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親愛なるホームズ君へ  作者: 嵩夜ゆう
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第二章 すり替えられた印象派たち

 はじめまして、嵩夜ゆうと申します。

 角川、富士見文庫、電撃文庫、Dダッシュ、講談社などの新人賞に送り、毎回、三次審査までいくのですが、何か一歩踏み越えられないような自分自身の壁を感じまして、こちらの方に小説をアップすることにしました。

 私自身、ライトノベルで難読症をある程度克服した経験から、そんな奇跡が起こせたらいいなと願いつつ、書き続けています。

 書く速度はすごく遅いので、月一更新になってしまいますが、ストーリーのラストまで見守っていただければ、すごく嬉しく思います。


 次の日、レンブラントの回顧展には、大勢の観覧者がつめかけていた。

 光と影を描いた画家と呼ばれるレンブラントは、日本国内においてもかなりの知名度を誇る。学校の教材は勿論、テレビ番組で特集が組まれるほどの人気がありながら、他の画家と異なり、傑出した代表作を残していない。にもかかわらず、レンブラントという画家は、現代の美術愛好家の中でもっとも評価されている画家の一人である。レンブラントの代表作を上げるとするならば、彼の生き様、彼が描いた全ての絵が彼の代表作と言っても言い過ぎではないほどだ。

 一階のレンブラント展示エリアにたくさんの人が集まる中、二階の印象派エリアには、誰一人として足を踏み入れることは無い。無料回覧日でも見れる絵を、わざわざ二千円近い回覧料を払って見る必要が無いということなんだろう。

 ――――……たった一人の男を除いては。


「ちょっといいか、カオル君」

「なんでしょうか……ホームズ、さん」


 今日の担当割り当ては、僕から館長にお願いして、あえて多人数が押し掛けるレンブラント展のキュレーターから外してもらった。多人数が訪れるレンブラント展では、高校生美咲カオルの知り合いとバッティングする可能性が0ではないという危険性を考え、印象派エリアに回してもらったはずだったのだが、なんでこんな男がこんな場所にいるんだ……


「君はキュレーターチェアに座っているが、その能力を是非見てみたい。よければ、この踊り子の絵のキュレーションをお願い出来ないだろうか」


 僕の方を見ることなく、ホームズさんはその絵を派手な装飾のついたスターリングシルバー製の長い物体で指し示した。

 ホームズさんは、一体何を持っているんだ? あれ……? あれってもしかして、電子煙草!?


「ホームズさん、館内は禁煙です」

「そんなことは知っている」

「電子煙草だから大丈夫、なんて理屈も通りませんからね。そもそも、館内で喫煙が禁止されている理由は……」

「熱や湿度、その他副流煙に含まれる化学物質には、物質を硫化させてしまう性質がある。特に、銀を主成分とした絵の具が使われている絵には致命的なダメージになりえるし、電子煙草の中の水蒸気ですら、近くで吸えば致命的なダメージを与えかねない。そのぐらい、俺だって知っている。無論、吸ってなどいないし。見てみろ。カートリッジ内のタンクは空だ。したがって、これは火がついていない煙草と同列、いや、それ以下の存在だ」

「ならいいんですけど……シャーロック・ホームズを名乗っていて電子煙草っていうのは、個人的にどうかと思いますけどね」

「時代が変われば人も変わる。そんなことより、俺はキュレーターの君に、この踊り子のパステル画のキュレーションを求めている。よければ聞かせてくれないか」

「海外ではよくあることですけど、この美術館で説明を求められたのは初めてですね」

「そうなのか? なら、お願いしようか」


 このシャーロック・ホームズを名乗る男は、一体、何を考えているのだろうか。保険会社から来たということは、当然全ての画家、全ての美術品に対しての知識があるはずなのに。にもかかわらず、なんで僕にキュレーションを求めてきているんだろう……?


