を取り出した。だが、蓋を開けた二人は同様の声を上げる。二つの弁当箱の中は、ごはんやおかずの分け目もなく一隅に偏ってしまっていた。

 二人はため息をついて肩を落とした。それでも、少年たちはそのような弁当に愚痴をつきながら笑顔で食事をした。

 それがこの夏の表象の中にあって、最も自然な在り方であるかのように二人で笑い合った。

 昼食のあと身じろぎをした際に右足が軽く岩へとあたると、少年の体を鋭い痛みが走りぬけた。小さく悲鳴を上げた少年は体を屈めて患部を凝視した。足の甲は先ほどよりも腫れがひどくなり、目に見えて隆起していた。少女も傍らから少年の足を覗き込んだ。

「すごく腫れてきてる。ほんと、すごく痛いんだ。どうしよう。ねえ、どうしたら良いの?」

 少年の目には、いつのまにか涙が溢れていた。垂れてくる鼻水を懸命にすすり上げる。

「ぼくの足、くさっちゃうのかな。歩けなくなるの、いやだよ! ねえ、ミッちゃん!」

「大丈夫。ぜったい大丈夫だから。泣かないで。ね、ケンちゃん」

 ひどく腫れだした足と、泣き始めた少年を見たことにより、少女にも不安が伝播し始めていた。少女の心は、焦燥の火に炙られて暴れだしてしまいそうだった。一緒になって泣きたかった。それが最も単純で、最も容易な選択だった。

 しかし、動転しかけた少女の心奥では、少年を助けなければならないという意志が熱をもって自らを誇示した。それは少女の行為を先導する旗手となり、恐れと不安が渦巻いていた彼女の心の荒波を行進した。

「そうだ! まず足を冷やそうよ。体育のときに先生が、足をくじいたら冷やしなさいって言ってたんだ。それに水は冷たいし、すごく気持ち良いと思うよ」

 少女は、そう言うと急くように少年のもう片方の左足の靴と靴下を脱がせ、渓流の中へ足を浸けさせた。少女は満足したように、白い歯を見せて笑った。その目にもう涙がにじむことはなかった。

 反して涙に潤んで不安そうな顔をしていた少年も、少女の言葉にどこか得心したように水辺の岩に腰をかけて清流を足に感じていた。冷涼とした水が熱をもった患部に心地よかった。

「わたし、お母さん呼んでくるよ。だから、ここでケンちゃんは待ってて。すぐに戻ってくるから」

「嫌だよ。ぼくも、行く!」

 少年が立ち上がろうとして振り返ったときには、すでに少女は山裾の辺りまで走り寄っていた。

「だめだよ。ケンちゃんは山登れないもん。すぐ戻ってくるから待ってて。それでお医者さんに行こうよ」

 少年がなおも水から出ようと身体を動かすと、少女は「だめ!」と強く一声をあげた。

 その声に圧倒されて、少年は俯きがちに少女の方を見つめた。

「すぐに、戻ってくるから」

 少年が肩を落として頷くのを見て、荷物のない少女は軽やかに斜面を駆け上がった。

「早く帰ってきてね!」

 少年は、駆け上がる少女に向かって大声で叫んだ。「うん!」と大きく叫び返して、少女は少年の方に手を振ると鬱蒼とした木々の群がりの中に消えた。少女の去っていった辺りに、黄色の小さな花をつけた女郎花が咲いていた。

 少女がいなくなった渓谷は、その時間を遅滞させはじめた。初めの五分ほどは足先で水と戯れているうちに過ぎていった。

 しかし、それに飽きてくると同時に渓谷の世界は、少年の内側へと静かな侵食をはじめた。一分間のはずが少年にとって十分間を、十分間がまるで一時間以上の経過を彼の心に強いた。

 少年の心は、遅々とした時間に燻られ、焦がされて、咽かえるようにもがきだした。時間は渓谷の内に淡然と停滞し、吹き抜ける風によっても微動もせず、そこに澱んでいた。風が吹けど、谷間の渓流に見るべき変化は何も起きない。

 微かな物音が起こると、少年は少女の去った斜面へと振り返った。しかし、そこにはやはり誰も居らず、黄色の小さな花をどこか愁然と咲き誇らせた女郎花の花がただ風に揺れているのを見るばかりだった。

 不安と孤独と焦燥が、胸裏で肥大していくにつれ、世界は徐々に少年に押し寄せるような閉鎖感を与えた。動かれぬ少年にとって、そこは開かれた監獄だった。油蝉も、沢蟹も、女郎花も、岩清水も、少年と同じこの夏の渓谷に捕らえられた夏の囚人だった。

「わあああぁぁぁぁ!」

 いつしか少年は声の限りに叫んでいた。腹の底がぶるぶると震えるのが感じられる。自分の内側へと締めつけられるような圧迫感を押し戻すためにも、少年は叫ばずにいられなかった。叫ばなければ心の奥の方の何かが押し潰されてしまうようでならなかった。

 息が荒れるまで少年は叫び続けた。けれど、少年の叫び声は小さな木霊を残しただけで蝉の声がそれを上塗りした。少年は岩の上に横様に倒れた。少年の頬を涙が伝い、喉から自然と嗚咽がもれた。

