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愚かなる我が主人

作者: メル

 

 私は猫である。名前はまだない、とここは言いたいところだが残念ながら私にはすでに名前がある。そう、「残念ながら」である。私は私の主人が名づけた名前を実のところあまり気に入ってはいないのだ。

 元々野良猫であった私は現在の飼い猫としての猫生活をそれなりに気に入ってはいるが、どうしても彼が名づけたこの名前だけは気に入らなかった。

 「おいで、字引き」

 にゃあと一声返事をしてのっそりと仕事机に向かう主人の元へと歩み寄る。そしてぴょんと飛び上がり、彼の膝の上へと収まった。ここが私のいつもの指定席である。

 「お前は本当に身軽だなあ、羨ましいよ。僕も昔はそれなりに体力があったんだがもう体がついていかなくなっちまったよ」

 ははっと軽く笑い、彼はぺらっと私を膝に抱えたまま、私の背にある広辞苑のページを一つ捲った。私の背中にある広辞苑を、である。つまり私は一匹の猫でありながら辞書を背中に背負っているということで、私はただの猫であるが辞書を背負った特別な猫でもあるということである。これが、私が主人に「字引き」と呼ばれる所以である。

 白い毛並みに、黒く光る分厚い辞書。

 なぜ私がこのような出で立ちをしているかはあまり聞かないでほしいものだ。いや、それといって深い理由はないのだが。ただ私の飼い主であるところのこの男は、自分の飼い猫に辞書を日常的に背負わせるような変人であり、私もまたそれをごく自然に受け入れてしまう変猫であるというだけである。ただそれだけのことなのだが、彼は私のことを「字引き」などと仰々し呼び方をするものだから私はつい萎縮してしまう。確かに私は変猫だが、そんなに大した猫ではないのだ。猫だって謙遜ぐらいする。

 「なあ聞いてくれよ、字引き。この前のお客さん、お前も覚えてるだろう。そう、あの若い青年さ」

 ぱらぱらと広辞苑のページを捲りながら、彼は独り言のように私に話しかける。これもいつものことだ。彼は仕事がひと段落すると、仕事机でそのまま読書を始める。彼は暇な時間に広辞苑を読むという変人であり、今のこの行為は彼にとってまごうことなき読書なのである。口は忙しなく動かしながらも、彼の目は一字一句漏らすまいとじっと紙の上を追っていた。

 「彼の依頼内容は残してきてしまった家族に対する代筆さ。それはいいんだ。よくあることだ。けどその内容がひどくてさぁ。じゃあこの内容を代筆してくれってその男が持ってきたのがなんと文庫本一冊ぐらいはあろうかという分厚さだぜ?ひどいと思わないか、どんだけ言い残したことがあるんだって話だよ。そりゃこっちも引き受けたからにはちゃんとやるけどさぁ。ほら、見てくれよこの右手、書きすぎて手が真っ黒だ。酷使しすぎて手が痛いよ、誰か労ってほしいものだね」

 はあ、とため息をつくわりには彼の声音はどこか楽しそうなものがあった。これもいつものことなので気にしない。なんだかんだ文句を言いつつも、彼が自分の仕事を気に入っているということを知っている私は、彼の膝の上でにゃあとだけ返事をした。

 「それでやっとのこと今朝書き終えたんだけどさっそく例の青年が訪ねてきてね。毎度のことながら彼らは連絡もしていないのにタイミングをはかったように来るよね、何か彼らだけのテレパシーでもあるのかな」

 「で、彼に代筆を終えた旨を伝えたんだ。今から君の家族にこの手紙を届けに行くともね。そうしたら彼、突然泣き出しちゃってね。涙ぐみながら言うんだ、ありがとうって、そしてそのままお金も払わずに消えちゃったよ。せっかくだし一度ぐらい家族に会っていけばよかったのに、会わせる顔がなかったのかなぁ」

 「ま、なにはともあれ、またまんまと逃げられちゃったわけだよ字引き。前回のお客もそうだったけど、このままじゃ僕らすっからかんになっちゃうかもしれないね」

 ふむ、それは困る話だ。我が主人は口では言いながらもそれほど気に留めていない様子だが、私としてはそろそろきちんと報酬を支払う客が来てほしいところである。我らの生活もさほどゆとりがあるわけではないのだから。

