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私の婚礼曲を妹の手柄にした婚約者へ。最後の八小節も、妹にお願いします

作者: MIYA
掲載日:2026/10/15

「ラヴィニア様、譜めくり(ふめくり)台はあちらです」


 演奏会(えんそうかい)の四日前、私は自分の婚礼(こんれい)曲を弾(ひ)く妹のために、楽譜(がくふ)をめくる席へ案内された。


 舞台中央のピアノには、すでにリリア・アシュフォードが座っている。彼女(かのじょ)の右には金糸の縁取りをした椅子(いす)が一脚。昨日まで、作曲者(さっきょくしゃ)の私が座る予定だった椅子(いす)だ。今朝届いた座席表では、その椅子(いす)にも「リリア嬢(じょう)」と書かれていた。


「私の席はこちらではありません。演奏者(えんそうしゃ)の脇(わき)に座るのは、いつ決まったのでしょう」


 舞台係は困り顔で書類を裏返した。


「今朝、アシュフォード様から。ご家族で協力して披露(ひろう)なさると」


 近づいてきたセドリックが、係から座席表を取った。


「悪いね。リリアには終わったあと審査員(しんさいん)との挨拶もある。君はあの子の譜面(ふめん)をよく知っているだろう」


「作曲者用(さっきょくしゃよう)の席は?」


「今回は置かないことにした。場所が狭いから」


 私の椅子(いす)が撤去されても、舞台袖(そで)には花台が四つ残っていた。一つを移せば人ひとり座れる。彼は花台にさえ目をやらない。


「婚礼曲(こんれいきょく)は私が書きました。譜(ふ)めくりが必要なら係の方に頼んでください」


「細かいことで揉めないでほしい。もうすぐ同じ家族になるのに」


 リリアは鍵盤(けんばん)の前から振り返らなかった。準備された楽譜(がくふ)をひっくり返すと、私が書いた四十小節の右端に付けた指示を眺める。


「三音目の前で指を替えます。ラヴィニア様、この訂正印(ていせいいん)、少し濃すぎません?」


 私の手で楕円(だえん)に囲んだ冒頭の三音。二音目を半音(はんおん)高く直し、横に小さな訂正印(ていせいいん)を押した箇所(かしょ)だ。浄書職人(じょうしょしょくにん)のジュールは消し跡(あと)も整えると言ったが、私は元の譜面(ふめん)を残した。


「原譜(げんぷ)第四一七号に入れた日付の印です。そのまま弾(ひ)いてください」


「ええ。弾(ひ)くのは私ですもの」


 彼女(かのじょ)の指は確かだった。最初の三音が響くと、石壁のある広間でも音が濁らない。そこには何度も練習した人間の正確さがある。


 私は譜めくり(ふめくり)台へは座らなかった。セドリックが最後に一度、私を見た。指示に従わない子を待つ家庭教師のような顔をしていた。


「今日の試し弾(ひ)きは、ここで失礼します」


「リリアが困るだろう」


「曲についての質問なら、お答えします。譜(ふ)めくりはお引き受けしません」


 舞台を下りると、楽譜(がくふ)の一枚が床に落ちた。係が拾おうとした手を、私は思わず先に伸ばしていた。四十小節目の終わりに、自分の筆跡(ひっせき)で「続く」とある。婚礼(こんれい)の入場に合わせるため、最後の八小節はまだ私の手元にあった。


*


 三日前に届いた印刷見本(いんさつみほん)には、さらに奇妙なことが書かれていた。


『祝婚(しゅくこん)の調べ 作曲(さっきょく)・演奏(えんそう) リリア・アシュフォード』


 演奏(えんそう)者の欄(らん)は正しい。作曲者(さっきょくしゃ)の欄(らん)からは、私の名前だけがなくなっている。


 紙の余白(よはく)には赤鉛筆(えんぴつ)で「作者名、決定」と記されていた。セドリックの字だった。脇(わき)には推薦状(すいせんじょう)用の原稿(げんこう)が添えられている。


『わが妹リリアは若くして独自の作曲(さっきょく)技法を確立し、このたび家の婚礼(こんれい)を祝う新曲を制作した――』


 そこから先は空欄(らん)だった。末尾に「ラヴィニアに清書を頼む」とある。


 私は婚約(こんやく)者の執務室へ二枚の紙を持ち込んだ。彼は招待状(しょうたいじょう)の宛先を点検していた。


「作曲者(さっきょくしゃ)名が違(ちが)います」


「そうだね。最初に僕(ぼく)がリリアに変えるよう頼んだ」


「誤植(ごしょく)ではないのですね」


「協会(きょうかい)の推薦(すいせん)には、自作曲(じさくきょく)を人前で発表した実績(じっせき)が要る。リリアは鍵盤(けんばん)では誰にも負けないのに、作曲(さっきょく)実績(じっせき)が足りない。ちょうどよかったんだ」


