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組曲「星屑ラジオ」

作者: 北條藍
掲載日:2026/01/01

R18小説扱っているムーンライトノベルズで投稿している「immoral room」と「機械仕掛けの愛情論」と世界がつながっている話です。

直接お話が絡んでいることはないので、単独でも読めます。

このお話は、もちろんそういう描写はないですが、他の関連話はR18シーンがありますので、ご注意ください。

――こんばんは!

 かわいらしいドット画面のバーチャル画面がそこにあった。

 一人が入ると、中にいた数人が挨拶を返す。

――いらっしゃい。

――あ、こんばんは! おつかれです。

――ども、おつかれー。

――こんばんはー。

――こんばんはです。

 喫茶店のような部屋の中、一つの席に人が集まってきていた。

――みんな集まったということでいいですか?

 集まりの主催らしい人物がぐるっと辺りを見回して聞く。 

――六人いるから、いいんじゃない?

――そうだね。六人いれば始められるってルールでしょ。

 それに答えるように、周りの人物が言い、うなずいた。

――それじゃ、始めましょうか。皆さんのお名前をお願いします。私から時計回りで。

 その言葉に、皆姿勢を正した。

――私は主催のウミと申します。

――私はアオといいます。

――俺はカナメ。

――私はSAKURAです。

――僕はEA。

――私はあきです。

 全員の自己紹介を終え、皆の視線が主催に向く。

――それでは、この六人で始めます。この六人以外では今から始める物語を進めてはいけません。これは絶対に守ってください。しかし、逆にそれ以外のルールは特にありません。ただし、ここはネットという公共の場ですので、それはわきまえた行動をしてください(笑)。

――了解。

――おーけー。

――わかりました。

――りょうかいです。

――はい。

 それぞれの返答が返ってくる。

――それでは、「星屑ラジオ」の始まりです。


 青島遠子は、キーボードに言葉を打ち込み、一息ついた。

 キーボードの側に置いていたマグカップに入った温かいコーヒーを口に含む。

 ゆっくりと喉の奥に入れ込むように飲み込む。

 遠子は昔からWEB小説を読むのが好きで、サイトを色々渡り歩いていたら、この「星屑ラジオ」というサイトに出会った。

 アオという名前の書き手が自分だ。

 その場に偶然居合わせた六人で、一つの小説を作り上げる、というものだ。

 リレー小説と少し違うのは、まず土台を書く順番はあるのだが、それを別の場所にアップロードして、それを見ながら皆でそれを直していき、皆の合意の上で小説の展開を進めるところだ。

 一回六人が確定したら、そのお話が完結するまで誰も入ることはできない。一回そこで閉じられる。

 そして、物語の鍵を握る世界観も含んだ出だしは、主催が出すことになっていた。

 主催は、いつもこのサイトの管理人であるウミという人だった。

 もうどれぐらいのお話をこの人は提供したのだろう。

 遠子がここのサイトに通うように数ヶ月だけど、それだけでも一つのお話はできている。

 遠子はもともと読む側だったが、書いてみることにも興味があって、誰かと一緒なら、書きだすきっかけができるのじゃないだろうかと考えて参加してみたのだ。

 そうすると、見事にハマってしまい、こうして仕事で疲れて帰ってきた後、毎夜毎夜顔を出しているのだ。

 リレー形式のお話が進むのは、無理が出ないように週末のみだったが、創作の悩みを相談しにきたり、日常の会話をしたり、何だかんだみんな毎夜集まってくる。

 そうして顔を出して、一緒にお話を作るうちに、彼のことを知りたいと、もっとよく話してみたいと、思うようにもなっていた。

 もう見知った仲ではあるが、最初に自己紹介から始めるのは、ここのルールになっていた。

 それも、仲間だけの合言葉のようで、遠子は気に入っていた。


――今日はどういうお話を作るんですか?

