第一章 その男の名は、シャーロック・ホームズ
はじめまして、嵩夜ゆうと申します。
角川、富士見文庫、電撃文庫、Dダッシュ、講談社などの新人賞に送り、毎回、三次審査までいくのですが、何か一歩踏み越えられないような自分自身の壁を感じまして、こちらの方に小説をアップすることにしました。
私自身、ライトノベルで難読症をある程度克服した経験から、そんな奇跡が起こせたらいいなと願いつつ、書き続けています。
書く速度はすごく遅いので、月一更新になってしまいますが、ストーリーのラストまで見守っていただければ、すごく嬉しく思います。
夏の日差しが照りしきる中、蝉の鳴き声がより一層暑さを増大させてくれている平日の早朝。制服姿の学生がバス停へと急ぎ足で向かう中、僕だけがその流れと逆らうかのように歩いている。
向かっている先は、僕がバイトをしている私立柳原美術館。
高校生の僕が何故平日に美術館でバイトをしているのか、その答えは簡単だ。僕は、この世の何よりも美しいものを愛しているからだ。その為、学校側にもバイトのことは秘密。美術館の方にも、僕が高校生であることは秘密だ。この事実は、ただ一人をおいて誰も知らない。
「カオルさん、おはようございます」
「あ、春菜さん。おはようございます。今日は随分遅くないですか?」
「え、そうですか? ちょっと時計を見せていただけますか?」
制服の夏服を崩すことなく着こなし、腰まで伸びた艶やかな藍色がかった髪を風に遊ばせている春菜さんに挨拶を返しながら、ポケットから懐中時計を出して見せると、春菜さんは驚いたように目を丸くした。
「あ……昨日、少し調べ物をしていまして、その、寝坊を……」
「また推理小説のネタ探しですか?」
「えっと……そんなところです。それよりもですね、カオルさん」
「何ですか? 春菜さん」
「アルバイト、最近入れすぎじゃないですか? 今年も留年なんかしたら、永遠に高校卒業出来なくなっちゃいますよ?」
学校指定の制服とは違う、白いスラックスにベスト姿の僕を見て、春菜さんは困ったように眉を寄せた。
「大丈夫ですよ、春菜さん。計画的に休んでますから」
「それ、全く威張れないですからね」
「僕のバイトのことを知って、脅迫まがいのことをしてきたのは、どこの誰でしたっけ?」
「何を言っているんですか? カオルさんは。あれは丁重なお願いですよ。罰則付きの」
「物は言い様ですね……」
僕は思わず苦笑いを浮かべた。
何を隠そう、僕の二重生活を初めに発見したのは、文芸部部長にして、たった二人しかいない文芸部の中で、唯一定期的に小説を書いている二階堂春菜さん。そして、もう一人の部員というのは、この僕、美咲カオルのことだ。バイトのことを学校側にバラされたくなければ部員になってください、という脅迫まがいの勧誘を受けて以来、春菜さんの要求はどんどんエスカレートしていく一方だった。今では挿絵から、小説の細かな部分に矛盾や設定上不可能なことが起きていないかなどのチェックまでさせられている。
それにしても、なんでバレたんだろう? 用心過ぎるくらいのことをして、誰にも見つからないようにしていたはずなのに。
「どうしたんですか? カオルさん」
「いえ。ちょっと脅迫された時のことを思い出しまして」
「あれは丁重なお願いですよ? あんまりそんなことを言ってますと、本当に学校側にバラしてしまいますよ?」
「ごめんなさい! 僕の勘違いでした!」
「ご理解していただければ、かまいませんよ。カオルさん」
とても美しい、それこそテンペラ画や彫刻にして飾られているとしたら、何ら不思議が無いほどの可愛らしい微笑。だがしかし、その心の闇は深い。たびたび脅迫されるのは、もはや序の口。学校で、パンや飲み物を買いに行かされるのはもう慣れたからいいとしても、本当に春菜さんが猟奇的で狂気に満ち満ちていると僕が感じたのは、彼女が書いている小説の内容だ。数ページ目を通しただけで、ニーチェの『おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ』という有名な言葉を思い出すほどだ。せめてもの救いは、現時点において小説の内容を実行に移したことが無いことだろう。このまま小説の中だけに留めていて欲しいと、僕は半ば本気で心配している。何故なら、彼女が本当に暗黒面に落ちてしまった場合、最初の被害者は確実に僕だからだ。