「この絵は、二十世紀初頭に描かれたパステル画の踊り子です。ドガというと油絵のイメージが強い画家ですけど、実はパステルや彫刻なども手掛けていて、特にパステルで描かれているものは、バレエダンサー特有のすらっとした美しい手足と、踊っている最中の中間の動きを表現しているものが多く、この絵でも、スカートの部分が一部透けているように表現されていますけど、これは動いている最中のものを人間が見た時に、手前で動いているものと内側で静止しているもの。その境目が肉眼で見た場合無くなってしまうという、今では漫画やアニメで当たり前のように使われている表現ですけど、当時は、この表現手法一点をとっても、画壇の批判の対象でした。ものが透けて見えるなんてありえない、描きかけの絵を展示する狂った画家の集団がいる、と当時は酷評されたものなんですよ。ですけど、この誰しもが納得し得る美しさには、時代を超えた説得力があります。ですから、描かれてから百年近く経った今でも――――」

「違うな」

「え……? 僕、何か間違ったことでも説明してしまいましたか?」


 ホームズさんは黒いレザーの手袋をはめ直すと、絵の上部を手で覆い、その部分だけを、まるで覗き込むように見始めた。

これは鑑賞などではない。観察でもない。鑑定をする時の、外部の光の反射を極限まで抑えることにより、通常の状態では見えないものを見ようとする、古くから使われている鑑定のテクニックだ。


「この絵は、描かれてからそんなに年月は経ってはいない。これは贋作だ。大変よく出来ているし、ドガのタッチを忠実に再現してはいるが、やはり贋作だ」

「そんなはずは無いですよ。ずっとここに飾ってあったんですから。それに、この美術館の警備は国内の美術館の中でも有数の警備システムを採用していますし、贋作にすり替えるなんてこと絶対に出来ませんよ」

「だが、贋作だ。間違いなくな。確かに、紙もパステルも完全に当時のものだ。そして、額装されて極めて見づらいが、この端にわずかに丸い跡がついている。この絵はカオル君も知っていると思うが、ドガがある飲み屋のツケを払う為に、その場で描いた絵なんだ。そして、このシースルーの表現を使う為に、最後にドガは自らの指を使い、パステルをぼかした。それをする為に、ドガはピッチャーになみなみとビールを注がせ、二つのピッチャーグラスを絵の両サイドに置いた。見たまえ、カオル君。確かにこの踊り子の絵にも、当時のピッチャーグラスの底と同じ形のへこみがついてはいるが、極端すぎる。ドガのパステルは、このように慎重にガラスケースに額装されて展示されることが多い。そのせいで、年々この跡は薄く、見えにくいものになっている。だが、この絵はどうだ。くっきりと、ピッチャーグラスの半円の模様が絵の上部についている。あたかも絵が、自分は本物のドガの絵の踊り子だと主張しているようだ。だが、美しい。出来ることなら、この完璧なまでのドガの踊り子を描いた本当の画家と会って話が聞きたいものだ」

「これがすり替えられた贋作だというのは、本当なんですか? ホームズさん」

「俺はこの道のプロだ。そして、俺がこの美術館に来た本当の目的でもある」

「それは、どういうことですか?」


 ホームズさんは周囲に鋭く目線を走らせてから、僕に視線を向けた。


「幸い、今は人がいないようだな。内部事情を知らなければ、捜査もおぼつかない。だから、君にだけは話しておこう。君の観察眼は、実に見事だった。ただ一点、この俺を不審者呼ばわりしたことを除けばな。俺は保険会社からの依頼で、ある盗難事件を調べている」

「盗難事件、ですか?」

「ああ、そうだ。その盗難にあった絵全てが、今まさに目の前にあるように、本物よりも本物らしいとさえ言える。この俺ですら見たことが無い、素晴らしい贋作にすり替わっている。まあ詳しい話は、君の仕事が終わってからにしよう……この近くにあるホテルのレストランだ」


 レザーの手帳と派手な銀製のボールペンを取り出すと、ホームズさんはそこにレストランの住所と時間を書き、そのメモを僕に渡した。


「必ず来てほしい」


 そう言い残すと、ホームズさんは印象派エリアを出ていった。


「なんでこの僕がそんなことしなきゃいけないんだよ……」


 でも、あの自分の分析によって導き出された答えをひたすらに追及する姿勢。第三者から見れば、突拍子もなく、且つ、破天荒なまでの捜査手法。現代のではなく、それはまさに、あの歴史上に残る名探偵シャーロック・ホームズそのものにさえ、僕には思えてきた。




