第十一話~甲は乙に対し契約を締結する。~
人と付喪が主従の契りを結んだ日の翌朝。
ひと悶着が起こった。
「どちらかだけでいいよ」
味噌汁の椀から口を離した鈴梨は、いきなりそう言った。
甲斐甲斐しく茶の用意をしていたサカキ、ふよふよと飛びながら新聞を運んできたコウトクは、目を丸くして主に視線を送った。
「脈絡ないよ、すーちゃん」
ちゃっかり同じ食卓についていた衣が、玉子焼きを咀嚼しながら幼なじみの唐突さを注意する。
「ああ、そうか。ええと、ふたり揃って毎日わたしに付いてくることはないよ。という意味なんだ」
「守護につくのは日替わりでいい、ということかね?」
今度は信之助が応える。
「うん。今日は一方が留守番、明日はもう一方が留守番と言う感じで」
「付喪をシフト制にすんの?」
「しふとせい」
衣の疑問をサカキが復唱した。その声音は呆然としていた。
「いやいや姫様、何をおっしゃるのじゃ。儂もサカキも、姫様のおそばを離れることなどできませぬ」
「学校ばかりが危ない場所でも、わたしばかりが危ないわけでもないだろう。お祖父ちゃんの身も守ると、昨日言ってくれたじゃないか」
「大殿がいずこかにお出になられる時には、直ちに大殿のおそばに飛びまする。儂ら、こう見えて疾風のように動けまするからの」
「うむ、家におればワシは安全なんだろう? ワシの行動範囲は家と店を行き来する程度で、出掛けるのもせいぜい近所のスーパーぐらいのもんだ。こっちのことは心配いらんよ」
信之助が慌てたようにコウトクを擁護する。圧倒的に狙われやすいのが孫の方なら、いずれの付喪もそちらに追従してもらいたい。
しかし鈴梨は引き下がらなかった。
「じゃあ、いざとなったらわたしの元へ飛んできてくれれば、それでいい。常に私のそばで見張ってくれなくていいんだよ」
「なんと。そんなわけにはまいりませぬ!」
「どうして? 疾風のように動けるんだろう?」
「ぶぇ……」
間抜けに呻いてコウトクは目を白黒させた。
衣にはわかる。鈴梨は、揚げ足をとっているつもりは毛頭ない。単にコウトクの言葉を事実として捉え、それができるならこれもできるはずだ、と当然の理屈を述べているに過ぎないのだ。
「姫」
ことん、と湯呑みを主の手元に置いたサカキが控えめに呼び掛ける。しかし続いた発言はまったく控えめなものではなかった。
「私たちは姫をお守りするために付喪となったも同然の身です。その場においてどちらかが朽ちたとしても、どちらかが姫をお助けできるのなら、私達の義務は果たされることになります。ですから、どうか共にお連れいただきたいのです」
この阿呆! コウトクは額を押さえた。
ないわー……衣は口の端を歪めた。
そんな言い方ある? 信之助は目をしばたたかせた。
腹立ち、ドン引き、戸惑いが周囲で渦巻いているのを察することもなく、鈴梨は真剣な表情で顎に手をやる。無論サカキも真剣だった。しかし。
「そうか。『義務』と言うのを無理にはねつけるのも大人げないな……うーん」
はっとサカキは息を飲んだ。今さら己の口走りの不味さに気がついたのだ。ビジネスライクという外来語は知らずとも、”これはお仕事ですから”感を前面に押し出してしまったことはじっとりとわかる。
なんとか弁明したいが、口が動いてくれない。その前に頭が回らない。全身深緑の付喪は置物のように凍りついてしまった。
「いや、やっぱり日替わりにしてもらおう」
「ひめっ」
衣には「ひえっ」と聞こえたような気もする、そんな悲痛な叫びをサカキが上げた。
「わたしを守るということは、あなた達にとっては仕事にあたるだろう? 仕事には休日が必要だ。それって、人間も付喪も関係ないと思うから」