 いつもの場所に集まったメンバーの中、遠子が最初に切り出した。

 アオは、いつもどういう話が展開されるのかを楽しみにしていた。

 だから、ついその期待する気持ちが前に出てしまうのだ。

――アオちゃんはいつも積極的だよねー。

 カナメが、茶化すように言った。

 アバターが、ハートマークを出してにこにこ笑っているので、明らかにからかわれていることはわかった。

 遠子は、そのカナメの絡み方はあまり好きではなかった。

 少しムっとしながら、チャットの文字をうつ。

――カナメさんが言うと、嫌味に聞こえますね。

 怒ったことを示す、赤い鍵かっこのような記号が四つ並ぶマークと、沸騰した煙の絵を遠子のアバターが出す動作をした。

――ごめんごめん。言い方が悪かったね。いつも話題切り出してくれるから助かるって意味だよ。

 すぐに、カナメからのチャットが返ってきた。

 カナメは、こういう風に言葉全てが素直だから、結局許してしまうし、悪い印象が残らないのだ。

 遠子はアバターには出さず、画面の前で小さく息をつく。

――別にいいですけど。それより、今日はどうするんですか? ウミさん!

 話題をウミへ向けることにした。

 いい加減にしないと、今日のことが始まらない。

 自分たちの茶番を、いつまでも続けるわけにはいかない。

――すみません、二人の会話が面白かったので見てしまっていました。

――もう! ウミさん!

 ウミのアバターがにこにこ笑っているのに対して、遠子のアバターは湯気を出して地団駄を踏んでいた。

 他の皆のアバターも、笑い声をあげるように笑顔で揺れている。

 からかわれているけれど、遠子は悪い気はしていなかった。

 ここの仲間たちとは、五年は共に過ごしている。

 実際に会ったことはないが、五年もいれば学生時代の同級生よりも長く一緒にいることになる。

 それなりに親しい間柄ではあると、遠子自身は思っていた。

 その中で、仲間たちの反応の仕方の意図はある程度わかっているからこそ、こういう会話もできるのだ。

――皆さんの時間も限られていますし、今日のテーマを発表しますね。

 そして、ウミのチャットが画面に浮かび上がった。

 遠子は、緊張した面持ちで画面をじっと見つめた。

 この時は、何回も続けているが毎回緊張する。

 そこから、制限時間でお話をつなげていくことを考えなければいけないから、頭をフル回転させなければいけないからだ。

 五年も同じことを続けている仲間だから、ある意味ライバルでもある。

 彼らの文章を書く能力もとても高い。

 次々繰り出される流れるように読める文章、鮮明な情景、予想のつかない展開、それについていかなければいけないという緊張感があった。

 疑問点があると、周りからツッコミも容赦なくくる。

 それを受けながら、また話を考えなければいけないのだ。

 それは、とても刺激的で面白かった。

 だから、遠子はこの集まりをやめられないのだ。

 遠子は様々な思いを抱え、ウミの次のチャットをじっと待った。

――今回は、現代ものをテーマにしたいと思っています。

 その場にいたアバターが、「!」という吹き出しを出して一斉に反応した。

――現代もの! 珍しい!

 カナメがまたちゃかすように言う。

――キャラクターたちの年代とか、舞台設定はどのあたりですか?

 メンバーの中でも、クールで落ち着いた話し方をするSAKURAが詳細を促した。

 そこでまたメンバーは黙り、ウミの次の言葉を待った。

――キャラクターは、二十代後半の会社員で、オフィス恋愛ものを考えています。

 またメンバーのアバターに「!」が乱立する。

――オフィス! 恋愛もの!

 カナメが叫ぶ。

――また今までにない題材を選びましたねー。

 EAは、落ち着いた様子で言う。

 彼が恐らく聞いている中で一番最年少のように思うのだが、一番落ち着いた態度でいることが多い。

――長く続けているし、違うものを書いて刺激にしてみようかと思ったんです。

 ウミが答えて、メンバーのざわつきはまた一旦止まった。

――主人公はどういうキャラクターですか?

