私の婚礼曲を妹の手柄にした婚約者へ。最後の八小節も、妹にお願いします
「ラヴィニア様、譜めくり台はあちらです」
演奏会の四日前、私は自分の婚礼曲を弾く妹のために、楽譜をめくる席へ案内された。
舞台中央のピアノには、すでにリリア・アシュフォードが座っている。彼女の右には金糸の縁取りをした椅子が一脚。昨日まで、作曲者の私が座る予定だった椅子だ。今朝届いた座席表では、その椅子にも「リリア嬢」と書かれていた。
「私の席はこちらではありません。演奏者の脇に座るのは、いつ決まったのでしょう」
舞台係は困り顔で書類を裏返した。
「今朝、アシュフォード様から。ご家族で協力して披露なさると」
近づいてきたセドリックが、係から座席表を取った。
「悪いね。リリアには終わったあと審査員との挨拶もある。君はあの子の譜面をよく知っているだろう」
「作曲者用の席は?」
「今回は置かないことにした。場所が狭いから」
私の椅子が撤去されても、舞台袖には花台が四つ残っていた。一つを移せば人ひとり座れる。彼は花台にさえ目をやらない。
「婚礼曲は私が書きました。譜めくりが必要なら係の方に頼んでください」
「細かいことで揉めないでほしい。もうすぐ同じ家族になるのに」
リリアは鍵盤の前から振り返らなかった。準備された楽譜をひっくり返すと、私が書いた四十小節の右端に付けた指示を眺める。
「三音目の前で指を替えます。ラヴィニア様、この訂正印、少し濃すぎません?」
私の手で楕円に囲んだ冒頭の三音。二音目を半音高く直し、横に小さな訂正印を押した箇所だ。浄書職人のジュールは消し跡も整えると言ったが、私は元の譜面を残した。
「原譜第四一七号に入れた日付の印です。そのまま弾いてください」
「ええ。弾くのは私ですもの」
彼女の指は確かだった。最初の三音が響くと、石壁のある広間でも音が濁らない。そこには何度も練習した人間の正確さがある。
私は譜めくり台へは座らなかった。セドリックが最後に一度、私を見た。指示に従わない子を待つ家庭教師のような顔をしていた。
「今日の試し弾きは、ここで失礼します」
「リリアが困るだろう」
「曲についての質問なら、お答えします。譜めくりはお引き受けしません」
舞台を下りると、楽譜の一枚が床に落ちた。係が拾おうとした手を、私は思わず先に伸ばしていた。四十小節目の終わりに、自分の筆跡で「続く」とある。婚礼の入場に合わせるため、最後の八小節はまだ私の手元にあった。
*
三日前に届いた印刷見本には、さらに奇妙なことが書かれていた。
『祝婚の調べ 作曲・演奏 リリア・アシュフォード』
演奏者の欄は正しい。作曲者の欄からは、私の名前だけがなくなっている。
紙の余白には赤鉛筆で「作者名、決定」と記されていた。セドリックの字だった。脇には推薦状用の原稿が添えられている。
『わが妹リリアは若くして独自の作曲技法を確立し、このたび家の婚礼を祝う新曲を制作した――』
そこから先は空欄だった。末尾に「ラヴィニアに清書を頼む」とある。
私は婚約者の執務室へ二枚の紙を持ち込んだ。彼は招待状の宛先を点検していた。
「作曲者名が違います」
「そうだね。最初に僕がリリアに変えるよう頼んだ」
「誤植ではないのですね」
「協会の推薦には、自作曲を人前で発表した実績が要る。リリアは鍵盤では誰にも負けないのに、作曲実績が足りない。ちょうどよかったんだ」
「ちょうどよかった?」
「君は結婚してから何曲でも書ける。妹には今しかない」
セドリックは私の前に紹介文を置いた。
「君の文章はきれいだ。最後まで仕上げてくれ。身内の言葉だと、推薦する側にも伝わりやすい」
自分の曲を盗まれたうえ、自分で妹を褒める文章を書けという。私は見本の紙を裏返し、白い面を上にした。
「書きません。印刷物も直してください」
「何をそんなにこだわる。リリアの名前が出たところで、君の技術が減るわけじゃない」
「八か月前の契約書は、覚えていますね」
「君より覚えているよ。手配したのは僕だから」
