第二十五印~深い森のその中で その4(N)
2019/7/6 やり直し版に差し替え
「ううっ…ごめんなさいっ…まさか爆発するなんて事がっ…」
小屋の外にある石積みのかまどで火を起こし、干し肉と野菜、そして濡れて使い物にならなくなったので改めて拾いなおして来た薪とその時に拾ってきた食用キノコで鍋の様に具沢山なスープが今日の夕食のメインだ。
それをアルンとウェローネは二人でこしらえていたのだが、終始ウェローネの表情は浮かないままであった。
原因は言わずもがな、先程起こった水郷結界の謎の爆発とそれに伴うスコールのように降りかかった大量の水で皆がずぶ濡れになった件である。
確かにインパクトのある事件ではあったが、そこは(見習い含む)冒険者の御一行様だ。
旅の途中で突然天候が崩れて大雨に降られる事もよくあるわけで、ただ濡れるだけでは何て事はない。
それに今夜滞在する中継地点なのでまったく問題はなかったのだが、結界に自信のあったウェローネの心情には重たく感じる事となっていた。
なお、濡れスケラッキーイベントがあったかどうかは定かではない。
「大丈夫だってば。それより…」
木匙でスープの味付けを確認して首を傾げた後、傍らに置いてある容器から胡椒を軽く追加して再び軽く混ぜ始める。
「結界が失敗した原因はわかったのか?」
再びスープの味を確認して満足そうに頷くと、後ろを振り向いてしょんぼりと顔を落としているウェローネを見やる。
彼女はアルンが振り向いたことに気づいて顔をあげるものの、やはり眉を八の字に寄せたまま瞳を潤ませたまま首を左右に振るだけだった。
その様子に彼は苦笑すると木匙にスープを掬って差し出した。
ウェローネは一度それに目を落としてから受け取ると、その小さな口を寄せて『ふーっ…』静かに息を吹きかけてから口にする。
「んっ…旦那様の手作りの味…美味し、ですっ…」
「胡椒辛いのが口に合わないかとも思ったが、そいつは良かった。もう少し煮込んだら完成だ。ぐらぐらに沸騰して芋が煮崩れない程度に火の中心から遠ざけておくのがポイントなんだ」
ウェローネの頭にポンポンと手を置いてから、鍋の位置を調整する。
仕上げに香りつけのハーブを鍋に散らしつつふと傍らに視線を移すと、物干し竿に吊られた自分の皮製のジャケットやターシャの外套やマリアネッドの真っ黒なローブといくつかの洗濯物が新たに張られた水の結界と一緒に風に揺れているのが目に入った。
…ただし、物干し竿代わりに使われているのはアルンが愛用しているスタッフではあるが。
こころなしか埋め込まれている赤い宝石が物悲しい輝きを放っているように見える。
再度結界を張りなおす前にウェローネは泣きそうな顔でマリアネッドと原因の調査を行っていたものの、再現性のある現象は何一つとして起こらなかったのである。
アルンの体質のせいとも考えられたので小さな結界を作って実験してみたが、それが爆発四散することもなかった。
ヘリアラが『自分が結界作成の際に集中を乱してしまったことが原因かもしれない』と落ち込むような場面もあったが、当然ながらそれは関係なかった事を追記しておく。
結局の所、原因がまったくわからない不気味さがあったが逆にあそこまで大爆発が起こるならいい鳴子になるとマリアネッドは笑い、ヘリアラも微笑みながら大きく頷き、ターシャも最初に一言ぐらい嫌味があったもののそれ以降はウェローネを茶化すことも責め立てる事もなかった。
「それはそうと…アイツは大丈夫かね」
アルンは視線をこの短時間にヘリアラが新たに小屋の横に増設した部屋に向ける。
そこにはアルンが連れて来たルィリエンがウェローネの生み出したマナの宿った回復効果の高い精霊水で満たされた治療槽に寝かされているのである。
回復魔法で一気に治療してしまう案も検討されたが、明日の朝まではゆっくりと休ませることにした。
そもそも魔力を使った通常の回復魔法は自分自身の治癒能力に依存するわけで、現在の体力を消耗したルィリエンの状態では大して効果を見込めないという理由もあった。
