第八話
その頃、衣は息を切らしながら廊下を走っていた。
急いていたのは、鈴梨が待っているからという理由だけではなかった。嫌な予感が的中する予感、そんなあてのないものに襲われていたからだ。
「なんでこんなに静かなんだよっ」
他の校舎やすぐ下のフロアなどでは教師や生徒が行き交っていたのに、階段を上った途端、このフロアは誰の気配もしなくなった。まるで異空間に紛れ込んでしまったような、虚ろな静寂だった。
こんな異様な場所で鈴梨がひとり、自分を待っている。しかも鳥山が何をするかわからないという懸念もある。ゆえに、気が気でなかった。
教室のドアは開いていた。だから衣は素早くそこを覗き込んだ。
「……は?」
すぐには理解できない光景だった。
まず目に飛び込んだのは、頭から爪先まで緑尽くめの男の立ち姿だった。その足下で、鈴梨が膝をついて倒れた誰かを揺り起こそうとしていた。それは鳥山だった。
そして、宙に浮いているものがあった。ひとつは、鴉。もうひとつは小さな子どもだった。子どもは全体的に褐色だった。
「な、なんなのこの状況!?」
幼なじみは無事のようだが、怪しすぎる連中の存在感の濃さったらない。鳥山は何をしてあんなに憔悴しているのか。
わけがわからず、仁王立ちで硬直したまま、衣は叫んだ。そのため彼らの視線を一斉に注がれてしまった。気を失いそうだ、と衣は戦慄した。
「衣!」
鈴梨が呼ぶのと同時に、黒い塊がばさばさと飛び上がった。
『ケハハハハ! これはいい、うまい餌がもう一匹現れよったわ!』
耳を塞ぎたくなるようなおぞましい声で鴉が哄笑した。目玉をぎょりぎょりと踊らせたかと思うと、その嘴がみるみる変態し、鋭利に先細っていく。まるで短刀のように。
『この鳥山とやらを喰らいきれなんだは口惜しいが、藤原、おまえを代わりに喰ろうてやろうな』
「えっ。なんでぼくを」
人の語を話す鳥への驚きや焦り。思考がそこに追いつかず、呑気なことを訊いてしまう。しかし鴉は応えることなく、そこに足場があるように空を蹴り、ミサイルのように衣に襲いかかった。
凶器と化した嘴が一直線に向かってくる。衣は微動も出来ない。終わる、と思った。
『――グエエアアアッ』
しかし悲鳴を上げたのは、鴉の方だった。
目を閉じることも許されない速さの中で、衣は、鴉に刺さる無数の何かを見た。
鴉が墜ちる。ゴトッ、と鳥とは思えぬ硬質な落下音が床に響いた。
「阿呆が」
コウトクが、すぅっと宙を移動して衣のそばに近づいた。その右手の指の股に、針らしきものをいくつも挟んでいる。
鴉の身に刺さっているものと似ていた。彼がそれらを投げて鴉を倒したのだと、ようやく衣は悟った。
「あ、ありがとう……? 助けて? くれて」
「いちいちハテナを挟むでないわ、礼を言いたい時は素直に言え」
呆然を通り越して呑気が張りついてしまった衣に、コウトクは冷静に突っ込んだ。その横で鴉がバタバタともがく。
「まだこと切れておらんかったのか、しぶといの」
『ぎ、ぐ……貴様ァ、さては金目の付喪かァ……!』
「いかにも。相手が悪かったのう」
コウトクはニタリと笑った。猫みたいな目は笑っていない。悪い笑みだなと衣はひそかに思った。
『ガァァアアァ!! おのれ、あと少しでヒャッキになれたものをッ……』
それが鴉の断末魔だった。その脳天に、一層太い針を打ち込まれたからだった。
鴉は、破裂した。
その破片が頬にあたり、衣はぞっとしてそこを拭った。指先に着いたものは黒ではなく茶色っぽくて、乾いてカサカサとしていた。
「なにこれ。……木屑?」
「衣! 大丈夫か」
鈴梨が駆け寄ってくる。大事ないよ、と言いかけて、衣は目を見開いた。
「すーちゃん、なにそれ首の痣! しかも腕も怪我してるじゃん!」
「え? ああ、さっきちょっとな」
「ちょっとじゃないよ! 止血しなきゃ」
「必要ない。もう止まってるんだ。それより衣、大丈夫か」
「大丈夫どころか無傷だよ、この子のおかげで。ていうか何、この子。その忍者みたいな人も誰? 鳥山なんで倒れてんの? さっきの鳥っぽい謎の生命体は何だったの?」
衣は各人を指差していきながら、猛烈な勢いで喋った。
それもそうだろうな、と鈴梨は理解しながらも、何から紹介していけばいいのかわからない。第一、このコウトクとサカキが何者なのか、鈴梨自身が未だ知らないのだから。
「口数の多い坊じゃのう」
「坊に坊って言われたくないんだけど」
「たわけ。わしはおぬしの数百年も年上なんじゃぞ」
「あー道理でジジムサイと……てかもうホント、アンタ何なんですか? 正義のお化けっすか?」
意外に気が合うのだろうか。
出会って間もない、しかも人外の生物とよくこれだけ普通に会話ができるものだ。衣は肝が据わっている。鈴梨はひたすら感心した。
「姫」
低いところから呼び掛けられ、振り返るとサカキが自分のそばで跪いていた。
「ひとまずの危難は去りました。しかし、あくまでもひとまずです。早くこの場を抜け、屋敷に戻りましょう」
サカキはその切れ長の目以外がすべて布で覆われており、表情は見えない。しかし見上げてくる瞳は、まっすぐで曇りがない。
きっとこの人は生真面目な性格なのだろうな、と鈴梨は思った。
「屋敷? ああ、わたしの家か。うん、そうだな、帰ろう。でもその前に鳥山さんを保健室に連れていきたい」
「えっ姫? さっきすーちゃんのこと、姫って言った?」
「とりあえず立ち上がってくれ、サカキさん。そんなことされるのは落ち着かないから」
「サカキさん? サカキさんていうんだ、忍者」
「呼び捨ててください、姫。私はあなたの従僕なのですから」
「一体なんの話してんの、アナタ達」
「少し黙って、衣。わたしもわかってないことだらけなんだ。鳥山さんを運ぼう、肩を貸して。詳しい話は家に帰ってからだ」
それもそうだね、と衣は得心して、失神したままの鳥山を起こした。