「ちょうどよかった?」


「君は結婚(けっこん)してから何曲でも書ける。妹には今しかない」


 セドリックは私の前に紹介文(しょうかいぶん)を置いた。


「君の文章はきれいだ。最後まで仕上げてくれ。身内の言葉だと、推薦(すいせん)する側にも伝わりやすい」


 自分の曲を盗まれたうえ、自分で妹を褒める文章を書けという。私は見本の紙を裏返し、白い面を上にした。


「書きません。印刷物(いんさつぶつ)も直してください」


「何をそんなにこだわる。リリアの名前が出たところで、君の技術が減るわけじゃない」


「八か月前の契約書(けいやくしょ)は、覚えていますね」


「君より覚えているよ。手配したのは僕(ぼく)だから」


 机の下の革(かわ)鞄(かばん)から、私は自分の控えを取り出した。作曲(さっきょく)・演奏(えんそう)利用契約書(けいやくしょ)。作曲者(さっきょくしゃ)欄(らん)にはラヴィニア・エヴァンス、依頼主欄(らん)にはセドリック・アシュフォード。後援費(こうえんひ)の負担者として、彼の母も署名(しょめい)している。


 私が指さしたのは、曲の使用条件(しようじょうけん)だった。最初の四十小節の作者(さくしゃ)名は本人(ほんにん)の許可なく変えられない。最後の八小節の納入(のうにゅう)期限については、依頼主が正しい作者(さくしゃ)表示を守る場合に限り、遅延の違約金(いやくきん)を課す。依頼主が表示を偽れば、納品(のうひん)の義務を停止でき、修正(しゅうせい)の費用も依頼主が持つ。


「だから僕(ぼく)は、君にお願いしているんだ。承認(しょうにん)さえしてくれれば何も問題はない」


「断ったら?」


「困るのは君だよ。婚礼(こんれい)まで四日だ」


 彼は私の手の下から契約書(けいやくしょ)を抜き取ろうとした。私は紙を押さえた。


「控えは私のものです」


「そんなに疑わないでくれ。僕(ぼく)たちの結婚(けっこん)のために、少しくらい譲(ゆず)り合おうと言っているだけだ」


 椅子(いす)を外されても、私は彼に相談できると思っていた。印刷見本(いんさつみほん)が届いたときも、彼なら直してくれると思った。自分の名前を消す紹介文(しょうかいぶん)まで差し出されて、彼に何を期待できるというのだろう。