机の下の革鞄から、私は自分の控えを取り出した。作曲・演奏利用契約書。作曲者欄にはラヴィニア・エヴァンス、依頼主欄にはセドリック・アシュフォード。後援費の負担者として、彼の母も署名している。
私が指さしたのは、曲の使用条件だった。最初の四十小節の作者名は本人の許可なく変えられない。最後の八小節の納入期限については、依頼主が正しい作者表示を守る場合に限り、遅延の違約金を課す。依頼主が表示を偽れば、納品の義務を停止でき、修正の費用も依頼主が持つ。
「だから僕は、君にお願いしているんだ。承認さえしてくれれば何も問題はない」
「断ったら?」
「困るのは君だよ。婚礼まで四日だ」
彼は私の手の下から契約書を抜き取ろうとした。私は紙を押さえた。
「控えは私のものです」
「そんなに疑わないでくれ。僕たちの結婚のために、少しくらい譲り合おうと言っているだけだ」
椅子を外されても、私は彼に相談できると思っていた。印刷見本が届いたときも、彼なら直してくれると思った。自分の名前を消す紹介文まで差し出されて、彼に何を期待できるというのだろう。
「この文章は、ご自分で書いてください」
紹介文を彼の側へ戻すと、セドリックは私の控えを見て顔をしかめた。
「君は昔から、肝心な時に仕事の話を持ち出す」
作曲の話をしたいと言いだしたのは、いつも彼のほうだった。
*
二日前、セドリックは完成した最後の八小節を求めて私の家を訪れた。
封筒は机の引き出しにある。婚礼で並んで歩く二人の歩幅を数え、私自身が書いた結末だ。私は封筒を机に出さなかった。
「今夜までにリリアへ渡してくれないか」
「作者名は直しますか」
「またそれか。譜めくりの件も謝らなかったね」
「引き受けると決めた覚えがありません」
「君のせいで一日の練習が無駄になった。演奏会を遅らせることもできないし、印刷も進めた。そこを踏まえてほしい」
謝るのはこちらだと決めている声だった。彼は書類を一枚、私の手元へ滑らせた。
「納品が遅れたら銀貨十二枚。冬に借りたがっていた仕事部屋の家賃の、半年分ほどだよね」
私が貯めた銀貨の額まで知っている。二人で探した部屋だからだ。
「契約の条件を読みました。正しい作者名で使用する場合に限ると」
「条文を振り回して、家族を法廷に引っ張るつもりかい? 君がそんな人間だと知れたら、次の仕事に差し障る」
「私に、何をしてほしいのですか」
「妹の成功を喜んでほしい。それだけだ」
紹介文は書け、椅子は譲れ、曲は渡せ。まだ一度も、彼は私の名前を戻すとは言っていない。
私は未完成の八小節を入れた封筒の上へ、白い紙を一枚重ねた。外からは中身が見えない。
「最後の八小節も、妹さんにお願いします」
セドリックの表情が初めて止まった。
「どういう意味だ」
「リリア嬢を作曲者として紹介するのでしょう。終わりも、ご自分で書いていただいてください」
「彼女は演奏家だ。作曲家じゃない」
「紹介文には、独自の作曲技法を確立したとありました」
「言葉尻を取るな」
セドリックは立ち上がり、片手を机へ置いた。
「君が八小節を出さないなら、母上にも相談しよう。婚約だって予定どおりにはいかなくなる」
「相談なさってください。ただ、婚約を続けるかどうかは私にも決められます」
彼の親指が爪の縁をこすった。段取りが崩れたときの癖だ。
「そこまで僕に恥をかかせたいのか」
私が差し出したのは、訂正してほしいという一つの頼みだった。今や彼は、私が彼を辱めるかどうかを問うている。
「帰ってください、セドリック」
敬称がなくなったことに、彼は気づいた。戸口で振り返り、今夜中に考え直すよう言い残していった。
机の上には銀貨十二枚の請求書が残る。私の八小節は、まだ引き出しの中だ。請求書の発行日は明日になっていた。
*
その翌朝、アシュフォード夫人から使いが来た。
呼び出された客間で、夫人は立ったまま私を迎えた。壁には、私とセドリックの婚約を祝った日の肖像が飾られている。額縁の中の私は、いまよりずっと嬉しそうに見えた。
「リリアに対して、ずいぶん酷いことを言ったそうですね」
「どのことでしょう」
