第3話:さらばブラック教団、目指すは地図にないパラダイス
国境を越えると、そこは「死」の色に染まった世界だった。
空はどんよりと濁った灰色に沈み、大地はひび割れ、不気味な紫色の霧――瘴気が地を這っている。
普通の人間なら数分と持たずに精神を病み、魔物へと変じる絶望の地。それが「魔の土地」だ。
(……最高。最高じゃないの、ここ!)
私は馬車の窓から外を眺め、内心で小躍りしていた。
これほど瘴気が濃ければ、教会の追手も入ってこれない。アイリスさえいなくなれば、ここを突っ切って隣国へ抜けるだけで、私の「完全失踪」は成立する。
「エルゼ様……。顔色が、一段と輝きを増しておられますね。この地獄のような光景を前にして、これほどまでに悦びに満ちた表情をされるとは。……やはり、救うべき魂が多ければ多いほど、あなたの慈愛は燃え上がるのですね」
隣でアイリスが、感極まった様子で鼻をすすっている。
……いや、単に「これでやっと仕事(聖女)を辞められる!」ってテンション上がってるだけなんだけど。
「アイリスさん。私、ふと思ったの。正規のルートを通っていては、魔王軍に動きを察知されてしまうわ。もっと……そう、誰も通らないような『険しい道』を行くべきではないかしら?」
私は、あらかじめ用意していた「いわく付きの地図」を取り出した。
教会の資料室の隅で拾った、古い羊皮紙だ。そこには大きく『禁忌・絶望の谷』と記されている。
噂によれば、そこは一度入れば二度と出られない迷いの森と、底なしの沼が続く場所らしい。
(あそこにアイリスを誘導して、霧に紛れて私が一人で脱出すれば完璧だわ。アイリスなら強いし、死にはしないでしょ。私はそのまま、反対側の出口からスローライフへ直行よ!)
私の提案に、アイリスは一瞬だけ目を見開いた。
「『絶望の谷』……。あそこは千年前、初代聖女様ですら『光が届かぬ地』と避けたとされる暗黒領域。そこを正面から浄化しに行くというのですか!? まさか、かつての聖女様が成し得なかったことを、あなたはこの短期間で……っ!」
「ええ、そうよ。私にしかできないことがあると思うの(撒くことだけどね)」
私は最大限に慈悲深い微笑みを浮かべた。
アイリスはガタガタと震え、深々と頭を下げた。
「……私の浅はかな考えを恥じます。エルゼ様は、逃避ではなく、最も深い闇を照らすためにここへ来られた。御意に! どこまでもお供いたします!」
よし、釣れた。
馬車を捨て、私たちは徒歩で「絶望の谷」へと足を踏み入れた。
数時間後。
視界は真っ白な霧に包まれ、アイリスとの距離が自然と開いていく。
足元はぐちょぐちょとぬかるみ、何やら不気味なうめき声が聞こえるが、私には「太陽銀貨」という名の最強の防虫剤(?)が四百九十九枚もある。瘴気なんてちっとも怖くない。
「……今よ!」
私はアイリスが霧の中で周囲を警戒している隙に、そっと脇道……というか、トゲだらけの藪の中へ飛び込んだ。
服が破れるのも構わない。自由のためなら安いものだ。
そのまま必死に走り続け、背後からアイリスの「エルゼ様!? どこへ行かれたのですか!」という叫び声が遠ざかるのを確認して、私はようやく立ち止まった。
「はぁ、はぁ……! やった、やったわ! ついにあの重い忠誠心から解放された!」
私は泥だらけの顔で笑った。
霧が少し晴れ、目の前には大きな湖が広がっていた。
地図によれば、ここは『怨嗟の沼』。触れるだけで肉が腐り落ちるという呪いの水場だ。
(ふん、そんなの私には関係ないわ。銀貨を一枚、贅沢に使って道を切り開いて――)
私がカバンに手をかけた、その時だった。
沼の中から、巨大な、それこそ山のような影がヌッと現れた。
「グルゥゥゥ……」
それは、全身が腐敗した鱗に覆われ、いくつもの眼球を光らせる「瘴気竜」だった。魔王軍の幹部クラスですら手を焼くと言われる、この谷の主。