――ホテル内 展望レストラン

 終業後、渡されたメモに書いてあるホテルの展望レストランに行くと、ウェイトレスが個室になっているVIPルームに案内してくれた。


「随分早かったな。もっと遅くなるのかと思った」


 先に食事をしていたのか、デカンタに注がれたワインは半分以上無くなり、皿の上には食べかけのスモークサーモンがのっていた。


「これも美術館の業務の一つと思って仕方なく付き合いますけど、僕は、あの踊り子の絵が贋作だなんてとても思えないですし、まして、あの美術館に勤めている職員に犯人がいるだなんて、とても思えませんよ」

「話は座ってするとしよう。勝手にメニューを注文していたが、よかったか?」

「それはかまいませんけど、僕が来てからメニューを見て、僕が頼むという選択肢は無かったんですか?」


 ジュラルミン製のバッグを椅子の脚に立てかけながら座る僕を見ながら、ホームズさんは唇を湿らすようにワインを一口飲んだ。


「見ての通り、と言っても解らないだろうが、このメニューは俺がシェフに特別に頼んで作らせたもので、メニュー表には載っていない」

「でしょうね。スモークサーモンにトラウトのソテー、しかも、焼き加減はブルーですか。つけ合せがフィッシュ&チップスっていうのも、ありえないですよ」

「俺の仕事は頭脳が命だ。ドコサヘキサエン酸は、非常に脳にいい。EPAは、循環器系の病気の副作用の少ない治療薬としても使われている。悪くないメニューだと思うがな」

「解りました。僕もサーモンは嫌いじゃないですから、いいですよ」

「だと思ったよ。なんというか、カオル君と俺とはとても似た思考回路を持っている気がする。それが君をここに呼んだ最大の理由でもあり、と同時に、唯一無二の理由でもある」


 ウェイトレスを呼びつけたホームズさんがワイングラスに注がれたワインを飲み干した頃、僕の分の特別メニューがテーブルの上に並べられた。皿の上に綺麗に並べられたスモークサーモンを一切れ、フォークとナイフで一口大に切り、口に入れるまでの動作をホームズさんにじっと見られるという、何とも食べにくい状況の中、僕はそれを飲み込んでから、改めて口を開いた。


「くり返しになりますけど、ホームズさんは美術館内に犯人がいる、そう思っているからこそ、わざわざ唯一パートタイム勤務の僕を呼んで事情聴取まがいのことをしようとしていますけど、あの美術館にいる人は全員、そんなことをする人ではないです。それに、あれから僕はもう一度あの踊り子の絵をじっくり観察したんですけど、あれが贋作だなんてとても思えません。コップの跡も、ホームズさんが言っているほどこれ見よがしについている、という印象は受けませんでした」


 デカンタから注いだワインを一口、二口、味わうようにして飲んだホームズさんは、ワイングラスをゆっくりとテーブルに置いた。


「じゃあ、順を追って説明しよう。最初にこの精巧な贋作が見つかったのは一ヶ月前だ。そして、立て続けに出て来た贋作は二十四点。しかもだ、面白いことに油絵からパステル、水彩画、挙句の果てはブロンズ像まで出て来た。そして、これら全ての美術品が通ったのが、君がアルバイトをしている美術館だ。これは偶然ではありえないし、あっていいはずがない。当然、保険会社としては、盗難、あるいは紛失ということで保険金は支払ってはいるが、これだけ大量の美術品の保険金を支払ったことが解れば、株価は暴落する。だから、次の決算までに全部の美術品を取り返したい、ということで俺のところに話が回ってきたわけなんだが、このリストを見た瞬間、とてつもなく妙なことに気付いてな」

「それは何ですか?」

「一つは、贋作を作る為には、それも専門家が最新の機材を使ってきちんと鑑定しなければ見分けがつかないほどの贋作を作る為には、とても高度なテクニックがいる。特に、油絵はそれが不可能と言っても過言ではない」

「でも、三万円くらい出せば、本物そっくりのレプリカが買えるじゃないですか」

「それは表面上だけの話だ。君も知っての通り、油絵は立体物だ。塗り重ねれば塗り重ねるだけ厚みが出る。この犯人は、その筆で出来る微細な起伏さえも忠実に再現している。挙句の果て、業界ではゴーストと呼ばれる、絵の裏に描かれている描きかけの絵まで忠実に再現している。これが油絵だけなら俺も納得した。だが、ここまでの高い技術を持ちながら、更にブロンズ像のコピーまで、この犯人は完璧に行っている。だから正直言って、このリストに載っているものが全てではないと俺はそう思っている」