「妹の才能が妬ましいから、あの子が作った曲を自分のものだと言い出したと」
セドリックが何を話したか分かった。違約金で脅しても曲を渡さないと知り、今度は私が嘘をついていることにしたのだ。
「夫人も、八か月前の契約書に署名なさいました」
「あれはあなたが楽曲を用意するという支出の記録です。才能の証明書ではありません」
「作曲者欄をご覧になりましたか」
「あなた、年長者を試すおつもり?」
夫人は封筒を開き、協会の名が印刷された便箋を見せた。
「後援協会へは、私の印で申し入れました。嫉妬から虚偽の著作者表示を求める者に、推薦審査を妨げさせないようにと。リリアは若いのですから」
封筒には、すでに封蝋を割った跡があった。協会へ届けた写しなのだろう。
「私の反論は聞いていただけますか」
「あなたが冷静になったらね。披露が済むまで席を外して。お客の前で音楽家として話すのも控えなさい」
「私の婚礼披露の場から、ですか」
「あなたのためでもあるのよ。今ならまだ、セドリックに頼んで何事もなかったようにできます」
机には協会の審査案内もあった。異議があれば演奏会前日の正午までに書面を受け付け、作者名と作曲家推薦の認定は当日、関係者のいる審査席で決める。婚約者の紹介を鵜呑みにせず、原資料を照合すると記されている。
私はその紙を読み終え、封筒を元の位置に戻した。
「席を外してほしいというご指示には従えません」
「なら、あなたがこの家に嫁ぐのは難しいでしょうね」
「承知しました」
帰り際、私は手帳に提出期限を書き写した。前日の正午。まだ間に合う。
*
写譜工房の戸を開けたとき、ジュールは大きな帳簿の背に布を貼り直していた。表の看板は金文字が剥げ、下から古い緑色がのぞいている。二年前、初めて来たときと同じだ。
「エヴァンス様。今日は納品の日ではありませんが」
「原譜第四一七号を確認したいのです。契約書の控えも」
私が差し出した審査案内を読んで、ジュールは糊の付いた手を布で拭いた。
「アシュフォード様のお使いなら、昨日も来ました。作者の記録を変えてほしい、と」
「変えたんですか」
「変えていません。父が受けた仕事でも、僕が扱う台帳でも、受け取った日に誰が書いたかは変えられないので」
「そのために注文を失うかもしれないのに?」
「もう失いました。来月予定されていた礼拝堂の写譜が取り消しになりました」
ジュールは、窓辺の空いた棚を示した。いつもなら教会用の大きな紙が積まれる場所だ。
「父には怒られましたか」
「最初は。けれど、台帳を直さなかったのなら、仕方がないとも」
父と息子がその晩どんな話をしたのか、私は知らない。ジュールは帳簿を棚から下ろし、台の上で静かに開いた。
原譜第四一七号。八か月前の日付。依頼主セドリック・アシュフォード、作曲者ラヴィニア・エヴァンス。原譜は四十小節、封緘の下には私の署名がある。横には双方の署名を照合できる契約書の控え。
「こちらが当時の原譜です」
最初の三音に、小さな楕円が描かれていた。二番目の音を半音高く直した跡と、その脇の日付入りの訂正印。私は裏に添えた指示書も出してもらった。
「ここを直したのは、左手の低い音との響きがぶつかってしまったからでしたね」
「はい。僕が消して清書しましょうと申し上げたのを、断られました」
「直した前後を残しておきたかったんです。いつか続きを書くときに、迷わないように」
「覚えています」
ジュールが紙の角をそろえる。私の書いた二音目は、あの頃から少し右へ傾いていた。何度も直した音ほど、妙な癖が残る。
「協会へ出せるのは、どこまででしょう」
「台帳の認証写しと契約書の控えです。原譜本体は工房から持ち出さず、審査席で封を開けます。先方には、開示申請書にご本人の署名をいただく決まりです」
彼は申請書を置いた。作者名欄を空白にしたまま、筆記具だけを私へ渡す。
契約書の下段には、演奏会で作者名を正しく表示する義務と、虚偽表示があったときの扱いが書かれていた。私はその条項を、自分で読んで署名した。銀貨十二枚は、依頼主が義務を守っているのに私が納品を遅らせた場合だけ。曲を他人の作として出す依頼主にまで、違約金を請求する権利はない。