 あきが聞いた。

 彼女も、あまり激しい感情は見せないが、どちらかというと穏やかな印象であった。

 いつも優しい話し方をする。

 だが、議題が進んでくると、冷静に自分の考えなどを主張してくるので、何とも読めない人物でもあった。

 それがまた、皆の創作を進めるスパイスともなっているのだが。

――メインの視点は、ある商社に勤める二十代後半の会社員男性です。

 妙にリアルな、自分と近い年代に遠子は少しドキリとした。

――なんか僕だけちょっと不利かもなー。

 EAが言う。彼は落ち着いていても、たまにこういう幼さが垣間見える言い方をする。

 それが皆にかわいがられているところでもあった。

――そんなこと言ったら、今まで十代のキャラクターを書かせられてきた俺たちはどうなるんだよなー。

 カナメが返す。

 カナメが言うと、全て冗談に聞こえるので場がなごんだ。

 皆がそうだよなーと笑い合っていた。

 EAも、そういえばそうですねーと納得したようだ。

――その主人公が、恋愛する相手はどんな人ですか?

 SAKURAがウミに聞く。

 遠子も、それがとても気になっていた。

――相手は、同じ会社の同年代の女性です。同期で入社して、それぞれは違う部署に所属しているけれど、経理と営業なので、たまに顔を合わせる程度です。

――……なんか、相手の情報が具体的ですね……?

 あきが不審に思ったのか、クエスチョンマークを出しながら言う。

 遠子も、妙によく話すウミに驚いていた。

 いつもだと、短くチャットを切りながら話すのに。

 恐らく、そこで自分でも考えたり、まとめていたものを取り出したりする作業をしているのだろうと思っていたが。

 今回は、するすると出てきていた。

 それにどこか違和感があった。

――もしかして、実在の人物がモデルとかじゃないんですか?