 ホームズさんはそのリストをテーブルに置き、僕に向けて滑らせた。受け取ったリストには、確かにあの美術館で一度は飾られたことのある、もしくは今も飾られている作品のタイトルが並んでいた。


「つまりホームズさんは、高い技術をもった贋作画家や、鍛金や鋳造の高い技術を持った専門家が関わっている組織的な犯罪だと思っているんですね?」

「初めは俺もそう思った。そんな技術を持っている人間がいたら、少なくとも全ての技術を習得するまでに六十年はかかるだろう。退職して第二の人生が美術品の窃盗収拾なんてのは考えられない。だから、おそらく実行犯と贋作を製造する専門職と、そいつらに金を出す主犯がいるという構造を考えた。だが、これは説明がつかないんだ。もし、そんな組織を作る財力があるなら、これら全てではないにしろ、少なくともそのリストの内の三分の一は買えてしまうからだ。更に言えば、この犯人は美術品の金銭的な価値ではなく、好みで窃盗をしている」

「だとしたら、まだ複数犯説は完全に無いとは言い切れないんじゃないですか?」

「いや、言いきれる。仮にそれだけの組織を作る金があるとして、しかも、それを趣味でやっているとしたら、その主犯が持っている通帳の桁は0が数えきれないほど並んでいるはずで、そんな人間が主犯なら、やはり買った方が早くなってしまう。それにだ、俺が単独犯だと言い切る根拠はこれだ」


 ホームズさんはテーブルの上に置いていたファイルの中から写真を二枚取り出し、それを並べて僕に見せた。


「もはや写真では、どっちがオリジナルで、どっちが贋作なのか俺ですら見分けがつかない。この犯人は、明らかにすり替えた後、自分が描いた贋作や自分が作った彫刻が別な美術館に飾られて、本物のように扱われているのを楽しんでいる。そして、すり替えられた偽物から、この犯人の趣味のようなものが大体予想出来る。このブロンズ像は、ドガが作った数少ない彫刻作品の一つだ。そして、この自画像。ヴァン・ゴッホのものだ。これに至っては、モネのもっとも有名な作品である印象・日の出だ。世界で初めて描かれた、印象派の代表作だ。つまり、この犯人は印象派の絵を収拾している。特に、ドガとヴァン・ゴッホが好みらしいが、不思議な点がある」

「印象派好きは、そんなに珍しい好みとは思わないんですけど……むしろ、ロマン派が好きだとか、キュビズムが好きだとか、そういう人の方が珍しいと思うんですけど」

「絵の好みの話じゃない。大きさの話だ」

「大きさですか?」

「そうだ。この絵は当然知っているな?」


 ファイルから取り出された写真に写っていたのは、プルシャンブルーが特徴的な、晩年に描かれたゴッホの星月夜だった。


「ええ。ゴッホの星月夜ですよね」

「そうだ。この絵はどうだ?」

「ドガの、劇場の踊り子たちです」


 次に見せられたのは、ドガが好んで描いた踊り子の中で現存する、もっとも大きい油彩の大作で、エドガー・ドガという画家に不動の知名度を与えることになった劇場の踊り子たちだった。


「どちらも最高傑作と言っていい代物だ。そして、あの美術館に回覧展で来ていた絵でもある」

「そうですね。まさか、これも贋作……なんですか?」

「いや、俺自身が細部まで鑑定したが、この二点はまぎれもなくオリジナルだった」

「盗まれなかったんだったら、よかったんじゃないんですか?」

「いや、盗まれなかったのが不思議なんだ。印象・日の出を手に入れたんだ。犯人はこの二点も絶対に欲しがるはずなんだ。だが、盗まなかった。いや、もっと正確な表現を使うなら、盗みたかったが、盗めなかった」

「どういうことですか?」

「この犯人が盗んでいる絵は、全て小さいんだ。そして、彫刻もそうだ。パステルでも油絵でも、丸めて持っていくなんてことは、安っぽいドラマの中だけの話だ。実際にあんなことをしたら、」