それに引き換え自身の体力や治癒能力に左右されない精霊の力を使った回復方法は、時間がある状況では優秀なのである。
「あのおん…ターシャ様はすごく嫌そうな顔をしていたようですが、あの方は旦那様達のお知り合いなのですかっ?」
視線の向きに気づいたウェローネも先ほど自分も協力した治療槽に浮かべた人物の事を思い浮かべる。
「ああ、ガキの頃から冒険者アカデミーで縁があってね。何ていうか…俺が原因でもあるんだが、特にターシャとはあまりいい縁があったワケじゃないんだ」
「そうね。悪縁よ悪縁」
控えめな表現をしたアルンと違って、小屋から出てきたターシャは口をへの字に曲げながら不機嫌さを隠そうともせずに椅子代わりになりそうな適当な岩に腰を下ろした。
「まったく!なんであたしがアイツの傷見なきゃならないのさ!!」
傍らに置いてあった椀から木匙を一本取ると、火にかけてある鍋からスープを一掬いして口に運ぶ。
途端に不機嫌に曲がっていた口元がにへらぁと緩んだ。
「ん~!おいしっ!!アルンって胡椒効かすでしょ?この味付け、あたし大好き!」
「おう、あんがと。もう少し煮込みが欲しい所なんだがな」
「ふふっ。久々のアルンの料理、期待しちゃうよねぇ!…はぁ」
上機嫌に木匙を置くと、彼女は溜まっていた鬱憤を晴らすかのように盛大な溜息を吐きだした。
「そりゃ女の子だから配慮しなきゃいけないってのはわかるんだけどさー…だからって、よりにもよってあたしじゃなくても良くない?」
「まぁそう言うなよ。相手が誰であれ、これも経験の内だ」
マリアネッドは自分の弟子であるアルンではなく、ターシャを連れてルィリエンの傷の検分と診察を行っていたのである。
と、いうのもアルンに関しては自分が教え込んでいるのでどの程度の知識や観察眼が頭にあるのかはマリアネッドにはわかるのだが、ターシャに関してわからないからだ。
もののついでだからとターシャの能力の把握もマリアネッドは適当な理由をつけて行っていたわけだ。
ちなみに、アルンは既に『色んな形状になってしまった』人間をマリアネッドやヘリアラに見せられているということで色々と察していただきたい。
師曰く、『冒険者になってヒトの形で死ねるのはマシな方』との事だし、アルンも今ではそう思っている。
「傷の治療に関してはウェローネの力にお任せくださいっ!と言いたいのですが、他はどうなのですかっ?」
簡単な傷の確認だけ終えて、治療槽を完成させてからはウェローネはアルンの夕食の支度を手伝いをしていたので、その後の様子はわかっていない。
普段は相性の悪そうなウェローネとターシャではあるが、流石にこんな時までアルンを取り合って云々するほど空気を読まないわけではないようだ。
「うーん…確かに外傷はあるにはあるんだけど、倒れた原因はやっぱり疲労みたいね」
「毒を使われた痕跡はなかったんだっけか?」
小川の水で洗ったキッシャの実の皮を果物ナイフで剥きながらアルンは質問を投げかける。
「それは勿論。と、いうかアイツには効かないでしょ」
ターシャが肩をすくめて首を横に振る。
どういう事かと小首を傾げるウェローネに切り分けたキッシャの実を一つあげながら、アルンは補足する。
『ありがとうございますっ』と嬉しそうにキッシャの実に小さな口でかぶりつくウェローネの様子は愛らしい。
「あの子は…ルィリエンっていう名前なんだけど、装備しているアクセサリが特殊でね。いわゆる古代遺物で、毒物の類の効果を防ぐ物なんだよな」
「いくらなんでも親馬鹿が過ぎると思うのよねー」
肩を竦めて呆れた表情でターシャは言うが、ルィリエンの実家であるアレイエル家は王都でも有名な騎士の家柄だ。
なにかしらちょっかいをかけてくる者達がいる可能性を考えれば、離れて生活する娘にそれぐらいの贈り物をするのは別に良いのではないのだろうか。
そんな事をアルンは思ったがここで余計な事を言ってターシャの機嫌を損ねる必要もないので、あえて黙っていることにした。