「そういえば、あの絵はもう美術館に飾られているのですか?」
僕が持っている、修復道具が入ったジュラルミン製の大きいバッグを探るように見た後、春菜さんは上目づかいで僕を見上げた。
「いえ、まだですけど……それにしても、だんだん要求がエスカレートしてませんか? 油絵のモチーフの指定だなんて」
「どうしても見てみたかったんです。カオルさんが描くライヘンバッハの滝を」
「本当、春菜さんって探偵小説マニアですよね」
「それを言ったら、カオルさんは、それこそ度を超えた美術品愛好家みたいなところがあるんじゃないですか? わざわざ学校を休んでまで美術館でバイトをするなんて……普通の高校生の行動じゃありませんよ」
「そうかもしれませんね。でも、好きなんですよ」
「絵画が、ですか?」
「いいえ。人の魂のこもった、全ての美しいものが、です」
「本当にカオルさんは、不思議な人ですよね。とっても不思議な――――あっ! もうバスが来ちゃいました。それじゃあ、カオルさん。頑張ってくださいね」
「はい」
僕に手を振りながらバスに乗り込む春菜さんを見送り、僕は再びバイト先である美術館へと足を向けた。
――私立柳原美術館
美術館の業務員専用出入り口からカードキーを通して中に入り、絵の具や石膏、様々な香りが入り混じる中、僕は美術品修復修繕室のドアを開けた。
「あれ? おはよう、カオル君。今日は休館日なのに、相変わらず早いね」
「おはようございます、水木さん。今日はレンブラントの絵が届く日ですし、それに、僕が描いた絵も運ぶ予定になっているので、早めに休みをもらって額掛けしたいかなと思って」
中にいたのは、この美術館で僕の次に若い修復士の水木紗理奈さんだった。水木さんはYシャツと短いタイトスカートの上に白衣を羽織り、ポニーテールに結い上げた髪を直しながら、にっこりと笑った。
「その歳でサロン展に出すなんて、すごい度胸だよね。まあカオル君の修復の腕は、ベテランの私もびっくりするほどだから、当然と言えば当然かもしれないけどね。あ、でもカオル君。サロン展の基準号数の絵の大きさって、それこそレンブラント並みに大きいんだけど、構図とか大丈夫? もし絵の具が生乾きとかで輸送途中で剥がれてたりしたら、この天使に祝福されてる左手を持つ私が、特別にお金を取らずに修復してあげようか?」
「大丈夫ですよ。速乾性の溶き油を使って、除湿器をかけた部屋で乾かしていたので問題はないと思いますけど、もしそんなことがあったらお願いします」
水木さんの冗談のセンスは、この僕から見てもかなり変わっている。修復士でキュレーターでもある僕がそんなミスをするわけが無いということを前提とした冗談なのだが、これをもし水木さんの性格を知らない人が聞いたら、とても奇妙な会話に聞こえるに違いない。
「じゃあ、その時のお代は体の出世払いにしてもらおうかな」
「ど、どういうことですか!?」
「え? 私の助手として働いてもらうってことだけど? それとも何かな? カオル君は、全然別なことを想像しちゃったのかな?」
しまった。トラップだったか……でも、普段の水木さんの言動からそういうことを想像してしまうのは、断じて僕のせいじゃない。
「あのですね、水木さん。僕がこの美術館に来てからもう半年以上経ちますけど、これ、一体何回目のセクハラなんですか。これ和製英語じゃなくて、元々の意味でのセクシャルハラスメントになりかねないんですけど」
「まあまあ、そんな固いこと言わないの。それに、セクシャルハラスメントは職場での地位が高い人間からの性的な嫌がらせという国際基準に照らし合わせたら、カオル君の方がよっぽどすごい資格持ってるんだし。私なんか家の近所の大学でちょこちょこっと取ってきた資格だけど、カオル君のは修復士の資格もキュレーターの資格も、全く別物じゃない」
「ちょこちょこっと取ってきたって、まるで通信教育でペン習字習ったみたいな言い方しないでくださいよ」
いつものように水木さんから僕がからかわれていると、二台のトラックの微妙に違った音色のバックギアの警告音とエンジンの音がかすかに聞こえてきた。
「もうトラックが来たみたいですね。じゃあ、搬入してきます」
