祭礼の夜
夏休みの一日、座敷に置いてある大きな客用の座卓を占領し、生垣の先に見通せる田んぼの稲の波が風に揺れるのを眺めながら勉強をするのが好きだった。田舎に来たという実感がわく時間だった。眠くなればそのまま後ろに倒れこんで畳表の枕で昼寝をした。
宿題帳もほとんどやり終え、解放感に浸っていた八月半ばの午後、朝方からの久しぶりの雨に、軒下に座り込んで、雨樋から滴る雫を空缶で受けとめ、音を聞いたり、土の上を気ままに流れる水を堰き止めたり、流れを変えたり、小さな溜め池を作ったりしながら、私は退屈もせずに遊んでいた。
暑さにしぼんでいた庭先の朝顔は雨の恵みに生気を取り戻し、竹垣にまた再び巻き付く元気を出している。
友人達も雨で外に出てくる様子もない。ここいらの子供たちは魚釣りくらいなら雨でもやるが、泳ぎや相撲やチャンバラごっこはどうも雨の日には似つかわしくないと思っているようだ。といって皆が家にいて何をしてるのかは私は知らないのだ。お互いに家に上がりこんで遊ぶということは全くなかった。
ふと、目の前に花柄の浴衣のすそが現れた。熱心に雨の雫と格闘していたので、近づいてくる気配もなにも感じなかった。
「元気?」――同い年の従妹だった。夕方から近くの神社の夜店に行こうと前から約束していたのだ。浴衣を着て番傘をさした彼女は大人びて見えた。
私はというと、半ズボンにランニングシャツ、青いゴムの鼻緒の下駄を履いてい
る。家の中に招じ入れ、祖母を呼び、私は着替えようと座敷の片隅の小部屋に入った。ここが私の夏休みのお城だ。小さな古びた座り机も私のものだ。からっぽだった引出しには今は私の筆箱とノートが入っている。戦死した私の叔父が使っていたものだそうだ。黴臭い湿った布団の匂いがした。丸い傘の二〇ワットの電気スタンドをつけてみた。かすかに埃っぽい焦げるような匂いがした。
居間で従妹は祖父と祖母に近況報告をしていた。とても同い年とは思えないほど大人びた話し方だった。軽めの夕飯を一緒に食べてから出かけることになった。縁側に丸いちゃぶ台を出して、ご飯とスイカの皮の漬物と魚の干物の夕食を四人で食べた。ほの暗い縁側に、従妹の浴衣の白地が浮かんで見えた。雨で外はいつもより暗かった。
庭先で雨蛙が鳴いていた。湿った藁の匂いがしていた。雨音の向こうから祭りのお囃子がかすかに聞えてきた。
私は浴衣は持ってきていなかった。せめてものよそ行きという格好をしようと思い、少し黄ばんだ開襟シャツに、いつもよりちょっとだけ上等な白い半ズボンを履いた。しかし足元は下駄のままだ。ズック靴を履いて誰かに冷やかされるのがイヤだったのだ。もっとも雨で履けはしなかったのだが……。女の子と一緒というだけで冷やかされるのはわかっていたが、それには何故か頓着しなかった。
足元を濡らしながら、番傘をさして祭りに出かけた。祖父にお小遣いをもらって、二人ともうきうきしていた。
歩いて四、五分のところにある神社の辺りは祭礼提灯で飾られていた。狭い参道の両側はカーバイトランプの眩しい光にテントの影が映え、イカ焼きやカルメ焼きの匂いがカーバイトの匂いと混じって懐かしかった。従妹はいつになくはしゃいで、私の腕に手を絡ませてきた。雨に濡れた髪の匂いに私はなぜか顔が火照り、胸が高鳴った。
「やめろよ」と、私は言ったが、彼女はますます指先に力を込めてきた。鉢巻をした夜店の若衆たちが私たちをみて卑猥な言葉を投げてよこした。
「だからやめろよ」――私は小さな声で言ったが、彼女は全く意に介さず、私の腕を引っ張るようにして、両側に並んだ夜店の列を眺めながら、何を買おうかなと呟いていた。セルロイドのひょっとこのお面が私たちを冷やかしているように見えた。
雨の夜にしては人出が多かった。この時代の田舎は娯楽というものはお祭り以外にはほとんどなかったのだ。
当時はテレビも集落で一台しかなく、プロレス放映の時には、ブリキ缶の加工・販売をしていた、通称ガンガン屋の店の土間は大人子供で満員だった。皆立ったまま居間にあるテレビを見て、力道山の空手チョップに歓声をあげていた時代だった。当の家族は悠々と居間で氷入りのジュースを飲みながら、土間の観客を意に介さず白黒画面に見入っていた。番組が終わったあと、テレビのスイッチを切って、そのまま何も言わずに奥に引っ込む主の背中が偉そうに見えた。観客はため息をつきながら、お礼も挨拶もないままにゾロゾロと外に出て行くのだ。私は一度だけ誘われて行ったけれど、二度と行く気はしなかった。
ようやく雨があがり、生温かい水蒸気の匂いが鼻をくすぐった。夜店も店じまいをし始め、境内に祭りのあとの寂しさが漂ってきた。私は、帰ろうと彼女に声をかけたが、彼女は黙って社殿の裏手へ私の手を引いて行った。裏の広場は大きな楠が真ん中に生えており、崖の縁には松の木が並んでいた。暗がりに目を凝らすと、木の下のそこここに二人連れが潜んでいた。中には立ったまま抱き合っている人たちもいた。私は、帰ろうと言って手を引いたが、彼女はますます指に力を込めて動かなかった。もう一度、私が戻ろうよと手を引くと、彼女は力を抜いて振り向きざま私の胸に飛び込んできた。そして唇をそっと寄せてきた。私はなすがままにしていた。というより動けなかったのだ。
彼女の唇は甘かった。さっきかじった真っ赤なリンゴ飴の甘味なのかどうか、私には区別がつかなかった。彼女は、いとこ同士は結婚できるんだよと、大人びた口ぶりで私の顔をじっと覗き込んだ。私は彼女が何を考えているのか思いも及ばず、彼女の心臓の鼓動を感じながら、ただお堀を隔てた向こう岸に並んだ飾り電球を眺めていた。彼女は私の手をそっと離し、ひとり帰り道を辿った。私はあとを追いかけたが、人混みに紛れた彼女を見失ってしまった。静寂の中から牛蛙の響きが押し寄せてきた。
〔了〕