そう言って、鈴梨は笑った。珍しく目を細めながら。天使と形容してもいいくらい、純粋な笑顔だった。
その微笑みが無数の眩しい矢となってサカキの身体をどすどす貫きまくる、という幻覚を衣は眼鏡越しに見た。
「あれね、本当に嫌味とか皮肉じゃないからね。マジの思いやりで言ってるから、あの人」
コウトクの耳に手をあて、衣は鈴梨の宣言をこっそりとフォローする。小さな付喪は、心得ていると言わんばかりに大きく頷いた。
「い、い、一日おきの休息は、多すぎると思います」
放心状態に陥りながら、なおもサカキは食い下がる。
「じゃあ三日に一日はどうだ」
「それでも多いです。せめて一週間に一時間程で妥協していただけませんか」
「それは少なすぎる。わたしはブラック企業じゃないんだぞ」
「ぶらっく奉行とはなんですか?」
「黒い雇い主のことだ」
「成程、確かに姫は著しく白い方ですからね」
なんなの、あのひと達。ブギョーじゃないよキギョーだよ。黒い雇い主ってなんだよ、意訳にすらなってない。
え、なんで勤務時間で争議してんの? 主従って雇用”主”と”従”業員って意味だったの? 昨夜の神聖な儀式みたいなのは何だったの? 入社式だったの? もう一回訊くけどなんなの? あのひと達。
「落ち着け、坊。心の声がすべて駄々漏れじゃ」
思考だけで目の前のやり取りにツッコんでいたはずが、どうやら無意識のうちに呟いていたらしい。遠い目をしたコウトクに手の甲で肩を叩かれてしまった。
「あのさぁ。サカキさんって、なんか……」
「言いたいことはわかる。ありゃ金剛石にも引けをとらぬ石頭じゃからの。融通が利かぬのよ」
「すーちゃんも、すっげぇ堅物だからなぁ。堅物と堅物の会話って、横で聞いてる方がアタマ痛くなってくるものなんだね」
ぼやいている間にも、鈴梨とサカキは淡々と揉めている。
そうしてようやく折り合いをつけたのは、四日に半日という頻度だった。
「わたしとしては、もっと自宅待機してもらってかまわないんだけど」
「お言葉を返すようですが、付喪は疲労しませんから、本来は休息など要らないものなのです。付喪の待機は怠惰も同じです」
「いいや、休むと怠けるは違うぞ。サカキ」
「私にとっては同義です」
「そういうの、社畜って言うらしいぞ。サカキ」
「しゃ、斜竹……!? そんな……」
ここに来てサカキは今日一番の落ち込みを見せた。そこはかとない陰を負った背中が、物悲しい。
ブラック企業は知らないのに社畜なる造語は知っているのか。あの付喪がどんな誤変換をしたのか知らない衣は、妙に感心した。
「話はついたかね」
温々した笑顔で孫の雇用契約を見守っていた信之助が、軽快に手を合わせ叩いた。
「さぁさ、鈴梨や、早く食べ終えてしまいなさい。でないと学校に遅刻するよ」
「あっいけない。急ぐ!」
慌てて箸と口を動かし始めた鈴梨を見ながら、そういえばこの幼なじみが誰かとの会話に夢中になるのを初めて見たな、と衣は思った。
ご相伴にあずかった朝ごはんはすでに平らげた後だ。衣は、まだ十分に熱いお茶を啜った。
そしてすぐに湯呑みから唇を離し、そこにたゆたう鶯色の美しさをまじまじと凝視した。もう一度、含む。舌の上で転がし、ゆるりと喉に落とす。よい薫りが鼻腔をそよいで抜けていく。
生真面目な忍者の淹れてくれたお茶は、何気なく飲むにはもったいないほど美味しかった。
体調不良のため、前回の投稿から月日が経ってしまいました。
お読みくださるだけでもありがたいのに、感想をまでいただけて、本当にありがとうございます。励みになります。
ちくちくと執筆してまいりますので、これからもお読みいただければ嬉しいです。