「この文章は、ご自分で書いてください」


 紹介文(しょうかいぶん)を彼の側へ戻すと、セドリックは私の控えを見て顔をしかめた。


「君は昔から、肝心な時に仕事の話を持ち出す」


 作曲(さっきょく)の話をしたいと言いだしたのは、いつも彼のほうだった。


*


 二日前、セドリックは完成した最後の八小節を求めて私の家を訪れた。


 封筒(ふうとう)は机の引き出しにある。婚礼(こんれい)で並んで歩く二人の歩幅を数え、私自身が書いた結末(けつまつ)だ。私は封筒(ふうとう)を机に出さなかった。


「今夜までにリリアへ渡してくれないか」


「作者(さくしゃ)名は直しますか」


「またそれか。譜めくりの件も謝らなかったね」


「引き受けると決めた覚えがありません」


「君のせいで一日の練習が無駄になった。演奏会(えんそうかい)を遅らせることもできないし、印刷(いんさつ)も進めた。そこを踏まえてほしい」


 謝るのはこちらだと決めている声だった。彼は書類を一枚、私の手元へ滑らせた。


「納品(のうひん)が遅れたら銀貨(ぎんか)十二枚。冬に借りたがっていた仕事部屋の家賃の、半年分ほどだよね」


 私が貯めた銀貨(ぎんか)の額まで知っている。二人で探した部屋だからだ。


「契約(けいやく)の条件を読みました。正しい作者名で使用する場合に限ると」


「条文(じょうぶん)を振り回して、家族を法廷に引っ張るつもりかい? 君がそんな人間だと知れたら、次の仕事に差し障る」


「私に、何をしてほしいのですか」


「妹の成功を喜んでほしい。それだけだ」


 紹介文(しょうかいぶん)は書け、椅子(いす)は譲(ゆず)れ、曲は渡せ。まだ一度も、彼は私の名前を戻すとは言っていない。


 私は未完成の八小節を入れた封筒(ふうとう)の上へ、白い紙を一枚重ねた。外からは中身が見えない。


「最後の八小節も、妹さんにお願いします」


 セドリックの表情が初めて止まった。


「どういう意味だ」


「リリア嬢(じょう)を作曲者(さっきょくしゃ)として紹介(しょうかい)するのでしょう。終わりも、ご自分で書いていただいてください」


「彼女(かのじょ)は演奏(えんそう)家だ。作曲家(さっきょくか)じゃない」


「紹介文(しょうかいぶん)には、独自の作曲(さっきょく)技法を確立したとありました」


「言葉尻を取るな」


 セドリックは立ち上がり、片手を机へ置いた。


「君が八小節を出さないなら、母上にも相談しよう。婚約(こんやく)だって予定どおりにはいかなくなる」


「相談なさってください。ただ、婚約(こんやく)を続けるかどうかは私にも決められます」


 彼の親指が爪の縁をこすった。段取りが崩れたときの癖だ。


「そこまで僕(ぼく)に恥をかかせたいのか」


 私が差し出したのは、訂正(ていせい)してほしいという一つの頼みだった。今や彼は、私が彼を辱めるかどうかを問うている。


「帰ってください、セドリック」


 敬称がなくなったことに、彼は気づいた。戸口で振り返り、今夜中に考え直すよう言い残していった。


 机の上には銀貨(ぎんか)十二枚の請求書(せいきゅうしょ)が残る。私の八小節は、まだ引き出しの中だ。請求書(せいきゅうしょ)の発行日は明日になっていた。


*


 その翌朝(よくあさ)、アシュフォード夫人(ふじん)から使いが来た。


 呼び出された客間で、夫人(ふじん)は立ったまま私を迎えた。壁には、私とセドリックの婚約(こんやく)を祝った日の肖像(しょうぞう)が飾られている。額縁の中の私は、いまよりずっと嬉しそうに見えた。


「リリアに対して、ずいぶん酷いことを言ったそうですね」


「どのことでしょう」


「妹の才能が妬(ねた)ましいから、あの子が作った曲を自分のものだと言い出したと」


 セドリックが何を話したか分かった。違約金(いやくきん)で脅しても曲を渡さないと知り、今度は私が嘘をついていることにしたのだ。


「夫人(ふじん)も、八か月前の契約書(けいやくしょ)に署名(しょめい)なさいました」


「あれはあなたが楽曲を用意するという支出(ししゅつ)の記録です。才能の証明(しょうめい)書ではありません」


「作曲者(さっきょくしゃ)欄(らん)をご覧になりましたか」


「あなた、年長者を試すおつもり?」


 夫人(ふじん)は封筒(ふうとう)を開き、協会(きょうかい)の名が印刷(いんさつ)された便箋(びんせん)を見せた。


「後援協会(こうえんきょうかい)へは、私の印で申し入れました。嫉妬(しっと)から虚偽(きょぎ)の著作者(さくしゃ)表示を求める者に、推薦(すいせん)審査(しんさ)を妨げさせないようにと。リリアは若いのですから」


 封筒(ふうとう)には、すでに封蝋(ふうろう)を割った跡(あと)があった。協会(きょうかい)へ届けた写しなのだろう。


「私の反論は聞いていただけますか」


「あなたが冷静になったらね。披露(ひろう)が済むまで席を外して。お客の前で音楽家として話すのも控えなさい」


「私の婚礼(こんれい)披露(ひろう)の場から、ですか」


「あなたのためでもあるのよ。今ならまだ、セドリックに頼んで何事もなかったようにできます」


 机には協会(きょうかい)の審査(しんさ)案内もあった。異議があれば演奏会(えんそうかい)前日の正午までに書面(しょめん)を受け付け、作者(さくしゃ)名と作曲家(さっきょくか)推薦(すいせん)の認定は当日、関係者のいる審査(しんさ)席で決める。婚約(こんやく)者の紹介(しょうかい)を鵜呑(うの)みにせず、原資料を照合(しょうごう)すると記されている。


 私はその紙を読み終え、封筒(ふうとう)を元の位置に戻した。


「席を外してほしいというご指示には従えません」


「なら、あなたがこの家に嫁ぐのは難しいでしょうね」


「承知しました」


 帰り際、私は手帳に提出期限を書き写した。前日の正午。まだ間に合う。


*


 写譜工房(しゃふこうぼう)の戸を開けたとき、ジュールは大きな帳簿の背に布を貼(は)り直していた。表の看板(かんばん)は金文字が剥げ、下から古い緑色がのぞいている。二年前、初めて来たときと同じだ。


「エヴァンス様。今日は納品(のうひん)の日ではありませんが」


「原譜(げんぷ)第四一七号を確認したいのです。契約書(けいやくしょ)の控えも」


 私が差し出した審査(しんさ)案内を読んで、ジュールは糊(のり)の付いた手を布で拭いた。


「アシュフォード様のお使いなら、昨日も来ました。作者(さくしゃ)の記録を変えてほしい、と」


「変えたんですか」


「変えていません。父が受けた仕事でも、僕(ぼく)が扱う台帳(だいちょう)でも、受け取った日に誰が書いたかは変えられないので」


「そのために注文を失うかもしれないのに?」


「もう失いました。来月予定されていた礼拝堂(れいはいどう)の写譜が取り消しになりました」


 ジュールは、窓辺の空いた棚(たな)を示した。いつもなら教会用の大きな紙が積まれる場所だ。


「父には怒られましたか」


「最初は。けれど、台帳(だいちょう)を直さなかったのなら、仕方がないとも」


 父と息子がその晩どんな話をしたのか、私は知らない。ジュールは帳簿を棚(たな)から下ろし、台の上で静かに開いた。


 原譜(げんぷ)第四一七号。八か月前の日付。依頼主セドリック・アシュフォード、作曲者(さっきょくしゃ)ラヴィニア・エヴァンス。原譜(げんぷ)は四十小節、封緘(ふうかん)の下には私の署名(しょめい)がある。横には双方の署名(しょめい)を照合(しょうごう)できる契約書(けいやくしょ)の控え。