「万が一旦那様が毒に犯されても、ウェローネが癒して差し上げますので安心してくださいねっ!」
「そういう事はない方が良いんだけどな。まぁ、いざという時は頼むよ」
「えへへっ!お任せくださいっ!」
トンと小さな胸を叩いて微笑むウェローネの頭を自然と撫でつつアルンはもう一度小屋の方に目を向けた。
「ちょっとアルン」
その視線の間に下からずいっと見慣れたブロンド髪が生え出てくる。
更に言えば不満そうに頬を膨らませた顔もついてくる。
「あたしも」
「な、何がだ?」
「あたしもっ!頑張ったんだけど!マリアネッド先生に言われて!」
「あー…はいはい。わかったよ」
ずずいっと突き出した頭をわしわしと撫られて『むふー!』とご満悦な表情を浮かべるターシャに対して、ウェローネは冷ややかに睨みつける。
そんなウェローネの頭も苦笑を浮かべつつアルンはもう一度優しく撫でてあげ、二人とも満面の笑みを浮かべていたのだが徐々に困惑した表情に変わりお互いに顔を見合わせていた。
「な、なんだよ、二人とも?」
「いえ、あの、旦那様っ・・・?」
「アルン。もしかして何か良い事でもあった?」
「?別にそんな事はないけれども…」
二人の頭から手を離してなんとなしに自分の手の平を見るが、特に思い当たることもないのでただただ首を傾げるばかりだ。
二人の少女もどちらか片方が常にアルンの傍にいたのだが、何か特別な事があったかのようには思えない。
あったとすれば──
「まさか、アイツを拾った事がそんなに嬉しいとか!?」
「ええっ!?旦那様、もしかしてあの方を…。浮気ですかっ!?」
「んなワケあるか!そもそも浮気も何もないだろ!?」
アルンより身長が遥かに低い二人に纏わりついで騒ぎ出し、思わず大声を上げてしまうと同時に、ガタン!と小屋の入り口が勢いよく蹴り開けられた。
不機嫌そうなマリアネッドが両腕を組んだままジロリと三人を不機嫌そうに睨みつける。
「五月蝿いぞお前達!」
「い、いや、あの、これはですね師匠…」
「飽きもせず頭をお花畑にして騒ぎおって。後ろの二人の事だぞ!」
幼女と幼馴染の二人はアルンの後ろに隠れてすっかり彼は矢面に立たされていたが、マリアネッドの指摘されてびくりと体を震わせた。
「あ、あはは…いやほら、あたしにとって将来にも関わることですしー?」
「いえ、そのー…やっぱり旦那様の女性関係に関しては、妻としてはやっぱり気になるというかっ!」
あいも変わらずの二人の様子に寄った眉間の皺を伸ばすように揉みながら嘆息したマリアネッドはアルンを見上げる。
アルンも疲れた表情を浮かべて肩を竦めて見せた。
「と、とりあえず…師匠!メインのスープは出来たし、夕飯にするならいつでも大丈夫だぞ!」
「…そうか。ならば食事をしつつ、今後の事を決めよう」
「はいよ。じゃあ鍋を運び込…」
「じゃあ、あたしが手伝うわ!」
「ウェローネが手伝いますっ!」
「…!」
「…っ!」
お互い同時に手を挙げて、流れるようににらみ合う二人を見て、二人が強引に鍋を取り合う前にアルンは顔を引き攣らせながら間に割って入った。
「いや、こっちはいいから、二人はパンを荷台から取って来てくれると嬉しい。頼んだよ」
「任せてよ!」
「はいっ!お任せくださいっ!」
走り出しこそしないものの二人はお互いの体を妨害するように押し付けあいながら馬車へと早足へ向かって行く姿を見て、安堵の溜息を漏らす残った師弟コンビ。
「…我が弟子ながら見事なお約束回避だな」
「いやいや、あれは絶対やるだろうよ。流石に今の時間から晩飯を台無しにされるのは作った側としてもキツいぞ」
「まったくだ」
言いながらアルンは鍋に蓋をするとミトンを手に装着して鍋を持ち上げ、それを小屋の中へと運び込み始めた。
ルィリエンが目が覚めたことを考慮して、おおよそ五人半前作った分だけ流石に重い。
改めて、二人に任せなくて良かったなぁとアルンは思うのであった。
◆◆◆◆◆