「あ、カオル君。搬入した後、スキャナーでのデータベース更新、忘れないでね」
「え? 今までそんなミス、僕しましたか?」
「違う違う。なんか、アートアーカイブシステムを導入してからの輸送保険の内容が変わったとかどうとかで、色々と神経質になってるみたいなの。何日か前から向こうの保険会社の人から電話も来てたみたいで、あの石田さんが珍しく美術館の業務をやってたくらいだから。だから、念の為」
「解りました。慎重にします」
「うん、よろしく。私は四神香炉をとってくるから」
「それって、この前修復依頼があったものですよね? あんなにダメージがあって修復出来るんですか?」
「依頼された以上、何とかするしかないよ。これでも、天使に祝福された左手を持つ修復士として名前が通ってますから。たとえ破片からだって、修復して見せます。ってことで、じゃあ、後はよろしくね。カオル君」
「はい」
水木さんが部屋から出ていった後、業者にレンブラントの絵八枚と、ついでに自分の絵もまとめてスキャナーの前に運んでもらい、僕は鑑定用データベースのスキャン作業を始めた。僕は大きなレンブラントの絵を包んでいたフェルトのカバーを慎重に剥がし、巨大なスキャナーの中に絵を運び入れ、人一人ならこの中で暮らせてしまうのではないかと思うほど大きな、完全に外から密閉されているスキャナーの中で額装を外した。それをアートアーカイブシステムとリンクしている3Dスキャナーの台に乗せ、機械を動かした。
美術品の鑑定方法は年々進歩し続けている。今や刷毛の跡やヒビの深さ、それらが輸送される際も到着した際も、そして、提供してくれた美術館に返送する際も、このスキャン作業が行われる。これによって、輸送中のすり替えや大規模な破損があった場合、どこの誰に責任があるのか、というところを明確化するとともに、こういった名画を窃盗しようとする犯罪者への牽制にもなっている。現代の頻繁な回覧展の各地での開催は、このシステムがなければ成り立たないほどになっている。多くの人がたくさんの名画を、自分の国にいながら目の前で鑑賞出来るようになったのも、このシステムの功績と言える。
僕が全てのレンブラントのスキャンを終え、慎重に額装の嵌め直しを行っていると、水木さんが香炉を持って戻ってきた。
「あれ? もう終わっちゃったんだ。いつもまかせっきりでごめんね。流石、天才キュレーター。ちょっとした作業でも、速さが段違いに早いよね」
この美術館が私立美術館にも関わらず、世界的に有名な美術館から絵画や彫刻を貸出ししてもらえるのは、水木紗理奈という世界的に有名で天才的な修復士がいるだけじゃなく、日本の美術館や修復士が毛嫌いしがちな数々のコンピュータシステムを導入していることも理由の一つとして挙げられる。その導入に誰よりも積極的だったのが、目の前で朽ち果てた香炉を慎重に3Dスキャナーの中に入れている水木さんなんだけど、彼女は必ず重たい搬入作業や滑車やワイヤーを使う移動作業がある時は、もっともらしい理由をつけてどこかに消えてしまい、その作業が終わった頃を見計らうかのように、作業終盤には何食わぬ顔をして、今までずっとその場所にいたかのように戻ってくる。他の学芸員からは、そのことで色々と言われていたりもするけど、彼女が手首を壊したり、腕を折ったりなんかしたら、日本の美術界、考古学界における損失は計り知れないものになってしまう。
そこまでを考えたら、この程度の茶目っ気はむしろ許されるべきものだと、僕なんかはそう思う。
「スキャン作業、全部終わりました。あとは、鑑定データベースをアップロードして、データをアーカイブに入れるだけです。職員許可が必要なんですけど、水木さん、いいですか?」
「いいよ。そういえば、カオル君。なんでパートタイムなの? 常勤になれば権限だって増えるんだし、すごい資格持ってるのに、勿体ないよ」
スキャンデータを確認し、職員用のワンタイムパスキーでパスワードを入力しながら、水木さんは僕が一番振られたくない質問を投げかけてきた。
水木さんって、たまにものすごく鋭いところあるんだよな。何て言って誤魔化そうかな……
「私としては非常に不思議なのよね。常勤になったら、一歩間違ったら石田さんと同じくらいの権限が持てるわけでしょ? 下手したらそれ以上。十六歳の天才キュレーターがいる美術館っていうだけで、ネームバリューとしては相当だろうし。本当、なんでパートタイムなの? 私だけじゃなくって、三田さんも同じこと言ってたよ?」
