第1話 夏休みのはじまり
ひんやりとした教室の中で、着ているTシャツの胸元をパタパタとした。白いシャツは汗で肌にべったりと貼りついており、なんだか気持ち悪い感触だ。
もう既に蝉が鳴き始める季節になり、何もしていなくとも汗をかくようになってきた。しかし、こんな暑さの中、冷房設備のついていない体育館で校長の長い話を聞かせる学校は、どこかズレている。生徒の一人や二人――いや、もっとたくさん倒れていてもおかしくはないだろう。日頃から熱中症に気を付けろなどと言っている割には、こういうところの配慮がまったく出来ていないではないか。
自身の通う高校の悪口を心の中でぼやきながら、氷月純は机の上に突っ伏した。周りでは高校生活最初の夏休みに胸を躍らせる生徒たちが、なにやら楽しげに話をしている。先ほどまで執り行われていた終業式では9割方の生徒が死んだ魚のような濁った目をしていたというのに、この変わりようといったらあきれたものだ。
そもそも、夏休みなんて中学生も高校生も同じようなものじゃないか――純はそう思っているのだが、一般的な学生はどうやらそうは考えないらしい。今も、彼の隣の席に女子がたむろして、きゃっきゃと夏休みの予定を話し合っていた。やれ海に行くだの、祭りに行くだの、話す内容は誰も同じようなことなのだが、どうしてこうまで盛り上がれるのだろうか。
純がそんなことを考えていると、不意に肩を叩かれた。
「なぁじゅんじゅん。俺らも海とかいかねー?」
声の方を見ると、ちょっと日焼けをした、健康そうな男児が。もとよりインドアな所以か男子に似つかぬ白めの肌である純とは正反対だ。
「やだよ。あんま日焼けしたくないし、俺は海より山の方が好きだ。ま、一番いいのは家に引き籠ってることだけどね。夏は暑いからなぁ」
面倒臭そうな純の返事に、相手は苦笑いをした。
「まったく、お前って奴は……。あ、そうだ。じゅんじゅんはバイトとかするの?」
「うーん、楽して稼げるバイトがあったらするかもだけど……。そういう佐東はなんかすんのか?」
相手――佐東は聞き返されると、待ってましたとばかりに得意気な顔になった。
「俺はおじさんが経営してる海の家に手伝いにいくぜ! あ、そうだ。じゅんじゅんも来ない?」
「だから海は好きじゃないって……」
ガラガラ、と音を立てて、教室のドアが開かれた。騒いでいた皆の視線がそちらに集まる。
「ほい、席につけー。HRはじめるぞー」
担任が入ってきたのを見て、生徒たちはめいめいの席に戻ってゆく。中にはスマホを慌ててポケットにしまう者などもいた。
「じゃ、また後でな」
佐東は純に小さく手を振ると、自分の席へと戻っていく。
教卓の前に立った担任の男性教師は、全員がきちんと席についたことを確認すると、両手を教卓にバンと音を立てて置き、身を乗り出す姿勢になった。
「明日からは夏休みだが、あんまり羽目を外しすぎないように。遊びにいってもバイトをしても別に構わんが、きちんと勉強すること。課題忘れたら新学期ぶっ飛ばすからな!」
やや昔気質な感じの担任が発した厳しい言葉に、生徒たちは震え上がった。やや色黒めな担任は筋肉質な体に凄んだような目付きをしており、それだけで恐怖心を煽るのには十分すぎる。
「ま、勉強と遊びとをきちんと両立させてりゃあ文句は言わん。
さて、配るもんは1限に全部配っちまったから、特にはないな。よし、号令!」
「きりーつ」
級長の掛け声で、皆が席を立つ。
「じゃあ、いい夏休みを送ること! また新学期全員ここに揃えるように、くれぐれも怪我とかすんじゃねーぞ!」
「はい!」
クラスに数名いるお馬鹿そうな男子達が、大声で返事をした。それを聞いた担任が満足げに頷いたのを見て、級長は「ありがとーございましたー」と言い、それに合わせてクラス内の生徒たちは気だるい礼をした。
そうして、また集まってお喋りを始めた皆を尻目に、純は一人でそそくさと学校を後にしたのだった。
◇
「バイトかぁ……」
家に帰ってソファに身を沈めると、純は深くため息をついた。
「確かに悪くはないと思うけどなぁ……。面倒だよなぁ……。佐東みたいにコネがある訳じゃないし……」
純はぼやくと、地面に無造作に置かれた学校鞄からスマホを取り出した。
「割のいいバイトとかないかなぁ……。どうせなら、自分の好きなことを活かせるようなのがいいんだけどなぁ」
ちなみに、純の好きなこと(もの)は2つある。
1つは国語――これは好きというより得意に近い。幼い頃から絵本を読む、あるいは読まされてきた影響か、小学生の頃から国語だけは出来る子供だった。もっとも、他(特に理系科目)はからきしできないので、総合的にみると中の下くらいの成績を取り続けている。
そして、2つ目は家事だ。料理、洗濯、掃除――これらはなんとプロレベルまで鍛え上げられている。
「将来は主夫になって、かわいい女の人のヒモと化すのだっ!」
これが、彼の口癖である。なんとも不純な動機だが、つまりは純が働く努力をしたくない駄目人間というわけである。
「あー、暑い暑い」
駄目人間はソファに仰向けになって、スマホを見た。
「国語を活かすなら――カテキョとか? いや、高校生じゃ無理だし……」
検索画面を開いて「効率いいバイト」などと打ち込んでいると、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま――って、またソファで伸びてるの!?」
少し年のいった女性の声。純の母親だ。
「まったく……夏休みが始まったばっかりなんだから、勉強でもすればいいのに……。ほら、アイスケーキ買ってきたから、これ食べてシャキッとしなさい!」
彼女はそう言うと、手にさげていた白い箱をソファの前にある低いテーブルの上に置いた。もう片方の手には取っ手付のエコバッグのようなものが下げられているので、どうやら買い物帰りだったらしい。
「へいへい。おぉ、涼しい~」
純が箱を開けると、中からドライアイスの冷気が漏れ出てきた。こういうものは、見た目だけでも涼しいもので、体感気温が一気にさがったような気がするから不思議なものだ。
「じゃ、いっただっきまーす」
純は台所から皿を持ってきてケーキを乗せると、嬉しそうな声を上げて食べ始める。
「あ、1個だけよ? 未愛が怒るから……」
「わかってるって。……はぁ、めんどくせー。冷蔵庫にでも入れとくかね。溶けちゃはないかわからないけど。いや、ドライアイスあれば大丈夫か?」
未愛とは、今年中学2年生になった、純の妹のことである。純とは正反対の理系女子で、理科にめっぽう弱い純はいつも小馬鹿にされ続けている。
そんなこともあってか、純は心底面倒そうにソファを立つと、アイスケーキの入った白い箱を冷蔵庫に運んだ。ちなみに、冷蔵庫内でアイスケーキを保管すると、ドライアイスがあっても一時間ほどで溶け始めてしまうらしい。
そんなことを知らぬ純はソファに戻ると、「いいことをしてやったなぁ」と思いながら食べかけのケーキに手をつけた。フォークを口を運びつつ、再びスマホを覗きこむ。
「ふーん……。活かすなら料理とか、そっち系かなぁ」
アイスケーキに舌鼓を打ちながら検索結果を眺めていると、不意に、あるページが目に留まった。
「うん? これは……」
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フォークを咥えた口元に、ニヤリと笑みが浮かべられた。