「セドリックは、ここまで読んでいます」
「僕も契約に立ち会いました。あの方は、ご自身で条項を読み上げておられました」
「それでも請求書を出しました」
私は鞄から、明日の日付で書かれた十二枚の請求書を出した。ジュールは目を走らせ、紙を戻す。
「どちらの署名もない請求書です。このままでは、少なくとも僕らは受領を証明できません」
「協会でこれを出したら、彼は何と言うでしょう」
「わかりません」
ジュールはそう答えた。昔から、彼は私を安心させるための約束をしない。
「開示すれば、あなたの工房まで争いに巻き込みますね」
「僕が預かった記録について答えるのは、工房の仕事です。ただ、あなたに異議を申し立てる義務はありません」
いつもなら、迷った末にセドリックへ確認していた。彼がよいと言えば安心し、そうでなければ書きかけた音符を消した。
私は空白の欄へラヴィニア・エヴァンスと書いた。最後の字の下にインクが一粒たまる。ジュールが吸い取り紙を差し出した。署名に置くのは私が受け取るまで待っていた。
「異議申立ては、私が出します」
「承りました。提出時刻は僕も記録します」
工房を出ると、鐘が十一時を打った。協会が受け付ける正午まで、まだ一時間ある。私は申請書と契約書の写しを持って、東通りを歩いた。
受付の職員は封を確かめ、原譜の照合が当日の審査席で行われると告げた。私の申し立てだけで作者名はまだ訂正されない。相手にも発言の機会を与えるからだ。
「当日はご本人がいらしてください。欠席の場合、記録を採用できないことがあります」
「出席します」
職員は受付番号を書き、私の控えに押印した。押された印は、夫人が差し出した便箋のものと同じ協会の紋章だった。
*
会場を出ると、調律師の使う工具箱が舞台袖に並べられていた。リリアの練習が始まる時刻だ。
「ラヴィニア様」
彼女はピアノの前から、完成した八小節の楽譜を持ってきた。最後の和音が力強く書かれている。ここだけ私のものではない。
「お兄様は、最後を作れないなら私に頼めとおっしゃったでしょう。それで書きました。一晩で」
「聴かせてください」
リリアは椅子へ戻り、最初の四十小節から弾いた。速く進むところの手首が柔らかい。私が三日悩んだ運指を、彼女は一度聞いて覚えていた。そこから、自作の八小節へなだれ込む。拍手を誘うような、華やかな終わり方だった。
「どうですか」
「二番目の和音がきれいです。三音の形を反対から使っていますね」
「気づいてくださったんですね」
彼女が一瞬、嬉しそうな顔をしたので、昔の癖で続きを褒めそうになった。
「これを書けるのに、なぜ最初の四十小節まであなたの名前にしたんですか」
鍵盤から指が離れた。
「推薦には一曲が要るんです。八小節だけでは実績にならない。お兄様は、ラヴィニア様が家に入るなら、家の曲は私の曲として出せるって」
「あなたも、それが私の曲だと知っていたのね」
「もちろん知っています。練習も一緒にしましたから」
「それでも自分の名前を入れた」
「はい。来年は推薦の年齢を越えるんです。私には今年しかない」
ためらいのない返事だった。リリアは、兄から勝手に名前を使われた被害者ではなかった。
「あなたが努力したことは知っています。指の豆も、夜遅くまで練習していたことも」
「なら、わかってくださるでしょう」
「わかります。だから、あなたが書いた八小節は、あなたの名で出してください」
「それでは推薦に間に合いません」
「そのために、私の四十小節を差し上げるつもりはありません」
彼女は譜面を閉じた。角が少し折れる。
「お兄様の言うとおり。ラヴィニア様は私が妬ましいのね」
私はリリアがピアノを弾くのを好きだった。演奏する人が曲に思いがけない息を入れる、その瞬間を見るのが好きだった。だからこそ、今は彼女の顔を見たまま答えられた。
「あなたの演奏の腕が欲しかったことは、あります」
「ほら」