「石田さん以上って、オーバーですよ。あの人が、これまで何十点の巨匠の未発見作を発見してきたと思ってるんですか。その功績に比べたら、ただ若いだけのキュレーターなんて、なんのネームバリューにもならないですから」
「まあ、そうかもしれないけど……でも、少なくとも、今よりは館内での権限が増えるわけだし、スタートラインが早いだけ、私なんかよりもカオル君の方が雑誌に取り上げられると思ったんだけど」
「そんなこと無いですよ。水木さんの美術品修復にかける情熱は、誰よりも美しいと思いますよ」
「うわぁ……そんなド直球に言われちゃうと、流石の私も照れちゃうんだけど……って、また話をさりげなーく別な方に誘導してない?」
しまった……バレた。
飄々とした屈託のない話し方と、いつも明るいその表情で僕もよく誤認してしまうけど、水木紗理奈という人物は海外で美術修復の技術を学び、家庭の都合で日本の大学に編入したという、少しオーバーな言い方をすれば、運命に逆らって自分が信じた道を進んできた修復士だと言える。だからこそ、人や芸術品を観察するその瞳はまぎれもなく本物であり、少し気を抜けば、僕のこの二重生活がバレてしまいかねないほどの危険人物でもある。
まあ仮にバレたとしても、水木さんならきっと僕が苦笑いしたくなるような冗談を言いながら、そのことを黙ってくれるとは思ってる。でも、万が一、それこそありえない可能性ではあるけど、僕の経歴が水木さんにバレた状態で、その上、芸術家協会やその他の業界団体にこれが露呈した場合、当然のことながら、厳密な聞き取り調査がされる。その場合、本人が何と言おうと、僕が立場上、水木さんの補佐という形になっている以上、水木さん自身も処分の対象からは逃れられない。だから、水木さんであれ、誰であれ、このことを美術館側の人間に知られることは、決してあってはならない。
「ええっと、色々と事情があってですね……」
「まあ……そうだよね。今時、海外じゃともかく、日本で美術系の仕事に就くなんて、親から反対されるよね。この仕事、意外とハードだし。私なんか、いい加減そんな仕事止めろって、いまだに親が言ってくるくらいだから」
「水木さんほどの腕を持っていても、ですか?」
「他人から言われると、うーん……かなり複雑な気分だね。でも、それなりに仕事にプライドは持ってるし、まあ強いて言えば……」
「強いて言えば?」
「彼氏がいないのが、悩みと言えば、悩みなんだよね……この仕事、出会いなんてものと程遠いじゃない?」
「そう……ですか?」
軽い口調とは反対に重い溜め息を吐く水木さんに、僕は首をかしげてしまった。
水木さんはこの美術館の常勤の中で一番年が若く、確か二十代前半だったと聞いたことがある。しかも、修復士の中でも珍しい女性の修復士で、海外の雑誌では、天使に祝福された左手と謳われるほどの腕がある。更に、その雑誌の中では、水木さんの写真と共に絶世の美女という一文が書かれていて、一時期、美術館に水木さん宛てのファンレターが大量に送られてきて処理に困ったという、ありえないこともあったらしい。
絶世の美女かどうかは解らないけど、僕が見ても水木さんは綺麗な人だと思うから、そんなに悩む必要なんてないんじゃないかと思うんだけど……
「そうなの! 若い人はいないし、合コンに行っても、まず自分の仕事の説明から入らなきゃいけない。もう、その時点で終わった……って感じするよ。もうしょうがないから、仕事場にいる年下の、将来有望な、アルバイトなんだけど天才的な修復技術を持った男の子でも食べちゃおうかなーって思っちゃうくらい」
「アルバイトの人って、僕の他にいましたっけ?」
「おっと。そんな切り返しがくるとは」
振り返ると、僕をいつもからかう時に水木さんがよくする、雑誌の写真や近くの美大の生徒に見せる、極めて大人びた女性の表情をしていた。僕からしてみれば、明らかに作っていることはバレバレなのだが、雑誌の表情を褒めて以来、水木さんは僕をからかう時に、あえてその表情を作って見せるのだ。僕の目からしてみれば、水木紗理奈という修復士は、大人という仮面をかぶった精神年齢中高生の修復士である。