「こちらが当時の原譜(げんぷ)です」


 最初の三音に、小さな楕円(だえん)が描かれていた。二番目の音を半音(はんおん)高く直した跡(あと)と、その脇(わき)の日付入りの訂正印(ていせいいん)。私は裏に添えた指示書も出してもらった。


「ここを直したのは、左手の低い音との響きがぶつかってしまったからでしたね」


「はい。僕(ぼく)が消して清書しましょうと申し上げたのを、断られました」


「直した前後を残しておきたかったんです。いつか続きを書くときに、迷わないように」


「覚えています」


 ジュールが紙の角をそろえる。私の書いた二音目は、あの頃から少し右へ傾いていた。何度も直した音ほど、妙な癖が残る。


「協会(きょうかい)へ出せるのは、どこまででしょう」


「台帳(だいちょう)の認証写しと契約書(けいやくしょ)の控えです。原譜(げんぷ)本体は工房(こうぼう)から持ち出さず、審査(しんさ)席で封(ふう)を開けます。先方には、開示申請書(かいじしんせいしょ)にご本人(ほんにん)の署名(しょめい)をいただく決まりです」


 彼は申請書(しんせいしょ)を置いた。作者(さくしゃ)名欄(らん)を空白にしたまま、筆記具だけを私へ渡す。


 契約書(けいやくしょ)の下段には、演奏会(えんそうかい)で作者(さくしゃ)名を正しく表示する義務と、虚偽(きょぎ)表示があったときの扱いが書かれていた。私はその条項(じょうこう)を、自分で読んで署名(しょめい)した。銀貨(ぎんか)十二枚は、依頼主が義務を守っているのに私が納品(のうひん)を遅らせた場合だけ。曲を他人の作として出す依頼主にまで、違約金(いやくきん)を請求する権利はない。


「セドリックは、ここまで読んでいます」


「僕(ぼく)も契約(けいやく)に立ち会いました。あの方は、ご自身で条項(じょうこう)を読み上げておられました」


「それでも請求書(せいきゅうしょ)を出しました」


 私は鞄(かばん)から、明日の日付で書かれた十二枚の請求書(せいきゅうしょ)を出した。ジュールは目を走らせ、紙を戻す。


「どちらの署名(しょめい)もない請求書(せいきゅうしょ)です。このままでは、少なくとも僕(ぼく)らは受領(じゅりょう)を証明(しょうめい)できません」


「協会(きょうかい)でこれを出したら、彼は何と言うでしょう」


「わかりません」


 ジュールはそう答えた。昔から、彼は私を安心させるための約束をしない。


「開示(かいじ)すれば、あなたの工房(こうぼう)まで争いに巻き込みますね」


「僕(ぼく)が預かった記録について答えるのは、工房(こうぼう)の仕事です。ただ、あなたに異議を申し立てる義務はありません」


 いつもなら、迷った末にセドリックへ確認していた。彼がよいと言えば安心し、そうでなければ書きかけた音符(おんぷ)を消した。


 私は空白の欄(らん)へラヴィニア・エヴァンスと書いた。最後の字の下にインクが一粒たまる。ジュールが吸(す)い取り紙を差し出した。署名(しょめい)に置くのは私が受け取るまで待っていた。


「異議申立ては、私が出します」


「承りました。提出時刻は僕(ぼく)も記録します」


 工房(こうぼう)を出ると、鐘が十一時を打った。協会(きょうかい)が受け付ける正午まで、まだ一時間ある。私は申請書(しんせいしょ)と契約書(けいやくしょ)の写しを持って、東通りを歩いた。


 受付(うけつけ)の職員は封(ふう)を確かめ、原譜(げんぷ)の照合(しょうごう)が当日の審査(しんさ)席で行われると告げた。私の申し立てだけで作者(さくしゃ)名はまだ訂正(ていせい)されない。相手にも発言の機会を与えるからだ。


「当日はご本人(ほんにん)がいらしてください。欠席の場合、記録を採用できないことがあります」


「出席します」


 職員は受付(うけつけ)番号を書き、私の控えに押印した。押された印は、夫人(ふじん)が差し出した便箋(びんせん)のものと同じ協会(きょうかい)の紋章(もんしょう)だった。