 「ああ、もちろんその手紙は僕が責任を持って彼の家族に届けてきたよ。報酬を受け取れなかったとはいえ一度引き受けたからにはちゃんと全うするさ、仕事だからね。とは言っても次こそはきちんと仕事量に見合う対価を得たいものだよ。このままじゃタダ働きだからねぇ」

 ははは、と彼はページを捲りながら穏やかに笑う。笑い事ではなかろうに、全くと言っていいほど危機感のない飼い主にはほとほと困ったものだ。私は目だけを彼に向けて、ささやかににゃあと非難の声を上げた。

 私の意図は彼には伝わっているだろう。彼は少し困ったような笑顔を浮かべるだけだった。

 と、その時。ちりんちりんと折りよく来訪を伝える鈴の音が鳴り響いた。

 「おや、お客さんが来たみたいだよ」

 そう言ってぱたんと辞書を閉じると、彼は軽く身だしなみを整え、客の訪問を静かに待った。ただ私は次こそタダ働きにならなういように祈るばかりである。


 ***************


 我が主人は代筆家である。

 街の外れに隠れるようにして小さな店を構え、そこで店主をやっている。ちなみに店の構成員は店主である主人と彼の助手兼飼い猫である私の一人と一匹であった。

 彼はきた仕事は基本的にどんなものであろうと引き受ける。依頼人が人であろうと、すでに人ではなくなってしまっているものであろうと。どんな内容の代筆であろう一度引き受けた仕事は最後まで責任を持ってこなすのが常であった。

 なんでもかんでも引き受けてしまう」がゆえに、きちんと報酬を受け取れないことも少なくはない。もっと受ける仕事を制限したらいいのにと思わなくもないが、彼はきっと今後も己の仕事態度を変えることはないのだろう。そういう男だと、そう自然に思えるぐらいには私は彼のことを熟知している。

 「あの、すみません……ここで代筆を請け負っているとお聞きしたのですが」

 「ええ、おうけしますよ。まあどうぞお掛けください」

 大学生ぐらいだろうか、肩まで届く黒髪を後ろで一つに束ね、落ち着いた色合いのワンピースを身に纏っている。応接間に通されたその女性は、所在なさげに周りを見回しながらも、恐る恐るといった様子で我が主人の前に腰を下ろした。その様はなにかにひどく怯えているようにも見えるし、なにかある覚悟を固めているかのようにも見えた。

 「あの、今日は代筆をお願いしたくて伺ったのですが……」

 「代筆の相手はどなたですか?」

 「……それが分からないんです」

 「え?」

 分からないんですー、と、もう一度消え入りそうな声で女性は呟いた。そししばらくの沈黙の後、彼女はゆっくりと語り出した。

 「代筆を頼みたい相手は私の彼です。医学生で、この街に住んでいるはずでした」

 「はず、というのは?」

 「一週間程前から全く連絡が取れないんです。彼が住んでいるアパートに行っても誰もいないみたいで、電話も繋がりません彼の大学にもバイト先にも行ってみましたが、ここのところ顔を出していないみたいです。彼は生真面目な性格で、無断で休むような人ではないからなにかあったのではないかと心配で……」

 「ふむ、そういう話なら警察に行った方がいいのでは?」

 「警察には行けません。それに、ここならどんな依頼でも受けてくれるとお聞きしたので」

 「ええ、おっしゃる通りお受けしますとも。しかし代筆の相手の所在が分からないというのは初めてのケースですね」

 我が主人は、警察には行けないという

彼女の言葉に深く追求することはせずに、ただにこやかに笑うだけだった。彼の中でもうこの依頼を受けることは決定事項なのだろう。

 「とりあえず事情は分かりました。お引き受けいたしましょう」

 「あ、ありがとうございます!」

 「しかし、私に彼を見つけられるか確証はないので、お礼は無事手紙を渡し終えてからにしていただきたい」

 ああ、やはりこうなるのか、と私は目を伏せた。

 今回は代筆だけではなく人探し。これは時間がかかるだろうなあと私は他人事のように思うのだった。彼が些か無謀な仕事を二つ返事で引き受けるのはいつものことで、もう慣れたものである。

