第2話 高収入なバイト
夏休みが始まって3日ほど経ったある日のこと。相変わらず刺すように強い日差しの中を、純はゆっくりと歩いていた。彼は時計をちらと見て、約束の時間までまだ余裕があることを確認すると、立ち止まって手拭いで汗をふき取った。こまめに汗を拭わないと、すぐに汗疹が出来てしまうのが夏の辛いところである。
純は現在、東京のとある町を訪れていた。ほどよく東京都心(この言葉もけっこう曖昧である。東京駅のある中央区か、それとも新宿なんかの大規模な街を指すのだろうか)に近いその地は、駅前通り沿いに雑居ビルが並んでおり、その雑居ビルの一つにある小さな部屋が、彼が今目指しているところである。
一介の高校生がそのような場所で何をするのか――。それは、ずばり、アルバイトの面接である。お料理するだけのバイトに面接なんて必要なのだろうかと純は思ったのだが、先方がそのように指定してきたのだから、従うより仕方がない。せっかくの割のいいバイトなのだ、ここはとりあえず従順にしておかなくては。――高校生くらいになると、誰しも純真無垢な性質は消えて、打算的に、腹黒くなるものなのである。
純はそれから数分歩いて、お目当てのビルを見つけた。今どきよくある、1階にコンビニがある雑居ビルだ。純はコンビニで水を買うと、それを口に含みながらコンビニの出入り口の隣にある階段を上っていった。ビルの中は電灯の類はあまり機能していないように見えたが、日の光が上手い具合に窓から入っていて、けっこう明るい。純は少し眩しいなとも思いながら、ビルの中の一室の前へようやくたどりついた。木製らしい簡素な扉をコンコンと手の甲で叩く。「はい」という声とともに、中年の男性が出てきた。
男性は髭が少し濃いめで、顔には年相応の皺が刻み込まれている。身長は170センチメートルの純より少し高く、また体躯も比較的大柄だ。髪の毛は黒々としているが、ほんの少し白髪も見えた。
「君が、連絡をくれた、氷月純くんだね」
言ってから、男性の少し顔に迷いが浮かんだ。高校生であることは、予め伝えてあるはずだが。
「いや、一応さんと呼ぶべきかい?」
純はなんだそんなことかと思ったが、笑顔を浮かべて「くん付で構いませんよ」と返した。どちらかといえば、純さんだなんてむず痒いし、呼ばれるなら、かわいくてお淑やかな女の子か、かわいい後輩かに呼んでもらいたい。
「じゃあ純くん、中へどうぞ」
男性に促されて、純は部屋の中へ足を踏み入れた。部屋は普段は会議室として使われているのか、木板と鉄パイプで出来た長机と、座面が濃いねずみ色のパイプ椅子、それから小さなゴミ箱が部屋に置かれていた。机の上には、飲みかけのペットボトルのお茶と、男性の物と思しき黒い鞄。逆にそれ以外の物はほとんどなく、6畳くらいの部屋は少し寂しい印象を受ける。
「私は、矢浦鷹星といいます」
椅子を引きながら、男性が名乗った。純は「よろしくお願いします」と頭を下げてから、自分も椅子に座る。
「改めまして、氷月純といいます。今回はお料理のアルバイトを募集しているとのことでしたので、ご連絡を入れさせていただきました」
相手はまずしっかり頷いて、それから手を机の上で組んだ。すこしばかり、真剣な面持ちだ。
「まあ、そのことなんですがね。ある程度の料理の腕が、こちらとしても欲しいわけでして」
矢浦はそう言うと、机の上に置いてあった鞄からA4の紙を取り出す。何枚かが左上でホチキス止めされているようだった。
「これを見ていただきたいんですけどもね、今回のツアーは、まあ、言ってみれば婚活パーティーなわけでして。私が所持する山奥の館、『星辰館』にて星を見ながら男女が仲を深めるという、そういうものなんですよ」
矢浦が見せてきた紙には、彼が話したことがより詳しく細々と記されていた。純はほうほうと頷いてそれを見る。
どうやら館はこじんまりとしたものらしく、普通の3階建ての家のおおよそ2倍くらいの大きさがあるようだ。もっと大きな、ホテルのようなものを予想していた純は、少し拍子抜けすると同時に、ほっとした。そんなに大きいと、料理をする方も一苦労だ。
「やっぱり、食事にも、そう言う感じの――なんというんでしょうか、ムードが欲しいわけで」
純が一通り目を通したのを感じ取って、矢浦は話を再開する。
「なるほど、そのムードに見合った料理を作れってことですよね?」
これまた難題だ、と純は思った。なんだよ、婚活パーティーのムードって。当たり前だがそんなところに行ったこともないし、家族以外の女子との関わりもあまり深くはないので、想像で補わなければならない。
「まあ、そうなりますけどもね」矢浦は頷いてから、少し言いにくそうに躊躇しながら切り出す。「いきなり高校生に料理をさせるって言うのも中々難しいところがあると思うんですよ。こんなことはないとは思いますけど、君が料理に関してずぶの素人で、お金目当てに来たって場合も考えられるでしょう?」
まあ、そうだろうな、と純は思った。料理人でもないただの男子高校生に、2泊3日分の料理を頼むなんて、リスクが高すぎる。ましてや、これは20万円も支払われる“高収入バイト”なわけだ。その金額に見合った働きをしてもらわないと、とてもじゃないが割に合わないだろう。
こんなときに調理師の資格でもあればいいのだが、両親に相談されたら一蹴された。まあ、そもそも調理師の資格を取るには実務経験が2年間必要なので、許しが出たとしてもまだ取れなかったはずである。
「で、僕は何をすればいいのでしょうか? 当然、採用されるには認めてもらわないといけないわけでしょう?」
矢浦は「ええ」と頷く。
「採用試験みたいなものなんですがね。実は今、隣の部屋も借りていましてね。そこには、簡易なキッチンも備えられているんですよ。そこで――」
矢浦は腕を組んで、少し間をおいた。純のことを品定めしている――そんなようにみえる。
「君に、これから私の昼ご飯を作ってもらいたい」
純は一瞬意表を突かれたような顔をした。いや、キッチンの話の時点で薄々予感はしていたが、それでもいきなり言われると驚くものだ。
彼はそんな驚きをすぐに引っ込めると、笑みを浮かべた。
「お安い、御用ですよ」
その言葉には、確かな自信が含まれているようであった。
調理師の資格は専門の学校(養成施設)を卒業することでもとれるみたいですね。
まあ、どの道無理か。