「けれど、私の署名まで欲しいと言ったのはあなたです」
リリアは押し黙り、それから開いた楽譜の最後の頁を強く押さえた。
「明日は弾きます。あなたが何を言っても」
「どうぞ。あなたの八小節は、確かに立派ですから」
私は楽譜に手を伸ばさなかった。彼女が自分で書いたものまで取り上げる理由はない。
楽器から離れるとき、舞台係が作曲者用の椅子を二脚運んでいるのを見た。明日の審査には、双方の申し立て人が座るらしい。私の椅子も、ようやく用意されていた。
*
演奏会当日。客が入る前の広間で、協会の審査員が机の中央に空の書類台を置いた。
「作者表示の異議が届いております。推薦資格と演奏許諾について、開演前に双方を確認いたします。今日ここで決定できない場合、該当演目は延期となります」
四日前に見た案内と同じ文言だった。セドリックは母親を従え、印刷済みの冊子を何冊も抱えて現れた。リリアは演奏服を着て、楽譜を胸に抱えている。
来場客のうち協会の後援者と推薦委員が前列に座り、後方には披露の招待客が続いた。今日の発表は、紹介された人の名誉にも関わる。審査員は全員に聞こえる声で議事を始めた。
「申立人、ラヴィニア・エヴァンス様」
「はい」
私は立った。向かい側のセドリックは、私の名前が呼ばれたとたん微笑んだ。話せばいつでも従わせられると思っている人の顔だった。
「その女性の申立ては信用できません」
彼は審査員より先に口を開いた。
「妹の才能を妬んでいるんです。婚約者として僕は長年支えましたが、これでは婚礼も危うい。母も事情を知っています」
夫人は息子の横で頷いた。
「私からも協会へ書面で申し入れました。あの子を守るために、虚偽の申立てを止めていただきたいのです」
前列の一人が冊子を閉じた。審査員は夫人の手紙を手元へ置く。
「申立人には提出済みの原譜、契約書を確認する権利があります。アシュフォード様、順番にお答えいただきます」
「契約なら知っています。君が最後の八小節を納めなかったことも、皆さんへ話しておくべきですね」
セドリックは私のほうを向き、笑みを消した。
「銀貨十二枚を払えば済むことだ。こんな騒ぎにせず、僕の母に謝りなさい」
客席の前列から、紙の擦れる音がした。
「審査員殿」
私は契約書の控えを両手で持ち上げた。
「私にも、質問をする順番をください」
「もちろんです。証言と資料の照合を行います」
セドリックが椅子へ腰を下ろした。今日も、私が先に折れるものだと思っているのだろう。私は彼の顔から目を離さなかった。
*
審査員の合図を待ち、私は書類台へ進んだ。
「曲の最初の四十小節を、リリア嬢が作曲したと主張なさるのですね」
セドリックは足を組み直した。
「そうだ。今日の印刷物にもそう記した。母上も後援している」
「では、この契約書の作曲者欄を読んでください」
審査員が書類を開き、セドリック側にも同じものが見えるよう台を回した。母の署名は青いインク。セドリックの署名は下の行で、最後の文字だけ跳ね上がる癖がある。
「ラヴィニア・エヴァンス、とありますな」
審査員が読んだ。
「その署名は、誰の依頼で書かれたのでしょう」
「僕の依頼だよ。だが、それは制作費を払った人間を示す書面でもある。家の費用で作った曲なら、家の者の功績として扱うことに何の問題がある?」
私は審査員を見た。審査員は何も言わず、次を促した。
「費用を払った方の名前は、ここに別の欄があります。依頼主、セドリック・アシュフォード。後援者、アシュフォード夫人。作曲者とは別です」
前列の推薦委員が、手元の印刷冊子を開いた。冊子にはリリアの名前が二つ続いている。
「工房の登録日もお確かめください。原譜第四一七号。八か月前、四十小節の譜面を預けました」
ジュールが封緘した箱を審査員へ渡した。紐には工房の印と日付があり、その上へ協会の受付印が重ねられている。誰も触れていない封を審査員が切り、原譜を開いた。
あの三音が紙の中央にある。二番目を直した細い楕円。私の小さな訂正印。
「この訂正をした理由は?」