 女性は、差し出された紙につらつらと文字を書き連ねていく。時にペンを止まらせ、時折涙を絶えるような表情を浮かべて、女性はなにかに追われているように必死にペンを走らせる。

 そんな女性の様子をひどく静かに眺めながら、我が主人はなぜか少し悲しげな顔を浮かべていた。


  ***************


 「それじゃ、留守番頼んだよ」


 女性が帰ると、我が主人は私にそう言い残してそそくさと出て行ってしまった。さっそく男性の捜索をするつもりなのだろう。全く当てもないのにどうする気だろうかと少し心配になるが、留守番を頼まれたからには、飼い猫として私は私の責務を全うせねばならぬ。まあ彼ならなんとかするだろうと、根拠もなくそう考える私だった。

 ぴょんといつも彼が座っている仕事机に飛びのる。ちらりと壁に掛けられている時計に目をやれば、ちょうど針は二時を回ったところだった。できれば夕刻までには帰ってきてほしいものである。夕飯にありつけなくなっては困る。

 ーちりんちりん。

 「お邪魔しまーす……って、あれ?いねぇの?」

 これまた来客を伝える鈴の音が鳴ったと思ったら、部屋に入ってきたのはこの私もいくらか見知った男だった。

 「ん、よう猫。お前のご主人はどこ行ったんだ?鍵もかけずに物騒だな」

 私がこうして留守番をしているのだから鍵など必要ないのだ。

 その男は勝手知ったる様子で、ずかずかと遠慮なく部屋に入り込み、我が主人の仕事机に目を落とした。そしてこれまた遠慮なく適当に机を物色し始める。

 この男の名前は忘れてしまったが、我が主人が懇意にしている同業者、つまり代筆家である。主人と同業である男だが、彼が受ける仕事は主人と違って至って普通のものだけである。我が主人とは違いきちんと金銭が発生する仕事だ。

 どこか喰えないところのある男だが、決して悪い人間ではないと思う。なんでもかんで引き受けしてしまう我が主人を心配してか、こうして時折訪れては普通の仕事を持ってきてくれるのだ。

 「はーあいつまたこんな金にならないの引き受けてんのね……よくやるよ」

 そう苦笑を零しながら彼が手に取ったのは、先刻の女性から託された代筆だった。彼女が必死に書いていた手紙である。

 ふーんと、あまり興味なさそうな顔でそこに書かれた文字を追っていた男だったが、徐々にその顔は苦く歪められていく。

 「……本当に、よくやるよ」

 そして、ぽつり、とやりきれないような声で男はそう呟いた。

 残念ながら文字が読めない私には、あの女性が手紙に一体なにを記したのか分からない。それを読んだ主人がどんな感情を抱いたのかも分からない。

 なぜなら、私は猫である。

 おそらく今主人と同じ感情を共有しているであろうこの男が、私は少しだけ羨ましくも思うのだった。少しだけである。

 「じゃ、お前のご主人はいないみたいだからまた出直すわ」

 あいつによろしくなー、と、そう言って馴れ馴れしくも私の頭を撫でてくる。私も甘んじてそれを受け入れ、一声だけ返事をしてやった。

 彼に頼まれるまでもなく、これからも無論よろしくするつもりである。

 なにがあっても。


 ****************


 思ったよりも早く帰ってきた主人はどこかくたびれているようだった。全く当てのない人探しであったから無論疲れはすしたのだろうが、どうもそれだけではないように思えた。

 思いつめたその様子に、やはり探し人は見つからなかったのだろうかと思えば、主人が発した言葉意外なものだった。

 「彼を見つけたよ」

 と、固い声でそう一言主人は呟いた。

 見つかったのなら、なぜそんな顔をしているのだろうか。なにが悲しいのだろう。あの男なら我が主人のこの顔のわけが分かるのだろうか。

 簡潔な報告を呟いたきり押し黙ってしまった彼は、そのまま仕事机に向かい、ペンを取った。さっそく仕事を始めるのだろう。

 そんな彼を見ながら、私はいつもの如く彼の膝の上によじ登ったのだった。


 ****************


 「手紙を届けに行くから一緒に来てくれないか」

 明朝、まだ日の昇きらないうちに起こされた私は、なんとも申し訳なさそうな顔で主人にそう声を掛けられた。彼がこうして私に着いてきてほしいなどと頼むのは非常に珍しいことである。常とは違う主人の態度に違和感を抱きながらも、私は迷うことなく主人の後を追った。