 カナメが遠子が薄々思っていたことを、そのものズバリ聞いてくれた。

 皆黙ってしまった。

 恐らくウミの様子をうかがっているのだろう。

 ということは、皆同じことを思っていたのだ。

 何も動かない空間が、しばらく画面に映る。

 すると、次に文字が浮かんだ。

 発信者は、ウミだ。

――ここで書く物語に実在のモデルはいませんよ。大丈夫です。

 一瞬の間の後に、カナメのコメントが出た。

――そうですか。すみません、変なこと言って。

 汗のマークを出して、両手を合わせる動作をアバターがする。

 ウミのアバターは笑顔になった。

――いえ、大丈夫ですよ。主人公の情報が少なすぎたせいかもしれませんね。

 そう言うと、ウミは主人公についても追加で設定を話し出した。

 主人公は勤続大学卒業からその会社で働き続けて、六年目になる中堅。

 部署の中でもプロジェクトのリーダーをしたり、だんだんと重要な役職を任されるようになってきた。

 昇進の話もきていて、仕事は順調に進んでいるところだった。

 しかし、これで良いのだろうかとふと立ち止まってしまう。

 それが、同期の女性のことだった。

 彼は入社した時から、ある同期の一人の女性のことが気になっていた。

 彼女に、自分はできる人だと思ってもらいたくて、仕事も外見も頑張ったし気をつけていた。

 彼女との関係は良好ではあったが、ただの同僚から先には全く進まなかった。

 職場や仕事の飲み会以外で、彼女に会うことはなかった。

 連絡先は、同期で集まった時にノリで交換はした。

 だが、そこから連絡できずに数年たってしまった。

 ここまでくると、今更いきなり連絡するのもかなり勇気が必要だ。

 この彼に勇気を与えるにはどうしたらいいか。

 それを考えてもらいたい、というのが今回のテーマだった。

――今回も面白そう! 俺そういう今一歩踏み出せないキャラを後押しするの好きだよー。

 カナメのアバターが音符マークを出しながら言う。

――練りがいがありそうですね……。

 EAが、顎に手を当てて考え込むしぐさをした。

 それぞれがそれぞれの反応をして、次のテーマをどうするか楽しみにしていた。

 だが遠子は、そのみんなを画面の向こうに見ながら、激しく動揺していた。

 ウミの語る主人公たちの設定が、とても自分の境遇に似ているのだ。

 自分にも、同時期入社で違う部署、経理と営業で向こうはエリート街道まっしぐらの憧れの男性がいたのだ。

 しかも、連絡先をノリで交換したものの、連絡できていないところまで一緒だ。

 男女の違いこそあれ、ここまで境遇が似ていると、自分がこの主人公に過剰に感情移入してしまわないかが、遠子は心配だった。

 また、ウミがここまで自分の境遇に似ているお題を持ってきたのも、少しつながるものを感じてしまっていた。

 やはりこれは、彼自身の体験なのではないだろうかなどとも、つい勘ぐってしまう。

 しかし、そんなことをここでは聞けない。

 自分の身元までバレてしまう。

 というか、代表のウミが私情をこの中に差しはさんでいるということになってしまったら、このメンバーもこのままでいられるかわからない。

 だが、ウミはなぜ今になってこのような妙にリアルを感じるような話を提案したのか。

 これが本当だったら、かなりリスクがある。

 けれども、いくら考えていても何も進まない。

 とりあえず、話を進めて様子を見ていくしか、自分には選択肢がなかった。

 今日はテーマの発表だけで、本格的に書きだすのはまた次回の週末にある集まりからだ。

 ひとまず話は、設定を確認しあうだけで終わった。

 そして、次の回に書きだす者だけを決めて終わった。

 ウェブ上でサイコロを振って、その出た数字が一番大きい人が書き出しをすることにいつもしていた。

 その結果、なんと最初の書き出しは遠子に決まった。

 遠子は、どう書いたら良いものか、全く思い浮かばず、途方に暮れた。

 そうして夜も更けると、皆それぞれの時間で落ちていく。

 遠子も、EAがまず最初にログアウトしたのをきっかけに、共に部屋を出ることにした。

 パソコンを閉じて、遠子はとりあえず布団に入った。

 悩んでいてもしょうがない。寝たら、また何か新しい考えが出るかもしれない。