……さすがに、ちょっとビビった。
「あ、あの、えーと。私はただの通りすがりのクズでして」
竜が大きく口を開ける。そこから放たれるのは、すべてを溶かす死のブレスだ。
死ぬ。これは確実に死ぬ。
私はパニックになり、カバンの中から「太陽銀貨」を掴み取ると、思いっきり竜の口の中へと放り投げた。
「これあげるから! どっか行ってえぇぇ!!」
――城一つ分の価値がある銀貨が、竜の喉奥へと吸い込まれた。
瞬間。
竜の巨体が、内側から激しい白光に焼かれた。
「ギャオォォォォォン!!」という断末魔とともに、竜の全身から立ち上っていた黒い瘴気が、一気に黄金の粒子へと変わっていく。
銀貨の凄まじい浄化エネルギーが、竜の体内に溜まった千年分の呪いを「強制デトックス」してしまったのだ。
さらに、その光は波紋のように湖全体に広がり……。
一分後。
そこにあったのは『怨嗟の沼』ではなかった。
透き通るようなエメラルドグリーンの水面、歌うように囀る鳥たち、そして湖畔に咲き乱れる極彩色の花々。
そこは、伝説に語られる「失われた楽園」そのものに作り替えられていた。
「えぇ……」
呆然とする私の前に、一人の少女が立っていた。
いや、少女ではない。先ほどの竜が、浄化されすぎて「精霊」としての真の姿に戻ったらしい。
「ああ……主様。私を、あのような醜い呪いから救い出し、この地に光を取り戻してくださるとは。私は今日から、あなたの忠実なしもべとなります」
精霊が私の足元に跪く。
と、同時に。
「エルゼ様!!」
霧を切り裂いて、アイリスが飛び出してきた。
彼女は、目の前に広がる楽園と、跪く精霊、そしてその中心に立つ私を見て、その場に崩れ落ちた。
「なんという……なんという奇跡……。一人で先行されたと思えば、この世の果てと言われた谷を、一瞬で聖域に変えてしまわれるとは。しかも、あの伝説の瘴気竜を従わせるなんて……」
アイリスの目から、滝のような涙が溢れ出す。
「私は確信しました。エルゼ様、あなたは世界を救うために天から遣わされた、真の女神の化身です。もはや教会の聖女などという枠には収まりきらない!」
「あ、違うの。今の、ただの自衛っていうか、投げ売りというか」
「いいえ! おっしゃらないでください! その『謙虚さ』こそが、何よりも尊いのです!」
アイリスは懐から水晶を取り出し、何やら呪文を唱えた。
「王都へ、いえ、世界中に通信魔法を飛ばします! 『聖女エルゼ、魔の土地の最深部を制圧。絶望の谷に楽園を再建せり』と! これで世界中の人々が、希望の光を見るでしょう!」
(……やめて。マジでやめて)
翌朝。
私が「スローライフ」を送るはずだった秘密の湖畔には、どこから聞きつけたのか、絶滅危惧種の妖精たちや、迫害されていた亜人たちが「聖女様の加護を!」と続々と集まり、勝手に村を作り始めていた。
私は、残りの銀貨四百九十八枚が入ったカバンを抱え、遠い目で空を見上げた。
……どうやら、私の「楽園」への道は、世界を救い尽くすまで開かないらしい。
「撒こうとしたら、伝説の守護精霊をゲットしてしまった」の巻。
エルゼが「地獄に落ちろ」と思って選んだ場所が、彼女のせいで「天国」に書き換えられていく。
この「逃げ場がなくなる絶望感」こそが、彼女の聖女伝説の燃料です。
アイリスの報告により、世界中から「エルゼ様信者」が押し寄せる予感……!
面白いと思っていただけたら、ぜひ【ブックマーク】と【評価】をお願いします!
エルゼをさらなる「詰み」へと追い込む勇気を私にください!
次回、第4話:
「『お帰りください』が『よく来てくださいました』に変換される謎」
勝手にできた村の村長に担ぎ上げられたエルゼ。彼女の「拒絶」は、なぜか最高のもてなしとして受け取られて!?
お楽しみに!