 街はまだ眠っている。

 主人は行き先を告げぬまま、手紙だけを大切に抱えてただ静かに暗い道を進んだ。私もなにも言わずにその後を行く。

 主人が着いてきてほしいといったからには私がいることになにか意味があるのだろう。私はそう確信していた。

 無人の駅を通り過ぎ、無音の学校の傍を抜ける。先を行く主人はどんどんと街から遠ざかってゆく。

 そして、ざくざくと土を踏みしめ、少し急な傾斜を登ってゆく。

 しばらく歩みを進めた先に、一人の男の姿が目に入った。

 街の外れの小高い山、鬱蒼とした山中に、ただなにをするでもなく一人ぼおっと佇んでいる男。

 その光景はどこか現実離れしていて、異様なものであるかのように見えた。

 主人がゆっくり男に近づけば、その男もこちらの存在に気がついたらしく軽く会釈をしてみせた。

 「ああ、本当に来てくれたんですね」

 「ええ、仕事ですからね」

 「ははっ、そうですか」

 主人よりもいくらか若い男性だ。この男こそ、あの女性が探していた人物なのだろう。

 「僕の手紙は届けてくれましたか?」

 「今日お渡しする予定ですよ。その前に、あなたにもお渡ししたいものがあって」

 「僕に?」

 「手紙です、彼女からの」

 ぴくり、と、男の目がわずかに震えた。主人が差し出した手紙に男は恐る恐る手を伸ばす。受け取ったそれを両手で大事そうに抱え込んで、男は今にも泣き出しそうな顔でその手紙をゆっくり開いてみせた。 