*


 会場を出ると、調律師(ちょうりつし)の使う工具箱が舞台袖(そで)に並べられていた。リリアの練習が始まる時刻だ。


「ラヴィニア様」


 彼女(かのじょ)はピアノの前から、完成した八小節の楽譜(がくふ)を持ってきた。最後の和音(わおん)が力強く書かれている。ここだけ私のものではない。


「お兄様は、最後を作れないなら私に頼めとおっしゃったでしょう。それで書きました。一晩で」


「聴かせてください」


 リリアは椅子(いす)へ戻り、最初の四十小節から弾(ひ)いた。速く進むところの手首が柔らかい。私が三日悩んだ運指を、彼女(かのじょ)は一度聞いて覚えていた。そこから、自作の八小節へなだれ込む。拍手(はくしゅ)を誘うような、華やかな終わり方だった。


「どうですか」


「二番目の和音(わおん)がきれいです。三音の形を反対から使っていますね」


「気づいてくださったんですね」


 彼女(かのじょ)が一瞬、嬉しそうな顔をしたので、昔の癖で続きを褒めそうになった。


「これを書けるのに、なぜ最初の四十小節まであなたの名前にしたんですか」


 鍵盤(けんばん)から指が離れた。


「推薦(すいせん)には一曲が要るんです。八小節だけでは実績(じっせき)にならない。お兄様は、ラヴィニア様が家に入るなら、家の曲は私の曲として出せるって」


「あなたも、それが私の曲だと知っていたのね」


「もちろん知っています。練習も一緒(いっしょ)にしましたから」


「それでも自分の名前を入れた」


「はい。来年は推薦(すいせん)の年齢を越えるんです。私には今年しかない」


 ためらいのない返事だった。リリアは、兄から勝手に名前を使われた被害者ではなかった。


「あなたが努力したことは知っています。指の豆も、夜遅くまで練習していたことも」


「なら、わかってくださるでしょう」


「わかります。だから、あなたが書いた八小節は、あなたの名で出してください」


「それでは推薦(すいせん)に間に合いません」


「そのために、私の四十小節を差し上げるつもりはありません」


 彼女(かのじょ)は譜面(ふめん)を閉じた。角が少し折れる。


「お兄様の言うとおり。ラヴィニア様は私が妬(ねた)ましいのね」


 私はリリアがピアノを弾(ひ)くのを好きだった。演奏(えんそう)する人が曲に思いがけない息を入れる、その瞬間を見るのが好きだった。だからこそ、今は彼女(かのじょ)の顔を見たまま答えられた。


「あなたの演奏(えんそう)の腕(うで)が欲しかったことは、あります」


「ほら」


「けれど、私の署名(しょめい)まで欲しいと言ったのはあなたです」


 リリアは押し黙り、それから開いた楽譜(がくふ)の最後の頁を強く押さえた。


「明日は弾(ひ)きます。あなたが何を言っても」


「どうぞ。あなたの八小節は、確かに立派ですから」


 私は楽譜(がくふ)に手を伸ばさなかった。彼女(かのじょ)が自分で書いたものまで取り上げる理由はない。


 楽器から離れるとき、舞台係が作曲者(さっきょくしゃ)用の椅子(いす)を二脚運んでいるのを見た。明日の審査(しんさ)には、双方の申し立て人が座るらしい。私の椅子(いす)も、ようやく用意されていた。


*


 演奏会(えんそうかい)当日。客が入る前の広間で、協会(きょうかい)の審査員(しんさいん)が机の中央に空の書類台(しょるいだい)を置いた。


「作者(さくしゃ)表示の異議が届いております。推薦資格(すいせんしかく)と演奏(えんそう)許諾について、開演前に双方を確認いたします。今日ここで決定できない場合、該当演目(えんもく)は延期となります」


 四日前に見た案内と同じ文言だった。セドリックは母親を従え、印刷(いんさつ)済みの冊子(さっし)を何冊も抱えて現れた。リリアは演奏(えんそう)服を着て、楽譜(がくふ)を胸に抱えている。


 来場客のうち協会(きょうかい)の後援者(こうえんしゃ)と推薦委員(すいせんいいん)が前列に座り、後方には披露(ひろう)の招待客が続いた。今日の発表は、紹介(しょうかい)された人の名誉にも関わる。審査員(しんさいん)は全員に聞こえる声で議事を始めた。