「水木さん。あんまり年下をからかわないでくださいよ」
「ごめんごめん。でも、本当に不思議なんだよね」
「何がですか?」
「普段こうやって話してる時は、別に何とも思わないんだけど、ごくたまに、とても年下と思えないような時があるんだよね。特に、美術品や工芸品の話をしてる時とか。本当は、年齢詐称とかしてない?」
「し、してませんよ! あ、僕レンブラントをそろそろ会場に運ばないといけないので。多分、他の学芸員さんたちも準備してますよね?」
「そうだね。三田さんがバタバタしてたし、もうそろそろ会場の設置が終わった頃だと思うから、絵を搬入しても大丈夫だと思うよ」
「解りました」
――美術館 一階 レンブラン展特設エリア
僕が回顧展会場に絵を持っていくと、もう会場の雰囲気はタイムスリップをしたのではないかと思えるほど完璧なくらい、レンブラントを飾るにふさわしい風景に様変わりしていた。照明の色、盗難防止用の重量感知ワイヤーを隠す為の装飾、足が悪い人でも長時間座って鑑賞することが出来る椅子、パンフレットを飾る棚までもが、全てが十七世紀に作られた高級家具を模して製作されていた。この完璧なまでの演出が、この美術館の最大の売りである。会場に入った人は、その画家をたとえ知らなかったとしても、その画家が生きた時代の空気、その絵が生まれた背景……会場を出る頃には、そういったものが全て心の中に残る。
「いつもながら、すごいですね」
「お、カオル。おはよ。データベーススキャン、きちんとしたか?」
水木さんと同じ修復士である三田伸二さんに後ろから声をかけると、三田さんは派手なガラのTシャツにジーンズ、少し長めの茶髪を上に結い上げるという作業スタイルのまま、いつもの軽い感じの笑顔で振り返った。
「おはようございます、三田さん。さっき水木さんからも言われましたけど、そんなに神経質になってるんですか?」
「なんかさ、保険屋の調査員が来るとか来ないとかでさ、ほら、うち私立美術館じゃないか。だから、保険料とか不備があってペナルティで上げられると、運営がきつくなるんだよ。だから、主に館長とか石田とか、上の方がすっげー神経質になってるみたいでさ。俺達がそんなヘマするかっての。あ、あとは絵を吊るだけになってるから、そこに一枚ずつ寝かしといてくれ」
「はい、解りました」
僕はスキャンし終わった後、再び厳重な金属製のケースに入れ直したレンブラントを、飾る場所の近くにクレーンワイヤーでゆっくりと慎重に吊り上げ、なるべく高さをもたせないようにしながら移動させ、これでもかというほど分厚く敷かれたフェルトクッションの上に、一枚ずつ、そっと寝かせていった。
「ふぅ……これでやっと終わりか」
「やっぱり緊張するか?」
「当然ですよ。世紀の名画なんですから」
「あ、値段の方じゃないんだな。俺なんかたまに思うんだけどさ、ここに飾ってる絵、全部売り飛ばしたら一体いくらになるんだろうって」
「三田さん……冗談でも職員の人がそう言うと、シャレにならないと思うんですけど……」
いつもの冗談かと思って見上げた先の三田さんの顔は、僕が思っていた以上に真面目な顔をしていた。
「いや、冗談。冗談だって。でもさ、カオルは変だと思わないか?」
「何がですか?」
「だってさ、名前が売れたから値段が高いわけだろ? 例えば、ゴッホのひまわりとか。あれ、二百億円もするんだぞ? しかも、ひまわりの何枚かは贋作の疑いがあるらしいし」
「そういう説もありますね」
「もし仮に、それが近年に描かれた贋作だったとしてもさ、それでも見た人間の感動って変わらないよな。だって、同じ絵なんだから」
「そうかもしれませんね」
「まあ贋作は極端な例にしても、その時代の、それこそサロンに組みしなかった画家で、名前が売れてないというか、完全に無名な印象派の画家って、大量にいたはずなんだよな。なんでそいつらの絵は、高い絵の修復の材料に剥ぎ取られて、有名な画家の絵だけが手厚く保存されるのかって、絵を描きながら、一方で修繕なんかの作業に携わってると、つい疑問に思うんだよな」
三田さんは腕を組みながら、複雑な表情でレンブラントの絵を見つめていた。
「そういえば、三田さんもサロン展に絵を出してましたよね」
「ああ。何年も何年も、この仕事をやりながら描き続けて、気付いたらこんな歳になっちまった。ま、実家暮らしだから、食うには困らないんだけどな」