「左手の低音と、最初の音がぶつかったからです。元の音なら二つ目で濁る。半音上げると、三音目が自然に続きます。裏に当時の指示書もあります」
審査員が裏紙を開き、指示書の字と印を確かめる。
「フェランさん。あなたが後からこの原譜に手を入れた可能性は?」
「浄書はしました。ただし原譜の筆跡と訂正は受領時のままです。受領日と変更内容は台帳に残しています」
ジュールはそこで口を閉じた。私の代わりに誰かを非難することも、私の思いを説明することもしなかった。
「ですが、リリア嬢はこの三音を弾けますし、八小節を作曲しました」
私は自分から付け加えた。
セドリックが勝ち誇ったように身を乗り出した。
「そうだろう。彼女にも才能はある。ラヴィニア自身が認めたじゃないか」
「認めています。リリア嬢の八小節は、リリア嬢のものです。四十小節を私が書いたという記録は、そのことで消えません」
リリアは楽譜を抱き直した。指に残る練習の豆が、白い紙の角を押さえている。
「リリア嬢、あなたは最初の四十小節を誰が書いたか、知っていましたね」
「……はい」
彼女は短く答えた。セドリックが横から口を出そうとしたが、審査員が手を上げて止めた。
「そのうえで、自分の名前を作曲者として印刷することに同意しましたか」
「同意しました。推薦に、曲が必要だったんです」
「八小節だけでは足りなかった?」
「はい」
リリアの返事が響いたあと、舞台のほうから鍵盤を試す一音が鳴った。調律師はすぐに蓋を閉じた。
セドリックが椅子を引いた。
「妹を責めるな。僕が認めたんだ。ラヴィニアが四十小節を書いたのは知っている。それがどうした。結婚すれば家族だ。家のために名前を譲るのが、そんなに悪いのか!」
審査員は顔を上げた。夫人の手が肘掛けを探し、何もないところで一度止まる。
「いま、ラヴィニア様が四十小節を作曲したと知っていた、とおっしゃいましたね」
「家族の内輪の話だ。協会がそこまで口を出すことじゃない」
「しかし、協会へは『彼女が他人の曲を自作と偽っている』と申し立てておられる」
「それは――」
「作曲者を知っていて、反対の内容を通知したのですか」
セドリックは私を見る。昔、困ったことがあると私へ原稿を渡してきた目だった。私は視線を受け止めたまま、何も補わなかった。
「母上も、これが家にとって一番よいと」
夫人は顔を上げた。机の書類に、自分の青い署名がある。
「私は……息子から、ラヴィニアさんが後になって作曲を名乗ったと聞きました。あの契約書の署名は私のものです」
「その時点で作曲者名はご確認済みだったのですね」
「名前は見ました。ですが、あの子が間違った話をするとは思いませんでした」
夫人は息子のほうを見る。セドリックは一度だけ頷いてみせたが、母は応じなかった。
審査員は工房の証明と三人の署名を照合し、議事の記録へ裁定を書き込む。
「原曲四十小節の作曲者はラヴィニア・エヴァンス様。終止八小節の補作はリリア・アシュフォード様。印刷物の単独作曲表示を取り消し、正しい表示への変更を命じます。虚偽の単独作曲実績によるリリア様の推薦申請は受理できません。演奏者としての評価とは別に扱います」
前列で椅子が動いた。リリアへ推薦状を渡す予定だった委員が、書類を閉じて付き添いに何か告げる。リリアは楽譜を膝に置いたまま、動かなかった。
審査員が契約書をもう一枚めくる。
「作曲・利用の条件も確認しましょう。虚偽の作者表示をした場合、依頼主は使用条件に違反したものとする。未納分についての遅延違約金は、正しい表示を守る依頼主に限って請求できる。印刷物の訂正費は依頼主負担。三者の署名があります」
セドリックの親指が、爪の端をこすり始めた。
「文言はそうだ。しかし、式は迫っていた。便宜的にリリアの名を借りただけで――」
「借りたとおっしゃるのですね」
審査員の声は変わらなかった。セドリックは返事をしない。
「あなたは、私が銀貨十二枚を払うと言いました」
私は持参した請求書を机へ置いた。明日の日付の紙だ。後援者の席から一人が身を乗り出す。