 一つ一つ丁寧に男の目が文字を追っていく。主人はなにも言わずに男の様子を見守っていた。

 ゆらり、と、男の目から一粒の涙が落ちる。やがて男は声を殺して静かに泣き始めた。

 「彼女は、彼女は生きていたんですね……僕を心配して、ずっと探して……ああ、よかった、本当によかったッ……!」

 よかった。そう言いながら男は手紙を握り締め、またぽろぽろと涙を零す。

 「本当に、ありがとうございます…!」

 「いえ、私はただ仕事をこなしただけですから。……あなたの手紙も必ず彼女にお渡しします」

 「ええ、ありがとうございます、これでもう、」

 ー思い残すことはありません。

 そう言って男は笑ってみせた。晴れやかな笑顔だった。

 「……最後に彼女に会いに行かなくていいのですか?」

 「はい、生きていると分かっただけで、それだけでもう十分です」

 それだけ言うと、男の姿はゆらりとゆらめいて私たちの前から消え失せてしまった。最初からそこに誰もいなかったかのように、なんの痕跡もなく。

 残されたのは私と主人の一匹と一人だけ。主人がぽつり、と口を開いた。

 「やりきれないね」

 普段の主人らしくない、悲痛に満ちた声だった。そう言って目を伏せた彼の表情を私は覗うことができない。

 彼は今きっと悲しんでいるのだろう、悔しくもあるのだろう。もしかすると憤ってすらいるのだろう。

 けれどなぜ、なぜ彼がそんな感情を抱くのか私にはまだ分からない。私は猫である。

 主人がひょいっと私を抱き上げ、私の頭を優しく撫でた。

 私はただされるがままになっていた。


 ****************


 「やあ、来ると思ってましたよ」

 山を下って仕事場へと帰り着く頃にはいくらか空が明るくなっていた。

 そして、我らが帰った先に待っていたのはあの依頼人の女性。確かに鍵は閉まっていたはずなのだが、そんなことは気にもとめずに主人は女性に声を掛けた。

 「あの、手紙は……」

 「つい先ほど彼にお渡ししてきたところです」

 「で、では彼は見つかったのですね?」

 「はい」

 ーああ、本当に、本当によかった。

 涙を滲ませた声でそう零しながら、彼女はその歪めた顔を両手で覆った。

 主人は仕事机の上から手紙を一つ取り上げると、それを彼女に手渡した。

 「これは、彼からあなたへの手紙です」

 「え……彼から?」

 「ええ、彼もまた、あなたと同じように私に代筆を依頼してきたのですよ」

 そうして女性は震える手で手紙を読み始める。

 彼女はやがてゆっくりと手紙から顔を上げると、ひどく満ち足りたような、穏やかな笑みを浮かべ「ありがとう」と、そう言ったのだった。

 そしてあの男と同じように、彼女もまた静かにその姿を消した。


 ***************


 「一週間前にこの近くで通り魔事件があったのを覚えてるかい?」


 主人はいつものように仕事机に向かい、いつものように私を膝にのせて、しかしいつものように背中の辞書を開くことはせず、ただ私を穏やかな手つきで撫でながらゆっくりと語りだした。

 それは私に語り聞かせているというよりは単なる独り言のようであった。淡々と主人は語りだす。

 「被害に遭ったのは確か二人の若い男女だ。暗い夜道での犯行だ、目撃者もいなかった。近くの商店の防犯カメラがたまたまその犯行を捉えていてね、そのおかげで犯人はすぐに捕まったらしい」

 「だが死体がどうしても見つからなかった。犯人は二人の男女を殺害後、わざわざその死体を移動させたんだ。隠そうとしたのかな」

 「そしてつい先日、女性の死体が犯行現場のすぐ近くの川の底から見つかった。けど男性の死体はその川のどこにもんかったんだ。犯人がなにを思ってそんな行動をしたのかは分からないけど、犯人は男性の死体だけを別の場所に隠したんだろう」

 「逮捕された犯人はいまだ何も喋ろうとしないらしい。犯行の動機についても、死体の隠し場所についても。と、ここまでは新聞やニュースから分かる情報だね」

 そこまで一気に言い終えると、主人は一度大きく息を吐いた。

 「彼女の手紙にはね、彼への謝罪が書かれていたんだ」

 抑揚のない声で主人はそう言った。私の毛並みを撫でながら、主人は穏やかに言葉を続ける。

 「あの時助けられなくてごめんなさい。私は今こうして元気でいます。だから心配しないで、どうかあなたも元気でいて、ってね。そんなことがつらつらとまとまりなく書かれていたよ。彼女たちが通り魔に遭った時のことも少しだけ書かれていたよ」

 「それで、僕はすぐに彼女が手紙を渡したい相手はあの事件のもう一人の被害者なのだろうと見当がついたよ。さて、だとしたら彼はどこだろう。彼の遺体はまだ見つかってなかったからね、彼がいるとしたら自分の遺体がある場所なんじゃないんかって思った。彼はきっとその場所から動けないんじゃないのかってね。誰かが彼を見つけてやらないと」

 「じゃあ遺体があるとしたらどこだろう?彼女は近所の川だったから、じゃあもう一人は近くの山かと適当にあたりをつけた。かなり短絡的な考えだったけど本当にいたから驚きだよね。」

 「まあ山と言っても広い。そんな中から隠された遺体を探すのは相当骨が折れる作業だろう。けど僕は彼の遺体を探すわけじゃなかったからね。ただ彼を探せばよかった。それほど時間はかからにだろうと思ったよ、案の定簡単に彼は見つかった」

 「そして、僕は彼に彼女への代筆を依頼されたんだ。彼女が行方の分からない彼を探していたように、あの場から動けなかった彼もまた彼女のことをずっと探してたんだ」

 ―きっと生きていると、そう望みをかけてね。

 主人はそう言葉を締めくくった。それきり主人は黙り込んでしまう。

 私からの返事など気にしていないのだろう。そう分かっていても、私は彼ににゃあと言葉を返した。

 「ありがとう」と言って笑った二人の依頼人の姿を思い出す。

 「やりきれない」と零した主人の背中を思い出す。

 「よろしく頼む」と言われたあの男の言葉を思い出す。

 今、私は飼い猫としての責務を果たせているだろうか。分からないけれど、ただ一つ、確かなことがある。


 ―またタダ働きだったな。


 と、私はそう思うのだった。


             


 了












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― 新着の感想 ―
[良い点] 文章表現・ストーリー的にバランスがとれていて良いと思います。 特に主人公が猫(人間ではない)という点で、通常とは異なる視点・思考での『幻想』感が混入され、私的には人間くさくなく受け入れやす…
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