「今年は受かるように祈ってます」
その瞬間、僕は額を小突かれた。
「馬鹿かお前。自分の絵が受かるように願えよ。正直悔しいけど、俺なんかよりも全然才能あると思うぞ、お前」
「そんなこと無いですよ」
そう言った瞬間、僕はまた三田さんに額を小突かれた。額を押さえながら見上げると、三田さんの顔はものすごく不機嫌そうに歪められていた。
「あのな。あれだけの腕持っててそういうこと言うのは、もはや謙遜通り越して嫌味だ」
「き、気をつけます」
「ばーか。冗談だよ、冗談。ま、腕があるのは事実だからな。これから館内チェックに行くのか?」
「はい」
「お前の場合、館内チェックっていうより、給料もらって絵の鑑賞してるって感じだけどな」
呆れたように笑いながら三田さんは、いまだ額を押さえる僕の頭を数度荒く撫でた。
「それは否定出来ませんけど、でも、常設展示の絵とかって、季節によってライトの位置を少しずつ変えておかないと、色あせやヒビとかの原因になってしまうので。絵にダメージが無いような位置で、それでいて、絵が見えにくくならないライトの位置の調節って、結構難しいんですよ」
「本当、細かいよな。冷房でペンギンが飼えるくらい冷えてるんだから、ライティングなんかで熱をもったりしないと思うんだけどな」
「いえ、今のライトは直進性が高いですから、その分、一点に当たる光の量も強いんです。それに、まだ美術品専用のLED照明が使われて、十年経ってないですから。正直、使用実績が無いものは何が起こるか解らないので」
「流石、世界最高峰の学芸員資格を持ってる奴は見るとこが違うよな。あ、いや、今のは嫌味じゃなくって、純粋に尊敬してるんだ」
「解ってますよ。じゃあ、巡回に行ってきますので、レンブラントをよろしくお願いします」
「おうよ。ちゃんと値段相応に丁寧に扱っておくから」
レンブラントの大作で、今回の回顧展の目玉である『夜警』に盗難防止用センサーが取り付けられ、少しずつ高さ調整されていく様を横目で眺めつつ、僕は職員用エレベーターに向かった。
――美術館 彫刻展示エリア
ブロンズや大理石、木彫りなどは特に湿度管理と温度管理が問題になる。特に問題になるのは、室内に何の保護ケースにも入れられない状態で飾られている大理石像やブロンズ像の類だ。
「今日は暑いからな……」
僕は展示室の隠し収納の中から湿度計と温度計を取り出し、各作品の周りの湿度と温度を測り始めた。
「少し湿度が下がりすぎてるな」
エアコンのコントロールパネルに向かい、部屋の各箇所の湿度と温度を調整し直した後、あらためて各作品の周りの湿度と温度をチェックした。
「……よし、これで大丈夫だな」
湿度計と温度計を隠し収納にしまい、今度はライティングチェックの為、僕は一つ一つの作品を見回した。
「ライティングは大丈夫だな……あれ?」
ライティングのチェックを終えた時、妙なことに気付いた。
「なんでカーペットに、僕以外の足跡がついてるんだろう……?」
早朝のクリーニングが入ってから、この三階に足を踏み入れるのは僕一人のはずだ。にもかかわらず、既にカーペットに足跡がついている。しかも、作品を何周も見回ったような足跡だ。
「館長が僕より早めに見回ったのかな……? あの人、本当に美術品が好きだからな」
若干の疑問を覚えつつ、僕は二階の印象派エリアに向かった。
印象派は、僕がもっとも好きな芸術家たちだ。それは単に、美しいからという理由ではない。彼らは、当時の写実主義の画壇や権力者に守られ、そして、優遇され、時には歴史のねつ造にすら平気で加担していた、淀み切っていて、腐りきった画壇に挑戦を挑んだ、言わば、当時の芸術界の異端者の集団。常識や非常識などという価値観では考えられないほど、武器ではなく、絵の具とキャンバスとその知略をもって、権力者たちに真正面から手袋を投げつけた集団だからだ。そして、この美術館は日本でもっとも多く印象派の絵を常設展示している。それが、僕がここでアルバイトをしている理由の一つでもある。
僕は印象派展示エリアに足を進め、そのエリアの入り口をくぐると、この美術館のメインフロアとも言うべき印象派エリアの一枚の絵の前に、彼は立っていた。
