第十二話
「おはよう」
教室に入れば掛けられた朝の挨拶に、こちらもおはようと返そうとして、しかし口を「お」の形に開いたまま衣は固まった。
隣の鈴梨も、相手に虚を突かれたようだった。けれど。
「おはよう。鳥山さん」
いつもの理性的な表情で、感情の起伏を見せることなく返礼する。すると鳥山はばつが悪そうに目をそらしかけたが、鈴梨の首を覆う肌色の湿布に気がつくとすぐに眉を下げた。
「あの……首、大丈夫……?」
「おはよ。他人事みたいな言い方だね」
横から皮肉れば、鳥山は下唇を噛みしめて衣を睨む。けれど意外なことに、そこに悪意は感じられなかった。
「おはよう。メガネは、今は口を挟まないで。後で必ずアンタとも話をするから」
あれ。なんだよ。けっこう、ちゃんとしたヤツなのか? この女。
悔恨を背負ってうなだれている様子に、衣は少し鳥山への印象を変えた。相変わらずのメガネ呼びは今もって気に入らないが。
「あたし、その、おぼろげにしか覚えてないんだけど。でも、土佐の首を……その……」
「大したことじゃない。いつか治る」
「っ、大したことよ! しかもあたしを保健室まで運んでくれたんでしょ、こんなあたしをさっ」
「気にしなくていい。むしろわたしより、きっと、鳥山さんの方が大したことだったと思う」
怖かっただろう?
そう言うと、鳥山は俯いた。鼻をスン、と鳴らす。
そして顔を上げ、充血した目でしっかりと鈴梨を見据え、再び深く頭を下げた。
「ごめんなさい。今まで、本当にごめんなさい」
「うん」
おー謝ったぞ、よかったよかった、なんかよく知らんけど、とあちこちから安堵の声が飛んだ。教室のど真ん中でのやり取りを、クラスメートらも固唾を飲んで見守っていたようだ。
鈴梨は甘い。鳥山のしてきた行為は、いくら懺悔したとて容易く許せるようなことではない。衣なら、許す前に気が済むまで罵倒する。意味もなく右の頬をぶたれたら、左の頬を腫れ上がるぐらい殴り返す。たぶん。
それでも、鈴梨の甘さを好きな自分がいる。その甘さが強さだと知っている自分がいるのだ。衣は口角を少し上げながら、息を吐いた。
「制服、弁償したい。あたし、破ったでしょ?」
破ったどころか切り裂いたのだが。記憶がおぼろげだというのは誠のようだ。
「お祖父ちゃんが綺麗に繕ってくれたから、問題ないよ。それより鳥山さん、顔にケガをしている」
鳥山の右の頬には、擦りむいたような痕があった。
「あ、うん。かすり傷。てか、実は身体中が痛いんだけどね」
「……打撲したような痛みか?」
「そう」
ああ。アレか。衣にはピンとくるものがあった。鈴梨も、押し黙ったところを見ると同様らしい。
昨日、サカキが鳥山を投げ飛ばしたのだそうだ。躊躇なく。
女の身体はもっといたわってやってくれ、と鈴梨が苦言を呈していたことを思い出す。主を守るためでしたから、とサカキが悪びれていなかったことも思い出す。
さらに言えば、主に負担をかけまいと鳥山を保健室の入り口まで運んだのもサカキだったが、情の一片もない俵担ぎだったことも思い出した。
「アンタを守ろうとした誰かに投げられたってことは、割とはっきりと覚えてるんだ。だから、自業自得なんだよね」
「へー。わかってるんじゃん」
自分の痛みについて、あっけらかんと受け入れる鳥山は潔かった。
だが衣がそれを茶化すように言えば、殊勝な顔が途端にしかめっ面と化した。
「今は口挟むなって言ってんでしょ、メガネ」
「藤原です~。ふじわらぁ~」
「イラッとするわね。大体アンタは土佐の何なの? フン?」
「そこはせめて『金魚の』を付けろよ!」
「うるさい黙れフンじわら」
「よーしわかった。おまえおれのエネミーな。名誉棄損で訴えるからよろしくな」
「すごいな、あなた達。もう仲良くなったのか」
「「どこが!?」」
ずれた感心をする鈴梨に同時にツッコミを入れてしまい、二人の睨み合いは強度を増す。
「鳥山さん、衣とわたしは幼なじみなんだ」
「幼なじみ!? なにそのポジション……」
ズルい、という無声音の呟きを衣は聞き逃さなかった。拗ねたように唇を尖らせるのも見逃さなかった。
待て。待て待て。その反応はどういうことだ。ズルいとはどういう感情から来る発言だ。
もしかして。ひょっとして。まさか、ウソだろ? この女。
「おまえさぁ、す……土佐と仲良くなりたかったの? だから、あんなしょうもないちょっかいを出してたワケ?」
そんなバカな、と半信半疑で尋ねてみれば。
鳥山は火がついたように真っ赤になって、衣の胸ぐらをつかみ、そして――
「だから口挟むなってのに! なんでそんな大事なことをアンタから言われなきゃならないのよ、このウンコメガネェェェ!!」
チキショー。なんて口の悪い女だ。藤原だっつってんだろ。
左の頬に衝撃と赤い手形を喰らって吹っ飛びながら、衣は内心で悪態をついた。しかし、右の頬を殴り返してやろうとまでは思わなかった。確かに今のは自分がデリカシー不足だったと、小指の先ほどでも反省したからだった。
『ありゃ痛かろうのぅ』
『でしょうね』
教室のどこかに潜んでいる人ならざる声が近くで聞こえた。とてものんびりとしていた。
主以外の受難にはとことん寛容なのか。チキショー。衣はちょっと泣いた。
チキショー。