例によって賑やかな食事タイムが終わった後、ヘリアラが注いでくれた薄めた果実酒(ウェローネだけキッシャの実の果汁を絞った果汁水だが)を口にしながら食後の時間を一行は過ごしていた。
ウェローネの張った水壕結界もあるので気持ち的に余裕が出来たおかげで大分リラックスした雰囲気であった。
特にアルンに関しては大きな欠伸を連発しているのは珍しい。
「随分と眠そうですね、アルンさん」
もう何度目かの欠伸をしているかわからないアルンの様子に、ヘリアラがクスッと小さく笑う。
「うっ…ああ、すみません。何だか凄く眠くてですね。言うほど疲れてないはずなんですが」
目元に浮かんだ涙を拭いながら、木製の杯を傾けて喉を潤す。
果実酒といっても普段よりもずっと薄めている物なのでこの程度で酔うなんて事はまずないのだが、目を瞬かせているアルンの様子は誰が見ても眠そうだ。
ウェローネやターシャも口には出さないが、時折心配そうに目を向けていた。
「昨日もターシャさんと馬車の番をしていただいていますし、今日はゆっくりとお休みしていただいても構いませんよ。片付けも私がやりますし」
そのやり取りを聞きながら杯を片手に魔導書に目を落としていたマリアネッドも顔をあげる。
「ふむ、そうだな。今日は幸いにも強力な結界もある。寝ずの番程度、私が引き受けようではないか。昨夜は私達が村長の家でゆっくりと休ませてもらったからな、気を張ることなくお前はベッドで休むといい」
アルンはその言葉に安心したように柔らかに微笑んで、もう一度大きく伸びをしながら欠伸をした。
「ふぁ…ありがとうございます。師匠とヘリアラさんが折角そう言ってくれるんなら、早めに寝るかな。寝てスッキリしたら見張りも代わるよ」
何故だかわからないがその険の取れたような感じる微笑みに、その場にいたアルン本人とマリアネッド以外の一同が見惚れる事態になったが当の本人は気づかず若干フラつきながら小屋の外へと出て行った。
おそらくは馬車の荷台で今日も寝るつもりなのだろう。
「こっちのベッドを使っても良いと言ったのに、律儀なヤツだ」
弟子の気遣いにククッと小さく笑いながら、再び杯を傾ける。
「それではウェローネもおやすみするのでこの辺でっ…」
「どこに行こうとしてるのかーしら?」
ウェローネが動いてからガッシリと肩をつかむまでのターシャの動きは、いくらか武に通じているヘリアラにも驚きを与えるものであった。
「決まってるじゃないですかっ。旦那様の疲れをいやす為に添い寝をするのですよっ!」
『何を今更』と言わんばかりにターシャを睨みつけて肩を掴む手を払うと再び外へと向かおうとするが、風のような速さで先回りしてその進路を阻もうとするターシャ。
「行かせないよ!お子様はこっちで休めばいいじゃない!あたしがアルンと一緒に昨日みたいに馬車の見張りもやってるから!」
「あらあら、ご心配には及びませんからっ!あなたこそお疲れでしょうから、どうぞベッドで今日はゆっくりとお休みくださいっ!」
先ほど二人してアルンを心配そうに見ていたにも関わらず本人が居なくなった途端これである。
そんな様子を肩肘をついて溜息混じりに呆れた表情でマリアネッドは見ていたが、パンパンと両手を叩いて注目を向けさせる。
「お前らは事有る毎に本当に飽きもせずやっているようだが、良妻賢母として扱われたかったら少しは退く事も覚えたらどうだね?」
「それは、このチビっ子が…」
「それは、この人がっ…」
「あら息ぴったり。案外、お二人気が合うのでは?」
「冗談!!」
「とんでもありませんっ!!」
ヘリアラの苦笑交じりの一言でも二人は余さずに一斉に抗議の声を上げた。
やれやれとマリアネッドは肩を竦めてから、二人に椅子を指差して座ることを指示する。
お互いに睨みを利かせて牽制しながらも渋々と二人とも椅子に腰を下ろした所で、すかさずヘリアラが飲み物を二人の前に用意した。
「いいか、お前達。少しはあいつの気持ちも考えてやった方が良いのではないかね?」
「旦那様の気持ち、ですかっ?」