 だいたい寝る支度をしてログインしているので、終わればそのまま寝れるように遠子はしていた。

 だが、遠子が布団に入っても全く眠りの世界に誘われなかった。

 困った。明日も仕事なのに。

 だらしない姿をあの人に見られたくない。

 そんな風に考えていたら、だんだんと頭の中が白くなっていく。

 白い海に、意識が沈んでいく。

 底へ底へ、深く深く、底などない海に沈んでいく。


 次の日、きちんといつもの時間に起きられた。

 起きられたが、頭は重くて最悪だった。

 正直仕事に行きたくないが、ただ寝付けなかっただけで休みの連絡を入れるのも、遠子のプライドが許さなかった。

 何とか暗い顔つきを化粧でごまかし、遠子は出勤した。

 そして会社のデスクに着いて、周りにいつもどおり挨拶をする。

 良かった。特に誰も自分の異変に気づいていないようだ。

 そのまま午前中の仕事をこなし、昼休憩の時間に入ろうとした時だった。

「青島さん」

 呼び止められて、遠子は心臓が跳ねあがった。

 できれば会いたくなかった人物の声に、遠子は恐る恐る振り向く。

「今、良いかな?……昼休み行くところだった……?」

 そこには、同期の上野満うえのみつるがいた。

 同期で最も有望株であり、遠子の憧れの男性だ。

 営業部のエースでもある。

 もちろん憧れているのは、遠子だけではない。

 きっと会社中の同年代の女性の憧れの的だろう。

 遠子は、昨日の会話を思い出して何となく気まずく感じていた。

 昨日話していた環境が似ていると思ったのは、まさにこの人物だったからだ。

 遠子が主人公の環境に似ているだけで、まさかこの上野は全く関係ないだろう。

 そうは思っていたが、つい思い出してしまう。

「……いえ、大丈夫ですよ。どうしましたか?」

 しかし、今は仕事中だ。

 避けるわけにもいかず、遠子は笑顔で答えた。

 上野は遠子の答えに、笑顔を明るくする。

「よかった。申し訳ないんだけど、この経費処理頼めないかな……」

 だがすぐに上野は表情を変え、恐る恐る数枚の書類を差し出した。

 今日は月末。各部署からたまった経費申請が怒涛のごとく押し寄せてきていた。

 鬼気迫る雰囲気の経理部に追加で、しかも手書きでの申請を出しづらかったのだろう。

 遠子はくすりと小さく笑うと、上野が差し出した書類を片手で受け取った。

「オーケーです。一緒に申請しておきます」

 上野のかしこまった顔が、みるみるまた人懐っこい笑顔に変わる。

「ありがとう! 青島さん!」

 小声なものの、弾むような声に遠子も嬉しくなった。

 恐らく、同期だし、この経理部でも同期内でもいじられキャラである自分に話しかけやすかっただけであろうとは思うが、頼られたのも単純に嬉しかった。

「今度は、あんまりギリギリまでためておかないでくださいね」

 そう言って、遠子はもらった書類をとりあえず自分の机の上に置いた。

 上野はうなずきながら、よろしくねーと言って部屋を去っていった。

「はぁああああああ」

 そして、遠子は大きいため息を吐く。

 何さっきの笑顔。めっちゃかわいいじゃん。

 少し興奮を冷ましてからでないと、とても落ち着いて昼ご飯を食べられそうにない。

「遠子、よかったねー」

 そう声をかけられて、遠子は隣の机を見た。

 同じ部署の同僚である美咲が、にこにこと微笑んでいた。

 彼女は、遠子が上野に憧れていることを知っている。

 遠子は、何だか恥ずかしくなって、頬に熱が宿るのを感じた。

「……もう、そんな風に言わないでよ……」

 急に恥ずかしくなり、遠子は美咲から顔をそらした。

「別に、ただ仕事のやり取りしただけなんだから、謝ることじゃないよ。遠子にわざわざ声かけるなんて、上野さんも案外遠子に気があるかもしれないね?」

「ないないない」

 先輩の言葉に、遠子は大きく手を振って、とりあえず休憩行ってきますと言ってその場を去った。

 何だかその場にいるのが気まずいから、立ち去りたいという思いもあった。


 休憩室で食事を取りながら、遠子は考え事をしていた。

 食事はもう味わうのではなく、口に運ぶだけになっていた。

 もしかしたら、上野がウミかもしれないと思っていた自分が恥ずかしい。

 上野は全く普通どおりだった。

 いや、今まで特に何もないのだから、急に何かあるわけがないのだ。