「申立人、ラヴィニア・エヴァンス様」


「はい」


 私は立った。向かい側のセドリックは、私の名前が呼ばれたとたん微笑んだ。話せばいつでも従わせられると思っている人の顔だった。


「その女性の申立ては信用できません」


 彼は審査員(しんさいん)より先に口を開いた。


「妹の才能を妬(ねた)んでいるんです。婚約(こんやく)者として僕(ぼく)は長年支えましたが、これでは婚礼(こんれい)も危(あや)うい。母も事情を知っています」


 夫人(ふじん)は息子の横で頷(うなず)いた。


「私からも協会(きょうかい)へ書面(しょめん)で申し入れました。あの子を守るために、虚偽(きょぎ)の申立てを止めていただきたいのです」


 前列の一人が冊子(さっし)を閉じた。審査員(しんさいん)は夫人(ふじん)の手紙を手元へ置く。


「申立人には提出済みの原譜(げんぷ)、契約書(けいやくしょ)を確認する権利があります。アシュフォード様、順番にお答えいただきます」


「契約(けいやく)なら知っています。君が最後の八小節を納めなかったことも、皆さんへ話しておくべきですね」


 セドリックは私のほうを向き、笑みを消した。


「銀貨十二枚を払(はら)えば済むことだ。こんな騒ぎにせず、僕(ぼく)の母に謝りなさい」


 客席の前列から、紙の擦れる音がした。


「審査員殿(しんさいんどの)」


 私は契約書(けいやくしょ)の控えを両手で持ち上げた。


「私にも、質問をする順番をください」


「もちろんです。証言と資料の照合(しょうごう)を行います」


 セドリックが椅子(いす)へ腰を下ろした。今日も、私が先に折れるものだと思っているのだろう。私は彼の顔から目を離さなかった。


*


 審査員(しんさいん)の合図を待ち、私は書類台(しょるいだい)へ進んだ。


「曲の最初の四十小節を、リリア嬢(じょう)が作曲(さっきょく)したと主張なさるのですね」


 セドリックは足を組み直した。


「そうだ。今日の印刷(いんさつ)物にもそう記した。母上も後援(こうえん)している」


「では、この契約書(けいやくしょ)の作曲者(さっきょくしゃ)欄(らん)を読んでください」


 審査員(しんさいん)が書類を開き、セドリック側にも同じものが見えるよう台を回した。母の署名(しょめい)は青いインク。セドリックの署名(しょめい)は下の行で、最後の文字だけ跳ね上がる癖がある。


「ラヴィニア・エヴァンス、とありますな」


 審査員(しんさいん)が読んだ。


「その署名(しょめい)は、誰の依頼で書かれたのでしょう」


「僕(ぼく)の依頼だよ。だが、それは制作費を払(はら)った人間を示す書面(しょめん)でもある。家の費用で作った曲なら、家の者の功績として扱うことに何の問題がある?」


 私は審査員(しんさいん)を見た。審査員(しんさいん)は何も言わず、次を促した。


「費用を払(はら)った方の名前は、ここに別の欄(らん)があります。依頼主、セドリック・アシュフォード。後援者(こうえんしゃ)、アシュフォード夫人(ふじん)。作曲者(さっきょくしゃ)とは別です」


 前列の推薦委員(すいせんいいん)が、手元の印刷(いんさつ)冊子(さっし)を開いた。冊子(さっし)にはリリアの名前が二つ続いている。


「工房(こうぼう)の登録日もお確かめください。原譜(げんぷ)第四一七号。八か月前、四十小節の譜面(ふめん)を預けました」


 ジュールが封緘(ふうかん)した箱を審査員(しんさいん)へ渡した。紐(ひも)には工房(こうぼう)の印と日付があり、その上へ協会(きょうかい)の受付(うけつけ)印が重ねられている。誰も触れていない封(ふう)を審査員(しんさいん)が切り、原譜(げんぷ)を開いた。


 あの三音が紙の中央にある。二番目を直した細い楕円(だえん)。私の小さな訂正印(ていせいいん)。


「この訂正(ていせい)をした理由は?」


「左手の低音と、最初の音がぶつかったからです。元の音なら二つ目で濁る。半音(はんおん)上げると、三音目が自然に続きます。裏に当時の指示書もあります」


 審査員(しんさいん)が裏紙を開き、指示書の字と印を確かめる。


「フェランさん。あなたが後からこの原譜(げんぷ)に手を入れた可能性は?」


「浄書(じょうしょ)はしました。ただし原譜(げんぷ)の筆跡(ひっせき)と訂正(ていせい)は受領(じゅりょう)時のままです。受領日(じゅりょうび)と変更内容は台帳(だいちょう)に残しています」