「正しい作者名を戻してもらえれば、私は婚礼用の八小節をお渡しするつもりでした。あなたは戻さず、代わりに私へ、この請求書を出した」
「君のほうが納品を拒んだだろう」
「契約書には、拒める条件も書いてあります」
私は紙を持ち上げ、セドリック自身の署名の下へ重ねた。
「銀貨十二枚は払いません。訂正費用も、私には請求しないでください」
セドリックは立ち上がったまま、次の言葉を探した。私へ向けられていた冊子の表紙が、彼の手の中で折れた。
「ラヴィニア。君は、僕との結婚をどうするつもりなんだ」
セドリックがようやく言った。
私は彼を見たまま、左手の指輪を外した。約束の日、彼が私の手に通してくれたものだ。机の上へ置くと、輪の内側に刻まれた日付が上を向いた。
「婚約を解消します。これからの連絡は、両家の代理人を通してください」
「一曲のために、そこまでするのか」
「あなたは、私の名前を知っていましたね」
彼は答えなかった。
夫人が指輪に触れようとして、息子の手を見た。セドリックは伸ばされた手を取らず、机上の契約書を押し返そうとした。審査員はそれを自分の側へ引き取り、記録の上に置いた。
演奏許諾の欄に、私の名前を書き入れる。正しい作者表示で上演することを、ここで私自身が認める。リリアの八小節を消すつもりもなかった。
印刷済みの冊子へ訂正紙が配られ、係の人が会場正面の表記を替えた。セドリックは客席前方に空けられた家族席へ戻らず、夫人とともに側扉から出ていった。
演奏が始まった。
冒頭の三音が響く。半音上げた二番目の音のあと、広間の石壁が低い響きを返す。リリアは一度もつまずかなかった。三十七小節目では息を吸うように少し速くなり、彼女の八小節へ滑り込む。最後の和音を置くと、客席から拍手が起きた。
私も拍手した。彼女の演奏は、よい演奏だった。
舞台を下りたリリアは、私の前で一度立ち止まった。
「自分で最初から書けばよかったのね」
「そう思います」
「私は、謝ったことにはしません。推薦を失ったのは、あなたのせいだと思う日もあるでしょうから」
「それでも、四十小節は返していただきます」
リリアは首を縦に動かした。握手はしなかった。
*
三週間後、写譜工房の机に新しい五線紙を広げた。
婚礼用に書いた八小節は、まだ家の引き出しにしまってある。会場の予約を取り消す書類は山ほど残ったが、銀貨十二枚を納める袋だけは、開かずに済んだ。冬に借りようと思っていた作曲部屋は、今日ようやく契約が整った。
「新しいご依頼ですか」
ジュールは私の譜面を受け取り、作者欄を確認した。
『帰り道』
作曲 ラヴィニア・エヴァンス。
「前の曲から、題が変わりましたね」
「婚礼で歩くための曲ではなくなったので」
最初の三音は残した。ただし三音のあとに休符を入れた。急いで誰かに歩幅を合わせる必要はない。最後の八小節は書き直してある。途中で一度、音を上へ向けてから、低い音に戻した。
ジュールが譜面の端に手を置いた。
「この三音の横の楕円、残されたんですね」
「ええ。私がどこで直したか、知っておきたくて」
「浄書のときも、そのまま写しましょうか」
「印刷用には消してください。でも、私の原譜には残します」
「承りました」
彼はいつものように、聞いたことだけを台帳に書く。その手が止まるのを待って、私は予定帳を開いた。
「ジュールさん。今度のお休みは空いていますか」
「仕事のご相談でしょうか」
「いいえ。仕事ではない日に、お茶を飲みに行きたいんです」
彼は持ちかけられた紙を見直すような顔をした。それから、仕事用の予定帳を閉じた。
「日曜でしたら。午後はどうですか」
「東通りの菓子店で。一時に」
「あそこは胡桃の焼き菓子が早く売り切れます」
「だから一時です」
ジュールが笑った。私は自分の予定帳の仕事欄を一行飛ばして、休日の余白へ時刻を書いた。
「最後の線だけ、まだ書かないでおいたんです」
私は譜面を指し、ペンを取った。ジュールが何も言わずに、五線紙の端を押さえてくれる。
私は最後の音符の右に、二本の線を引いた。