少し癖のある黒髪で、背は日本人の平均よりも少し高く、色白で、西洋人とも東洋人とも、どちらともとれる顔立ち。真夏に、真っ黒なレザーパンツとレザーベスト。それとは対照的な真っ白な、何の飾り気もないが、一目で上質なものだと解るシャツ。腰にはウォレットチェーン。腕にはド派手なシルバー製のウォッチブレスという、美術館にはあまりにも似つかわしくないルックスの男がそこにはいた。
「君は……ここのキュレーターか」
「へぇ、すごいですね。貴方以外の人は皆、初めて僕を見ると、ここの館長の孫と勘違いするんですよ」
「それは随分と災難だったな。まず、心理学的に親であれ、祖父であれ、こんな道楽みたいなことをやっていた場合、子供や孫はそれに対して反発や反感を持つのが普通だ。まあ、反抗期が無かったような人格の持ち主なら、それにはあたらないがな。次に、君の爪だ。君の爪は深く切りすぎている。それも、慢性的にだ。その爪の切り方によって、指の先端の肉が丸く変形している。これはピアニストにもバイオリニストにも当てはまる特徴だが、君のその華奢な手ではオクターブまで届かない。バイオリン奏者の最大の特徴である、顎から肩にかけての体の歪みもない。そして次に、君が履いている靴だ。靴は面白いぞ。日本語では足元を見る、という単語があるが、それは非常に面白い表現だ。君の靴は表面はレザーだが、底は硬質樹脂で出来ている。その手のオーダーメイドの靴なら、靴底まで革張りのはずだ。つまり、君をプロファイリングすると、こういうことになる。年齢にそぐわない高級嗜好の持ち主で、しかも自分の仕事にプライドを持っている。だから、間違っても素手で触らないとは言え、万が一、爪で美術品を傷つけないようにする為に深く爪を切る。そして、その白い硬質樹脂の靴底は、通常は高級なホテルのバーや海外ではVIPの家に出入りする高級取りの清掃員や調理師が履く靴で、理由は大理石や高級な床材にゴムの摩擦痕をつけないようにする為のものだ。最後に、君の着ている服だが、どこにも金属のボタンやリベットがついていない。おそらく額装や、その他の展示補助物に傷をつけない為だ。そして、上下共に靴とは比較にならないほど安いものを着ている。これは明らかに、何らかの衣服が汚れる作業をしていることを示している。ここから導き出される答えはたった一つだ。色白の、この小柄な少年が何者なのか。わざわざオーダーメイドをしてまで、そんなちぐはぐな靴を作り、慢性的に爪を手入れし、そして、収入とはかけ離れた安い服に身を包んだ君が何者なのか。将来有望なバイオリニスト……違う。じゃあ、ピアニスト……それも違う。じゃあ、ただの金持ちの親族……そう思った奴が何故そんな結論に至ったのか、俺には皆目見当もつかないが、それも論外だ。親の体面上、そんな安い服を着せるわけが無いからな。だから、結論としてこうなる。君は信じがたいことに、その年齢でキュレーターの資格を持ち、且つ、修復の腕をもっている。更に信じがたいことに、その年齢ではおおよそ考えられないほど仕事にプライドを持ちながら、更にこれも信じがたいことだが、最高級のレザーを使い、且つ、最高の技術で靴を作る職人を見分ける能力がある。そして何より、ここは休館中の美術館だ。そんなところに君のような人間が立っていたら、俺じゃなくてもすぐに気付くはずだ。君はただ者ではない」
まるでキュレーションのように、わざわざ丁寧に一つずつ、しかもいやに長ったらしく解説するその男性は、あたかも昔から僕のことを知っているかのように全て言い当てた。
「よく観察すれば、結構色んなことが解るものなんですね」
「そうだ。細部にまで目を通せば、赤の他人であろうと大体のことが解る。全てが正しいと限らないがな」
「そうですか。僕もやってみようかな」
「君の観察眼は見込みがありそうだ。その歳で、その技術をもった靴職人を見分けることは、ほぼ不可能に近い。やってみるといい」
「それじゃあ、貴方は……レザーのブーツにレザーのパンツ。それも派手なシルバーのパーツがついてる。それに、オーダーメイドのウォッチブレスにレザーベスト。どれも最高級のブランド品で、誰もが買えるようなものじゃない。そして、最後に。休館中の美術館にいる」
「なかなかいい着眼点だ。答えを聞こうか」
僕はポケットから、館内内線用のPHSを取り出した。