 ジュールはそこで口を閉じた。私の代わりに誰かを非難することも、私の思いを説明することもしなかった。


「ですが、リリア嬢(じょう)はこの三音を弾(ひ)けますし、八小節を作曲(さっきょく)しました」


 私は自分から付け加えた。


 セドリックが勝ち誇ったように身を乗り出した。


「そうだろう。彼女(かのじょ)にも才能はある。ラヴィニア自身が認めたじゃないか」


「認めています。リリア嬢(じょう)の八小節は、リリア嬢(じょう)のものです。四十小節を私が書いたという記録は、そのことで消えません」


 リリアは楽譜(がくふ)を抱き直した。指に残る練習の豆が、白い紙の角を押さえている。


「リリア嬢(じょう)、あなたは最初の四十小節を誰が書いたか、知っていましたね」


「……はい」


 彼女(かのじょ)は短く答えた。セドリックが横から口を出そうとしたが、審査員(しんさいん)が手を上げて止めた。


「そのうえで、自分の名前を作曲者(さっきょくしゃ)として印刷(いんさつ)することに同意(どうい)しましたか」


「同意(どうい)しました。推薦(すいせん)に、曲が必要だったんです」


「八小節だけでは足りなかった?」


「はい」


 リリアの返事が響いたあと、舞台のほうから鍵盤(けんばん)を試す一音が鳴った。調律師(ちょうりつし)はすぐに蓋(ふた)を閉じた。


 セドリックが椅子(いす)を引いた。


「妹を責めるな。僕(ぼく)が認めたんだ。ラヴィニアが四十小節を書いたのは知っている。それがどうした。結婚(けっこん)すれば家族だ。家のために名前を譲(ゆず)るのが、そんなに悪いのか!」


 審査員(しんさいん)は顔を上げた。夫人(ふじん)の手が肘掛(ひじかけ)けを探し、何もないところで一度止まる。


「いま、ラヴィニア様が四十小節を作曲(さっきょく)したと知っていた、とおっしゃいましたね」


「家族の内輪の話だ。協会(きょうかい)がそこまで口を出すことじゃない」


「しかし、協会(きょうかい)へは『彼女(かのじょ)が他人の曲を自作と偽っている』と申し立てておられる」


「それは――」


「作曲者(さっきょくしゃ)を知っていて、反対の内容を通知したのですか」


 セドリックは私を見る。昔、困ったことがあると私へ原稿(げんこう)を渡してきた目だった。私は視線を受け止めたまま、何も補わなかった。


「母上も、これが家にとって一番よいと」


 夫人(ふじん)は顔を上げた。机の書類に、自分の青い署名(しょめい)がある。


「私は……息子から、ラヴィニアさんが後になって作曲(さっきょく)を名乗ったと聞きました。あの契約書(けいやくしょ)の署名(しょめい)は私のものです」


「その時点で作曲者(さっきょくしゃ)名はご確認済みだったのですね」


「名前は見ました。ですが、あの子が間違(ちが)った話をするとは思いませんでした」


 夫人(ふじん)は息子のほうを見る。セドリックは一度だけ頷(うなず)いてみせたが、母は応じなかった。


 審査員(しんさいん)は工房(こうぼう)の証明(しょうめい)と三人の署名(しょめい)を照合(しょうごう)し、議事の記録へ裁定を書き込む。


「原曲(げんきょく)四十小節の作曲者(さっきょくしゃ)はラヴィニア・エヴァンス様。終止(しゅうし)八小節の補作(ほさく)はリリア・アシュフォード様。印刷(いんさつ)物の単独作曲(さっきょく)表示を取り消し、正しい表示への変更を命じます。虚偽(きょぎ)の単独作曲(さっきょく)実績(じっせき)によるリリア様の推薦申請(すいせんしんせい)は受理(じゅり)できません。演奏(えんそう)者としての評価とは別に扱います」


 前列で椅子(いす)が動いた。リリアへ推薦状(すいせんじょう)を渡す予定だった委員が、書類を閉じて付き添いに何か告げる。リリアは楽譜(がくふ)を膝(ひざ)に置いたまま、動かなかった。


 審査員(しんさいん)が契約書(けいやくしょ)をもう一枚めくる。


「作曲(さっきょく)・利用の条件も確認しましょう。虚偽(きょぎ)の作者(さくしゃ)表示をした場合、依頼主は使用条件(しようじょうけん)に違反したものとする。未納分についての遅延違約金(いやくきん)は、正しい表示を守る依頼主に限って請求できる。印刷(いんさつ)物の訂正(ていせい)費は依頼主負担。三者の署名(しょめい)があります」


 セドリックの親指が、爪の端をこすり始めた。


「文言はそうだ。しかし、式は迫っていた。便宜的にリリアの名を借りただけで――」


「借りたとおっしゃるのですね」


 審査員(しんさいん)の声は変わらなかった。セドリックは返事をしない。


「あなたは、私が銀貨(ぎんか)十二枚を払(はら)うと言いました」


 私は持参した請求書(せいきゅうしょ)を机へ置いた。明日の日付の紙だ。後援者(こうえんしゃ)の席から一人が身を乗り出す。


「正しい作者(さくしゃ)名を戻してもらえれば、私は婚礼(こんれい)用の八小節をお渡しするつもりでした。あなたは戻さず、代わりに私へ、この請求書(せいきゅうしょ)を出した」