「絵の具が割れてしまいますよね」

「そうだ。つまり、犯人は高いレベルの、いや、世界で最高の贋作画家で、贋作彫金師で、そして、美術品を大切に扱う人物ということになってしまう。且つ、この犯人は犯罪を行った後でも、その犯行がバレることを嫌っているか、さもなければ、根っからの犯罪者で、自分が作った作品を本物のように扱う金持ちを見て嘲笑っている、そういった人物ということになる。そして、この犯人が盗み出せる条件は、横幅七十センチ未満。縦幅六十センチ未満。奥行き五十五センチ――――この範囲に限定される。つまり、業者のフリをしてとか、輸送中にすり替えるだとかそういった方法ではなく、美術館の保管室か、あるいはチェックルームで本物とレプリカをすり替え、職員専用の出入り口から、それを盗み出している」

「その推理だけ聞けば、一番怪しいのは館長ですよね……歳も六十歳くらいですし、彫刻も油彩も引退する前はたくさんの名作を残していますから」


 本当は真っ先に名前を挙げようと思った人物は、別な人だった。でも、僕はあえて館長の名前を出した。保険会社の調査員である以上、美術館の事実上の所有者である館長が第一容疑者なのだとしたら、この僕の目の前にいるシャーロック・ホームズを自称する男は、正義を取るのか、それとも実利を取るのか、僕はそれが見てみたかった。


「俺も一番疑わしいのは館長だと思っている。だから、当面はその方向で調査を続けるつもりだ。だが、美術品の修復は、言わば部分的に贋作を作るのとそう違いは無い。俺は、高い技能を持っている修復士も容疑者の中から外すつもりは無い」

「つまり、常勤のベテランの修復士三人も容疑者ってことですね」

「当面はそういうことになるな。除外出来るものを除外して、残ったそれがどれだけ信じがたかったとしても、それこそが真実だ。それは昔も今も変わりはしない」


 ワイングラスを掲げ、どこか遠くを見るような目で窓の外を見つめた後、ホームズさんは一気にワインを飲み干した。


「その台詞すごく有名ですけど、本当にシャーロック・ホームズはそんなこと言ったんでしょうか。なんか、後からとってつけたみたいな、それこそアーサー・コナン・ドイルとして長年事件録を書いてきたドクター・ワトソンの創作ともとれる発言ですけど」

「言ったか言ってないかということは、この場合、問題じゃない。その事件録を読んだ犯罪者や、これから犯罪を企てようとしていた人間を恐怖させるには十分な台詞だと思わないか? そもそも、あの事件録自体、犯罪の抑止力として書かれていたという事実を踏まえれば、その真偽を今更言及しても仕方がないと俺なんかは思うがな。たとえ言っていなかった台詞だったとしても、時にはそこまで断言したという虚像が必要になることも世の中にはありえるんだ」

「現代のシャーロック・ホームズなんて呼ばれている貴方が、それこそ嘘やねつ造を認めてしまってもいいんですか?」

「いいか、カオル君。世の中には、真実よりも大切なものがある」

「それはなんですか?」

「このシャーロック・ホームズの話でいうのであれば、彼がその発言をしたかしていないかよりも、これが事件録に載ったことによって、どれだけの犯罪が抑制されたか。行われずに計画段階でとん挫したか。言ってみれば、行われなかった犯罪の数と、本来言ってさえいない言葉を追記したという両者を天秤にかけて、どちらがより罪深いのかという話にも出来る。確かに、シャーロック・ホームズは天才と呼ばれて差し支えないレベルの探偵だったと思うが、彼がもし、この場にいたとしたら、だから何だ、というだろう。人が死んでから、取り返しがつかないことが起きてから能力を発揮出来る者など、無能の最たる例だと失笑するだろう。この名言は、多分そんな彼の想いが吐かせた虚偽だと思う。今ではだいぶ違うが、あの当時の捜査手法では完全に冤罪を無くすことは、シャーロック・ホームズであれ、誰であれ、絶対に不可能だった。だが一方で、冤罪やいわゆる未解決事件なんかが多くなれば、真っ当に働くよりも犯罪をした方がよほど得だということになってしまう。だが、これはあまりにも酷すぎる結果だ。だとしたら、この程度のはったりは許されるべきだったと俺は思うな」