 変に考えたりしない方が良い。

 ここは仕事場だ。きちんと仕事をしなければ。

 それを言うなら、もうすでに同僚に恋心を抱いている時点で、雑念が入ってしまってはいるのだが。

 何にしろ、気を散らしてはだめだ。

「いたっ」

 考え続けていたら、食べ物はもうなくなっていた。

 遠子は、自分の指を口に入れてしまっていた。

 そのことを認識しながら、ゆっくりと口から指を出す。

 誰も見ていなかっただろうか、と周りに視線を巡らせると、後ろからくすくすと笑う声が聞こえてきた。

 いやだ誰だろうと後ろを振り返ると、今一番見られたくない人物だった。

「う、上野さん……」

 そこには、口元を手で隠しながらも、その細められた目元から笑っていることは隠しきれていない上野がいた。

 遠子は恥ずかしくてこの場から逃げ出したかったが、とりあえずごまかすようにぎこちなく口の端を持ち上げて笑みを作った。

「いや、笑っちゃってごめんね。その……青島さんが、かわいかったから……」

「え……」

 上野の言葉に、遠子の表情が固まった。

「あ、あの……変な意味じゃなくて……いや、別に言葉以上の意味なんてないって意味でね……」

 何言ってんだろ、と最後は言葉が尻すぼみになった上野を見て、遠子は小さく笑みが出た。

 どんどんおかしさがこみあげてきて、こらえきれずに口を押えていた手からも笑いがこぼれ落ちた。

 上野は、ばつが悪そうに眉間にしわを寄せていた。

「上野さんこそ、かわいいですよ」

 正直な気持ちが、口から出ていた。

 言って、変なことを言ってしまったなと口を半分隠すように手をもっていく。

「え……」

 すると、上野は傍目にもわかるほど顔を赤くしていた。

 こんな反応をするとは思わず、遠子は驚いて上野を見ていた。

 二人とも、黙ったまま少しの時間が経過する。

「あ、あの! 休憩の邪魔してすみません! それじゃ!」

 そうして、上野は顔が赤いままごまかすようにぎこちなく笑みを浮かべると、片手をあげて立ち去った。

 遠子は、去る上野の背中を少し見つめていた。

 あの顔は、どういうことだったのだろう。

 上野さんは、かわいいという言葉を言われ慣れていなかったのだろうか。

 それとも、何か怒らせてしまっただろうか。

 せっかくたくさん話せたというのに、上野に嫌なイメージがついてしまったら悲しい。

 しかし、あのやり取りはもう戻せない。

 何かお詫びをした方が良いかと、遠子は考えた。

 もしかしたら、さらに傷を広げることになるかもしれないが、せっかくできたきっかけだし、ここは動いてみるべきかもしれない、と遠子は思った。

 もう自分も、いつまでも恥じらってばかりの年齢でもない。

 遠子は、そこで書き出しの題材を決めた。


 帰宅すると、遠子は夕飯を用意しながら今日出す小説の構想を考えていた。

 一通り夜の支度が終わると、まだ集まりまでに時間はある。

 そのあいだに、考えていた物語を書きだしていくのだ。

 パソコンを起動し、キーボードの上に指を置く。

 その上を、滑るように指が動く。

 キーボードを弾いた指からは、光る蝶が舞い踊っていく。

 薄暗がりの中、その蝶の光が軌跡を描く。

 その蝶がディスプレイや遠子の周りを飛び回り、色鮮やかな世界を形作っていく。

 これは、誰も触れることのない、遠子の作り出す世界。遠子だけの世界。

 この世界に入り込むと、遠子はどんどんと世界の底へ没入していく。

 それを、遠子はいつも心地良く感じていた。

 仕事の文章にも自分なりのこだわりを持って向かっているけれど、小説を書く時の気持ちとはまた違った。

 今この時、自分の文章は世界を作っている。

 遠子はそう思っていた。

 文章を書けば、そこから命が動き出す。

 仕事の文章は、人に伝えるための手段。

 小説は、創造の力だった。

 楽器を弾くように指を動かしていた遠子だったが、ある時点で指が動かなくなり、動作を止めた。

「……ここまでで、いいか」

 遠子は、保存のキーを押した。


――こんばんはー。

 遠子がログインすると、部屋には皆集まっていた。

――おそーい、アオー。

 カナメが真っ先に言う。

――ごめんなさい。

 遠子は素直に謝った。汗を出して、頭を下げるしぐさをする。