「――――もしもし。警備室ですか? 不審な似非ロッカーがいるので、今すぐ引き取りに来ていただけますか? あ、あと警察にも連絡をお願いします」
「ちょっと待て! なんでさっきのプロファイルから、警備員を呼びつけるなんて結論に達したんだ!?」
「だって、休館中なんですよ? 立派な不法侵入じゃないですか。それに、そんな恰好で美術館に来る人、僕今まで見たことが無いんですけど。不法侵入するなら、せめてもう少しそれらしい恰好で来た方がいいと思いますよ? 大人のくせに……TPOって言葉、知ってます? 多分、知らないですよね? ギターだってコードを押さえる程度で止めちゃったんでしょ? だから、そんな恰好をしているんですよね。派手すぎるとか思わないんですか? いい歳して平日の午前中からそんな恰好でここにいて……言っておきますけど、絵画とか彫刻って、インターネットオークションに流して、すぐに現金化出来るものじゃないですからね。解ったら、真っ当にスーツに着替えて、就職活動でもしたらいいんじゃないですか?」
「お前は俺を何だと思っているんだ!?」
「え? カードで買い物しまくって、支払いに困った挙句、高い美術品を盗もうとして美術館に入った、頭の足りない人」
「コノヤロー!!」
目の前の不審者は、悔しそうにその場で地団駄を踏んだ。館内での荒事は非常に遠慮したいが、目の前の不審者が突然襲ってきた時のことも考えて、僕はPHSを持ったまま、一歩後ろに下がった。
「あ、安心してください。自己破産したり、逮捕されてから心を入れ替えて成功した人は、歴史上、何人もいますから。それじゃあ、僕は忙しいので。警備員さん、後はよろしくお願いします」
足早にこちらに駆けつけてくる警備員の人たちにその不審者を任せて、僕は館内のチェックを続けることにした。
「ちょ、ちょっと待て! 俺は不審者じゃない! 待て待て待て待て! 今ライセンスと依頼人との契約書を出すから! おい! これだ! これを見ろ! というか、なんで館長はまだこねーんだよ! ここで十一時に待ち合わせって言ってたのに!」
「き、君達!? 一体何をしているのかね!?」
警備員がその不審者を取り押さえていると、騒ぎを聞きつけてきたのか、館長が珍しく慌てた様子で、声を張り上げながら近付いてきた。
「館長。警備室の方に不審者が館内をうろついているという報告が、多数ありましたもので……」
「僕以外からも不審がられてるって……貴方、とりあえず、泥棒には向いていませんね」
「だからっ! 俺は……!」
「君達、その方は保険会社からいらした方だ! 不審者だなんて、とんでもない!」
「た、大変申し訳ありませんでした!」
館長の言葉に、慌てて警備員たちは、その不審者の拘束を解いた。その派手な恰好をした不審者は、乱れた黒い髪を、これまた派手に装飾された銀製のクシで整え、シャツの襟を直しながら、他に何か異常がないか、自分の服装を手と目でチェックしていた。
「誠に申し訳ありませんでした。現代のシャーロック・ホームズと言われる貴方様を、不審者呼ばわりする輩がいるとは……」
「現代のじゃない。俺が、俺こそがシャーロック・ホームズだ!」
――――――可哀想な頭の人がいる。
僕はその言葉を聞いた瞬間、そう思ってしまった。
現代の捜査手法。物的証拠や凶器の特徴、犯行直後の犯人の心理状態から推察される行動と足取り。そこから導き出される犯人の性別や年齢、特徴。今では容疑者かどうかを判別する手法になっている全てを確立した、百年前のイギリスの名探偵シャーロック・ホームズ。彼がそれを確立するまでの捜査は、拷問まがいの尋問と、それで得られた供述のみが全てだった。それを全て根底から覆した、今のプロファイリングに繋がる手法を確立した天才――――なのだが、どう見ても目の前にいる彼は、そうは見えない。おそらく、業界で持ち上げられて本人もその気になってしまったクチだろう。
何が、現代のシャーロック・ホームズだ。馬鹿馬鹿しい……
百年前のあの比類なき天才、シャーロック・ホームズの姿と、目の前でいまだにウォンバットかダチョウか何かのように首を様々な方向に傾け、自分の服装を必死に直している、そのシャーロック・ホームズを名乗る男を見て、僕はそんな感想しか抱けなかった。
ただ、一点。僕を一瞬でプロファイリングしたあの能力だけを除いては――――、