「ごめんなさい。踏み潰して、ごめんなさい」

 少年はすすりあげながら小声で謝りつづけた。山頂からの叫々とした蝉たちの鳴き声が起伏激しく渓谷にこだましていた。少年はむせび泣きながらも小さく謝りつづけた。

 少年の心身は疲弊しきっていた。少年のまぶたは緩慢なまばたきになり、睡魔が彼のまぶたに圧し掛かった。ぼやけた少年の瞳に最後に映ったのは、少女の去った跡に残った、黄色く小粒な花々を満たす女郎花だった。


* * *


 少年と少女は、山上の公園から町を見下ろしていた。

 二人の立つ崖沿いの四阿からは住み慣れた町が一望に見えた。山裾は淡い朝靄に包まれ、ときおり風に揺れる樹梢がその靄を撫でた。目を凝らせば、遠く眼下には通勤車両が長い列を作っていた。

 少女は車椅子に乗り、少年は後方からその手すりを握っている。リハビリテーションを行うために朝一番で病院へと向かう前に、少年は少女に何も言わず山を登りこの公園へと車を走らせた。

「ちょっと、寒いかな?」

 その言葉とともに少年の口からは薄く白い息が広がった。

「上着、もう一枚いりそう?」

 少年の言葉に少し遅れて、ゆっくりと少女は首を左右に振った。少女はじっと町を見つめていた。頬に朝の冷たく硬い風と初陽の温かさを味わいながら、少年も町に目を向けた。

「なんか思い出したんだ。昔のこと」と少年はぽつりと言った。

「俺とミッちゃん、小学生の頃この山から転げ落ちたんだよな」

 すずめが一羽、眼前の手すりへと舞い降りた。少女の頭が、小さく縦に振られたように見えた。ただ、それが少年の言葉に頷いたのか、すずめに目を向けただけなのか、彼にはわからなかった。

「あのとき、ミッちゃんが居なくなった後、すごく怖かったことを今でも覚えてる。誰も見つけてくれないまま、あの谷底で死んじゃうんじゃないかって、ずっと泣いてたんだ」

 幼い少年が気を失うように深い眠りに落ちた後、次に気のついたときには彼は母親の腕の中にいた。目にする渓谷はすでに淡い夕暮れに染まり始め、浅黒い制服を着た警官が一人、母親の傍へ立ってこちらを見下ろしているのがわかった。それはまるで実体のない真っ黒な影法師のようだった。

「警察沙汰っていうのは、いま考えると大げさすぎたけど」

 そう苦笑しつつ少年はそちらに目を向けたが、少女はじっと山際を見つめたまま何も言わなかった。

「ただ、骨にひびが入ってたのには驚いた。あれから一ヶ月くらい不自由したし、何よりミッちゃんには迷惑かけたし」

 そこまで口にしてところで、少年は内心で自らの不用意な発言に舌打ちをした。しばらく、二人に言葉はなかった。

「あのとき、画板が目印になったって話、知ってる?」

 少しだけ頭を空に向けて、少女は白んだ朝空に話しかけるようにそう言った。

「うん、知ってる。あの後で母さんが教えてくれた。画板がなかったら、もしかしたらケンジは谷底で一夜を過ごしていたかもしれないんだよって。冗談半分、本気半分で」

「じゃあ、その画板を見つけたのが、私だって、知ってた?」

「それは、初めて聞いた」

 今になって知る真相に、少年は驚いて少女を見つめた。

「警察まで呼んで精一杯さがしたけれど、なかなか落ちた場所がわからなかった。ずっとみんなで探し回っているとき、私がケンジの落した白い画板を見つけたんだよ」

 このとき、少女の口辺が本当に少しだけ微笑んだように見えた。

「あれは、私のお手柄だった」

 少女の微笑んだ姿を久しぶりに目にして、少年の胸は不意と高鳴った。少年の胸裏に言い知れぬ充足感が湧いた。

「なんでかな。どうしてだか、あのときは恥ずかしくて言えなかったけど」

「そうだったんだ。いまさらだけど、ありがとう、ミッちゃん」

 少年は自然とゆるむ笑顔でお礼を言った。

 けれど少女はその言葉に何も返さず、ただ空を見つめているだけだった。その目尻にも口辺にも、いつもの感情の欠落が戻っていた。

「谷底に落ちているとき、足が腫れ上がったのも、独り取り残されたのも、すべて蝉の祟りなんだって思った。だから、ごめんなさいって謝りつづけていたんだ、ずっと」

 空には満遍なく薄い煙のような雲が広がり、それを背に一羽の鳶が大きな円を描いて舞っていた。

「でも、祟られて当然だったと思う。あのとき、本当にたくさんの蝉を踏みつぶしたから」

 手すりに降りていたすずめが空へとまた飛び立った。ちょうど別の場所から飛びたったすずめと戯れるように重なり合って、二羽のすずめは山裾の方へと見えなくなった。

「もう、行こうよ」

 少女が、すずめの行く末を見つめながら小鼻を縮め、眩しそうに眼を細めて呟いた。

 少年は、少女の車椅子を押して緩丘から駐車場脇に伸びた短い斜面を降った。

 二人は四阿の日陰から、温かな初陽によってゆるやかに薄れだした山靄の中へ入っていった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