外に広がる夜景を見ながら、そんなことを話すシャーロック・ホームズは、まるで霧のロンドンを思い出しながら昔語りをしている本物のシャーロック・ホームズにすら、僕の目には見えた。

「ところで、君の家は近いのか?」

「え? なんでですか?」

「いや、靴をスニーカーに履き替えて帰るということは、歩いて帰れる距離に家があるということだろう」

「よく見てますね」

「観察が仕事だからな」

「近くは無いんですけど、運動の為に歩くようにしているんです。バイトでは立ち仕事も多いですし、学芸員の仕事は意外と力仕事も多いんです。だから、普段から仕事の為、なるべく基礎体力をつけることにしているんです」

「そうなのか。やはり、君は仕事にプライドを持っているようだな。その点も、俺と似ている」

おそらく、ホームズさんは話をしながらでも食べやすい、軽い食事をわざわざ用意していたのだろう。気付けば、僕の皿の上もすっかり何も無くなり、ウェイトレスが皿を下げ、食後のイングリッシュティーを運んできた。

ホームズさんはベストのポケットから、これまた派手な装飾が入った銀色の馬鹿デカい電子煙草を取り出し、それをくゆらせ始めた。

「いくつだ」

「じゃあ二つで」


 僕がそう言った途端、何故かホームズさんの動きがぴたりと止まった。


「君は……実に不思議な人間だな。君と話していると、十代の少年と話しているということをすっかり忘れてしまう」

「それ、よく言われるんですけど、年齢詐称だとか、冗談でも酷いと思いませんか?」

「だが、そう思われるのは悪いことばかりじゃない。年齢相応に見えないということは、君が少なくとも他者から見た君自身だが、年齢不相応な慧眼を持ち、礼儀作法や仕草も大人びて見えるということだろう。若くして、自分の道を決めた者は、他人にしばしばそういった印象を与えることがある。俺は十七歳でアメリカの大学院の犯罪心理学過程を卒業しているが、働き始めた後、俺もよくそう言われた」


 紅茶を飲み終え、再び電子煙草をくゆらせながら、ホームズさんは話を続けた。


「まして、俺が身を置く世界は競争主義という面が大きいからな。俺に言わせれば、誰が事件を解いても一緒で、たまたま俺が最短で事件を解決する探偵だっただけなんだが、本当、この新世界は実にくだらない。今の名前に改名したのも、その頃だ。俺の名前は、やはりシャーロック・ホームズじゃないとおかしい気がしてたし、皮肉であれ賛美であれ、周りがそう呼ぶのだから、この名前が一番論理的に正しい。そう思えた――――そろそろ送っていこうか、カオル君。そんな大きいバッグを抱えて夜中歩くのは大変だろう。強盗やひったくりにあったら、君の協力が仰げなくなるからな」

「大丈夫ですよ。この辺、ものすごく治安がいいですから」

「そうか? 少なくとも、君が勤めている美術館の中に関しては、とてもそう言い切れたものじゃないがな。ああ、ここの払いなら気にしなくていいぞ。どうせ経費だ」

「こんな無駄遣いしてもいいんですか?」

「上手い紅茶とサーモンが食べれなければ、俺は仕事は受けない」

「それじゃあ……お言葉に甘えます」

「ああ、そうしろ。未成年は未成年らしく、大人の行為は素直に受け取っておいた方が得だぞ」

「そうかもしれませんね。それじゃあ、また明日」


 僕は重たい修復道具が入ったジュラルミン製のバッグを抱え、個室のドアを閉め、レストランを後にした。


「未成年は未成年らしく、か……」


 僕は、その未成年の僕に、何故シャーロック・ホームズがあの美術館で行われている犯罪の内容を事細かに説明したのか、その理由を考えずにはいられなかった。

 僕が容疑者から外れているからなのか、僕だけが非常勤のキュレーターだからなのか、それとも……

 色々な推理や想像を巡らせてみたが、あの現代のシャーロック・ホームズを名乗る、とてもホームズには見えない男が、一体何を考えているのか。結局、僕には解らなかった。






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