マリアネッドは薄めた果実酒で唇を湿らせてゆっくりと二人を見やる。
小屋の出入り口にそれとなく佇み、二人が飛び出さないように塞いでいるヘリアラのそうとは思わせない自然の所作も流石である。
「事情があったとは言えあの村から連れ立ち、手元に置いていた私が言うのもおかしな話ではあるがもう何年もあいつは故郷に帰ってはおらんわけだ」
パタンと栞を挟んで魔導書を閉じた際に生まれた風圧がテーブルの上に置かれた燭台の火を揺らした。
「まぁ帰りたいというのであれば一時的な帰郷も認めていたし、こちらの用事に同行させても良かったのだが…な」
だがそれでもアルンは帰郷をしようともしなかったし、故郷の話が出る度に曖昧に笑って何も言わなかった。
「その辺りの事情は私やヘリアラは親御さんから話を聞いたり当時の状態から何となく察しているが…そうだウェローネ、君の方が詳しいかもしれんな」
「それは…」
水を向けられたウェローネは果実水の入った杯に目を落とし、一口飲んでから再び顔を上げて小さく頷く。
「…。マリアネッド様のご想像通り、とだけっ」
静かに目を閉じると、心が傷つき疲れ果てていたあの日の小さな少年の姿が今でも思い浮かんだ。
「それならば、せめて里帰り前日ぐらい一人で落ち着いて考える時間ぐらい与えてやったらどうだ?」
「…そう、ですねっ。また浮かれすぎていましたっ」
ウェローネのそんな様子を隣のターシャは面白くなさそうに見つめた後、テーブルに肩肘をついて杯の中身を一気に呷った。
「なーんかあたしだけ除け者にされてる感じがするんですけど!」
「そういうわけではない。少なくともアルンがサリオリムに来て、アカデミーでも孤独にならなかったのはターシャのおかげでもあるだろう。そういう意味ではアルンの親ではないが君には感謝をしているぞ、ターシャ」
「ふふ…アルンさんが移って来て以来、ターシャさんは何かと一緒にいましたものね」
微笑みながらヘリアラは空になったターシャの杯におかわりを注ぎ込む。
マリアネッドやターシャの言葉に照れくさそうな鼻の頭を掻いてから、注がれた果実酒をまた一気に呷った。
「そりゃあまぁ?親同士が知り合いだし?あたしもムリエに行った事あったし…それに…」
頭に過ぎるのは今のアルンからは想像の出来ない、ベッドの上でぼんやりと窓の外を眺めていた肌の白い病弱な彼の姿だった。
その事を思い出すと小声で『うー…』と唸り始めたが、隣に座っているウェローネが肩に手を置いてきた。
「せめて今夜は旦那様の為にも静かな夜に致しませんかっ?」
優しげな幼女のまなざしを見て、ぐっと言葉を詰まらせると観念したターシャはがっくりとうな垂れた。
ここで何かしら適当に理由をつけてアルンの側に行くのはひどくみっともないような気がしたのだ。
「分かったよ。今夜は大人しくしてる。大体、アルンの様子もなんかこう変だったし…悪い意味ではないんだけどさ」
「これが思い詰めたような表情なら私も気にはする所だったが、あの様子ではそうではないようだ。今夜はゆっくり休ませてやろうではないか。いいな、皆の物」
マリアネッドに一同は頷くと、そこで話は終わりとばかりに空気は弛緩したものへと変わる。
ウェローネは口元を抑えて上品に小さな欠伸を一つした後『それではお先に失礼しますねっ』と簡易の寝台が用意されている部屋へと移動した。
ヘリアラは使用した食器類を片付け始め、ターシャは自身の使うクロスボウを取り出して日頃行っているメンテナンスを始めた。
時折、寝台のある部屋を気にしていたようだが、ウェローネが大人しく寝ていることを確認してからはメンテナンスに集中しているようでとても静かなものとなった。
「さて、私は…」
マリアネッドは外を見やってアルンの様子でも見に行こうかと思ったが、ああ言った手前でもある。
首を横に振ってから杯からパイプに物を替え、それを片手に読みかけの魔導書を再び開くのであった。
治療槽で眠っているルィリエンが目覚める様子もなく、何事もなくとても静かに過ぎて行った…。