「君のほうが納品(のうひん)を拒んだだろう」


「契約書(けいやくしょ)には、拒める条件も書いてあります」


 私は紙を持ち上げ、セドリック自身の署名(しょめい)の下へ重ねた。


「銀貨(ぎんか)十二枚は払(はら)いません。訂正費用(ていせいひよう)も、私には請求しないでください」


 セドリックは立ち上がったまま、次の言葉を探した。私へ向けられていた冊子(さっし)の表紙が、彼の手の中で折れた。


「ラヴィニア。君は、僕(ぼく)との結婚(けっこん)をどうするつもりなんだ」


 セドリックがようやく言った。


 私は彼を見たまま、左手の指輪を外した。約束の日、彼が私の手に通してくれたものだ。机の上へ置くと、輪の内側に刻まれた日付が上を向いた。


「婚約(こんやく)を解消します。これからの連絡は、両家の代理人を通してください」


「一曲のために、そこまでするのか」


「あなたは、私の名前を知っていましたね」


 彼は答えなかった。


 夫人(ふじん)が指輪に触れようとして、息子の手を見た。セドリックは伸ばされた手を取らず、机上の契約書(けいやくしょ)を押し返そうとした。審査員(しんさいん)はそれを自分の側へ引き取り、記録の上に置いた。


 演奏(えんそう)許諾の欄(らん)に、私の名前を書き入れる。正しい作者(さくしゃ)表示で上演することを、ここで私自身が認める。リリアの八小節を消すつもりもなかった。


 印刷(いんさつ)済みの冊子(さっし)へ訂正(ていせい)紙が配られ、係の人が会場正面の表記を替えた。セドリックは客席前方に空けられた家族席へ戻らず、夫人(ふじん)とともに側扉(そくひ)から出ていった。


 演奏(えんそう)が始まった。


 冒頭の三音が響く。半音(はんおん)上げた二番目の音のあと、広間の石壁が低い響きを返す。リリアは一度もつまずかなかった。三十七小節目では息を吸(す)うように少し速くなり、彼女(かのじょ)の八小節へ滑り込む。最後の和音(わおん)を置くと、客席から拍手(はくしゅ)が起きた。


 私も拍手(はくしゅ)した。彼女(かのじょ)の演奏(えんそう)は、よい演奏(えんそう)だった。


 舞台を下りたリリアは、私の前で一度立ち止まった。


「自分で最初から書けばよかったのね」


「そう思います」


「私は、謝ったことにはしません。推薦(すいせん)を失ったのは、あなたのせいだと思う日もあるでしょうから」


「それでも、四十小節は返していただきます」


 リリアは首を縦に動かした。握手はしなかった。


*


 三週間後、写譜工房(しゃふこうぼう)の机に新しい五線紙を広げた。


 婚礼(こんれい)用に書いた八小節は、まだ家の引き出しにしまってある。会場の予約を取り消す書類は山ほど残ったが、銀貨(ぎんか)十二枚を納める袋だけは、開かずに済んだ。冬に借りようと思っていた作曲(さっきょく)部屋は、今日ようやく契約(けいやく)が整った。


「新しいご依頼ですか」


 ジュールは私の譜面(ふめん)を受け取り、作者(さくしゃ)欄(らん)を確認した。


『帰り道』


 作曲(さっきょく) ラヴィニア・エヴァンス。


「前の曲から、題が変わりましたね」


「婚礼(こんれい)で歩くための曲ではなくなったので」


 最初の三音は残した。ただし三音のあとに休符(きゅうふ)を入れた。急いで誰かに歩幅を合わせる必要はない。最後の八小節は書き直してある。途中で一度、音を上へ向けてから、低い音に戻した。


 ジュールが譜面(ふめん)の端に手を置いた。


「この三音の横の楕円(だえん)、残されたんですね」


「ええ。私がどこで直したか、知っておきたくて」


「浄書(じょうしょ)のときも、そのまま写しましょうか」


「印刷(いんさつ)用には消してください。でも、私の原譜(げんぷ)には残します」


「承りました」


 彼はいつものように、聞いたことだけを台帳(だいちょう)に書く。その手が止まるのを待って、私は予定帳(よていちょう)を開いた。


「ジュールさん。今度のお休みは空いていますか」


「仕事のご相談でしょうか」


「いいえ。仕事ではない日に、お茶を飲みに行きたいんです」


 彼は持ちかけられた紙を見直すような顔をした。それから、仕事用の予定帳(よていちょう)を閉じた。


「日曜でしたら。午後はどうですか」


「東通りの菓子店(かしてん)で。一時に」


「あそこは胡桃(くるみ)の焼き菓子(かし)が早く売り切れます」


「だから一時です」


 ジュールが笑った。私は自分の予定帳(よていちょう)の仕事欄(らん)を一行飛ばして、休日の余白(よはく)へ時刻を書いた。


「最後の線だけ、まだ書かないでおいたんです」


 私は譜面(ふめん)を指し、ペンを取った。ジュールが何も言わずに、五線紙の端を押さえてくれる。


 私は最後の音符(おんぷ)の右に、二本の線を引いた。


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