2.崩壊
それは突然だった。
へそくりの3銀を握り締めて出かけたわたしは、首尾良くチコレットのお菓子を手に入れた。『獅子の肉球』の女将はにこにこしながら「あんたの雇い主は幸せ者だねぇ」といいながらわたしを見送ってくれた。残りの金を支払い、改めて女将に礼をいう。
わたしは残ったお金を手に商店街を散策することにした。花かなにかを買おうと思ったのだ。蓄え全部を使う気はないが、金が足りなくて品が手に入らないということは避けたい。もともと『ひまわり亭』で拾われなければ手に入れることの無かった金だ。気に入った品があれば迷うことなく手に入れて、チコレットに添えてプレゼントしたかった。
『獅子の肉球』の女将は、「サービスだよ」と言って油紙を使い、チコレットをきれいにラッピングしてくれていた。可愛らしくふんわりと包んだそれを大切に抱いて、角を曲がった時だった。
うわん、と何かの音が怒涛のように押し寄せてきた。
振り返った私の横を、真っ赤に染まったなにかが飛んでいく。
人だった。
たくさんの人。
逃げ惑う沢山の人。隣の人を押しのけて我先にと走り出す人。
泣き喚き、呆然とし、座り込む人、人、人。
そして、黒い大きなナニカが、蠢いていた。
大きなソレは、大柄な男に齧り付き、小さな子供を丸呑みし、泣き叫ぶ母親を引き千切っていた。
真っ赤に染まった地面にボトボトと何かが零れ落ちていた。
時折、黒いソレが銜えた人の塊を振り回す。その度に、ちぎれた腕や足が、飛んできた。
何が起こっているのか、分からなかった。
しかし、誰かの叫び声を聞いて、やっとなにかが分かった。
「魔獣だ!!」
「獣の群れが襲ってきたぞ!」
「逃げろ、殺されるぞ!!!」
魔獣。
人間とは決して相容れることの無い獣。
町や国を飲み込み滅ぼす黒い災厄。
近年、頻繁に魔獣が森や街道に現れるようになっていた。
国の軍隊が出撃し撃退してはいるものの、成果は芳しくないとの噂も流れていた。街では夜かがり火を炊き、兵が交代で見張りを行い警戒を続けていた。
最近は、ついに海や川にも海獣が出没するようになっていた。 わたしが仕事を失ったのも、魔獣のせいで木材の運搬が出来なくなり、港での仕事が減っていたからだ。
そして今、その魔獣が城門を超えて、この街に襲い掛かっていた。
つい先ほどまで麗らかな春の日差しを浴びていた街は、一変していた。
つい先ほどまでの長閑な午後は消えてしまった。
わたしの前で、多くの人が引き千切られ噛み砕かれて、殺されていた。
逃げなくては。
ガクガクと震える足で、わたしは踵を返した。
まだこちらの通りまで魔獣は来ていない。逃げられる。
振り返ったわたしの目の前で、建物が吹き飛んだ。
2階の窓までもあるような大きな獣が、暴れていた。
「・・・ひっ!?」
へなへなと座り込んだわたしのすぐ上を、尖った木片が飛んでいく。
どしゃりと鈍い音がして、振り返れば知らない誰かが木片に貫かれて死んでいた。
男に走り寄って来た子供が、うねうねと蠢く触手に捕まりどこかへと連れ去られていく。
這うようにしてそこから離れようと周りを見渡すが、すでに四方は魔獣に追われる人達で溢れていた。・・・・逃げる場所がない。
ぎゅっと包みを握り締める。
死ねない。これを持って『ひまわり亭』へ帰るんだ。
親父さんと女将さんに会うんだ。
わたしは帰る。
震える足で、わたしは立ち上がった。
もう一度落ち着いて周りを見渡す。砕けた建物から向こうの通りが見えた。ここからなら向こうに行けそうだった。ガクガク震えながら、パキリと木片を踏みつけて進む。後ろで誰かの絶叫が聞こえたが、わたしは振り返らなかった。
血に濡れた地面は滑って歩きにくかった。裾が血に浸って足に纏わりつく。どこかで火の手が上がっているのか、煙に巻かれて咽こんだ。僅かな距離を、時間を掛けて歩いた。煙を避けるために服で口元を押さえて進むが、やっとのことで辿りついた広場にも魔獣が溢れていた。
誰かがわたしに縋り付いてきた。知らない女だ。振り払おうとしたところで、もつれて倒れ込む。地面に倒れこむと、わたしの上を影が動いた。
魔獣だった。毛むくじゃらの大きな腕が、わたしにしがみついていた女を鷲掴みにして、連れ去った。建物の影から女の悲鳴が聞こえた。多分、殺されたのだろう。見通しの良い広場は危険だ、ここにいればわたしも殺される。しかし、どこの通りからも悲鳴と泣き声、それから獣の咆哮が聞こえてきて、安全な場所は無さそうだった。
戸惑うわたしの足に、なにかがするりと絡みついてきた。
視線を動かすと、ぬめぬめとした触手が足元に蠢いていた。
「っ!? いやあああああっ!!!」
触手を蹴るが離れない。ぐいっと引っ張られて、建物の影に引きずりこまれそうになる。
「いやっっっ!! 誰か、助けて!!!」
助けてくれる訳がない。みんな、逃げ惑っている。わたしも必死に逃げてここまで来た。でも、死にたくない。でも、誰か助けて。だけど、もう悲鳴もろくに聞こえない。みんな、死んでしまったのだろうか。わたしも死ぬのか。足を引っ張る触手の力はどんどん強くなっていく。必死になって柱に捕まるが、容赦なく触手はわたしを引き寄せる。
「――――――――――――っ! いやああああああ!!」
触手の体が大きく口を開けた。鋭い牙が、よだれに塗れてテラテラと光っている。喰われる。もう駄目なのか、もう逃げられないのか。
「いやぁ!! 助けて―――――――――っ!!!!」
触手の牙が、わたしの足に掛かった。もう駄目だ。
チコレットの袋を強く胸に抱きしめる。わたしは目を強く閉じて、来る激痛を覚悟した。
だが、それは来なかった。
ガクガク震えながら目を閉じていたわたしは、しばらくして、足を掴む触手が解かれたことに気が付いた。
「・・・・・・?」
おそるおそる、目を開く。
固く閉じていたせいで、光が眩しい。
目を眇めて触手を見ると、緑色の血を流した大きな塊が転がっていた。くてりと力なく触手が伸びている。・・・・・死んでいる?
どういうことなの。
その時。
触手の横に何かが立っていることに気が付いた。
すらりと伸びた背筋。赤い何か。
なに? ・・・・・いや、違う・・・・・。
だれ?
それは、そこにいるのは、真っ赤な。
鮮やかな赤毛の、男の人だった。