中村友紀と中村由希
クーラーの止まった室内。他の共演者によってどんどん台詞が進んでいる中、ヒロイン、雪見霜役――性別不詳の現役高校生ユウ――は椅子にかけて息を殺していた。心臓がバクバクなって、落ち着かない。
ユウは色んな人に目を向けるが、やはり一番気になるのが主人公役の人。
主人公の七夕涼役の、菖蒲谷太郎。すぐれたルックスを持ちながら、学業優先だからとモデルの仕事は断っている現役高校生。私立の全寮制男子高、楢成学院の生徒。本名は菖蒲谷太郎ではなく、中村由希。いつもユウキ呼んでるし。
ユウが本名非公開の、彼の名前を知っているのには理由があった。
同じ学校、学年、同じ部屋のルームメイト。であるからだ。
入学当時に感じていた、いつ自分の秘密がバレるかドキドキして仕方ない気持ちもとっくに慣れたものだったが、今ここで再び感じることになるとは。
自分が、普段から男役をやっている、性別不詳でない声優だったらどれだけよかったか。
ユウ――本名中村友紀――は、とにかくハラハラしていた。
簡潔に言えば、友紀は女である。……纏めすぎた気がする。友紀は女で、色々事情があって男子高に通ってて、だからこんな、性別不詳でどんな役でもこなす声優だと知られるのは避けたかった。女役やったら、今にも自分が女だとバレてしまう気がしてならなくなる。だというのにヒロイン役。しかもあっちは主人公! もう心臓が爆発しそうである。
周りの共演者が立ち上がり、ボーッとしていたと慌てて立ちあがる。友紀は、なんとなく初日からダメな気がした。
あーもうどうしようどうしようどうしよう! もうどうしようとしか考えられない!
「始め!」
監督の声を聞いて背筋をまっすぐ伸ばして心を切り替えた。僕は声優、僕は声優!
収録前に音声なしで流れた動画。それに合わせて声を充てればいい。いつも通りやればいい。たとえ、隣に由希がいて、気になってチラチラ見てしまって、そしたら目線が合った。友紀は慌てて目をそらして台本を凝視する。
主人公が、ヒロインに初めて会うシーン。
町に引っ越してきたばかりの涼が川を散歩していたら、霜が渡り石を滑って川に落下。
『あ!』
霜はその瞬間を男の子に見られてたのを知って、涼は何をすればいいのかわからなくなって、お互いの顔を見つめ合ってしまう。
『え、えーっと、大丈夫、ですか?』
『え、あ、は、はい、大丈夫です! あ、あはははは! じゃ、じゃあ!』
二人して固まってたために、霜は川に入りっぱなし。涼に声をかけられて意識が戻って、もう何がなんだかで恥ずかしくなって、一目散に走り去っていく。そんな初対面。
監督から注意されないってことは問題ないんだろう。よかったー……。シーンはまだ続いてるけど、もう僕の出番はない。周りの共演者に合わせて台本を捲るだけ。
そうやってその日の収録を終わらせた友紀は、ふぅっと息をはいた。しかしまだ問題はある。由希のことについてだ。
友紀がちらっと由希を見れば、あちらもこちらを見ている。さきほどと同じ展開だと感じつつも慌てて視線を逸らそうとしたが、声をかけられたお陰でそれはできなかった。
「なぁ、挨拶したとき聞けなかったけど……だよな? お前だよな?」
小声で質問される。女だよな、などという質問が来なかったことに友紀は安堵した。
「そうだよ。そういう君は、だろ?」
お互い本名を出さないように質問する。大体、すでに一年以上の付き合いがあるのだ。 そして、中村友紀という中村由希という、読み方によっては同じ名前になることにより親近感を覚え、気が合わないわけでもないから、ルームメイトとしてとても仲良くなっていた。
「にしても、女役すげえな。どうやって出してんだ? むさ苦しい男が出す声だとは思えねえぜ」
茶化すように喋る由希に友紀はホッとする。
普通に男だって思われてる。よしよし。ま、確かに普通はあんな声出ないしね。
「生まれつきだよ。でも、うゅ菖蒲谷もすごいよ。うまいし、顔面偏差値高えし」
本音だった。別に嫌みとかは含めてないつもりだ。モデルやってみないかと誘われるぐらいだし、実際友紀が見ていてもかなりカッコいいと思う。そして由希のことをいつものように呼びそうになって変な呼び方しちゃったよ。危ない危ない。一応収録現場である。人の本名を晒してはいかん。友紀も昔はかわいいと自覚するほどだったが……その前に今の友紀はデブ、である。しかも、性別がわからなくなるぐらいの。まあそれで男子高にいれるのだが。
「いやいや。ていうかお前、最近痩せてきたよな」
「うん。卒業するときまでに普通の体型になるつもりだよ」
元々、友紀は勉強がしたくなくて太ってしまったのだ。食べていれば、親に勉強しろとは言われなかったから。寮生活になってからはそんなこともできなくなったし、何事も男子に合わせているので色々辛い。一年経てば、それが伴ってある程度は痩せていた。
「んじゃ、帰るか」
「そうだね」
「「お疲れさまでしたー!」」
そして同じようにお疲れ様でしたと返される。うん、仕事終わり!
そうやって、始めはドキドキハラハラだった『月極』の最初の収録は、意外となんにも起きずに終わらせることができたのだ。
それと、お互いの秘密を共有することで、友紀と由希はより仲良くなることもできた。まあそれと同時に、自分の秘密がバレやすくなったということにもなるのだが。