――まぁまぁ。きっと書き出しをどうするか悩んでいたんです。練りに練った文章を期待しましょう。

 あきがさらっと言うが、余計に遠子のプレッシャーを高まらせた。

 あきは、穏やかな物腰だがこういうところもあった。

 きっとこれは、嫌味ではないと思うが、わざとだろう。

 私はこれにうまく返せず、無言になってしまった。

 汗をかいたしぐさをしたアバターを立たせたままだ。

――あんまりみんなでアオさんのこといじめないでよ。大人げないなぁ。

 EAが言う。もしかしたら、彼が一番精神的には大人かもしれないなと、青子は常々思っていた。

――挨拶はこのぐらいにして、そろそろ始めましょうか。

 ウミが言った。

 彼の言葉に、皆のアバターが返事をして、一斉に動いて持ち場につく。

 特に決めたことはないが、話をする時は円形になって、話をする順番に時計回りに位置するということになっていた。

――じゃあ、始めますね。

 遠子は、開始の言葉を言った。皆、黙っている。

 ここで一息おくと、遠子はキーボードを叩き始めた。



 俺には、入社から好きな女性がいる。

 彼女は、同じ年に入社をした同期だ。

 それは一目惚れだった。

 入社式の時、彼女は近くの席に座っていて、その姿をたまたま見かけて、まず自分の好みだった。

 それから気になって、研修の時からずっと見ていた。

 見れば見るほど、彼女のしぐさ、話し方、全てが好きになっていった。

 こんなに、一気にのぼせあがるような恋をしたのは初めてだった。

 だから、どうしたら良いのかわからなかった。

 同期の集まりの中、何とか彼女と連絡先を交換はしたが、メッセージを送ろうとすると、手が震えて何も考えられなくなった。

 そして、結局スマートホンをあきらめて置いてしまうのだ。

 そんなことを繰り返して、俺も入社から六年が経ち、後輩もできていわゆる中堅といわれる段階に差し掛かってきた。

 結局その間、彼女とは一言も会話ができないまま過ぎ去ってしまった。

 彼女も、もう俺のことをただの同僚としか思っていないだろう。

 今更声をかけたところで、彼女を警戒させてしまうかもしれない。

 だが、六年の間くすぶり続けた恋心は、簡単にあきらめきれないほどに俺の心に根づいてしまった。

 このまま、彼女を忘れることはできない。他の男に譲りたくもない。

 そんなことを考えただけで、気が狂いそうだ。

 せめて、彼女に声をかけて、自分という存在を忘れないようにさせておきたい。そう思った。

 彼女は経理部だから、そこに行く用事がある時は、積極的に彼女に声をかけるようにした。

 なるべく積極的に、経理部に顔を出すようにもした。

 わざと、経費申請を〆切ギリギリにして、彼女に声をかけるきっかけも作った。

 しかし、それでもただの同僚の会話まで。

 用事が済めば、それ以上のことは話さない。

 友人になら、世間話をはさめるのに。

 彼女と話そうとすると、急に頭が真っ白になって何も思い浮かばなくなる。

 だが今日、やっと彼女と仕事のこと以外で話をすることができた。

 普段きちんと仕事をこなす彼女が、珍しく虚ろな目で昼食を食べているなと思って見ていた。

 昼休憩も、なるべく彼女がいる時間を狙って休憩室に来ているのだが、いつもはせかせかと口に物をつめるようにして食べている。

 どうしたのだろうと気になって見ている時だった。

「いたっ」

 彼女はそう言って、自分の指を見つめる。

 恐らく自分しか見ていないであろう、彼女の決定的瞬間を見てしまった。

 食べていたサンドイッチがなくなっているにも関わらず、ぼんやりとしていた彼女は、そのまま自分の指を食べてしまったのだ。

 彼女にしては珍しい失敗だった。

 自分の指を見つめ、ばつが悪そうに顔を歪めている表情も、あまり見るものではなかった。

 その表情は、俺が一番見た中で一番かわいかった。

 あまりにもかわいくて、思わず笑みがこぼれてしまった。

 すると、彼女はそれに気づいたようで、俺の方を不審そうに見た。

 まずい、気づかれてしまった。

 俺は、ごまかすように彼女に微笑んだ。

「いや、笑っちゃってごめんね。その……かわいかったから……」

「え……」

 すると、彼女の表情が凍りついた。

 俺は焦った。妙に思われたかもしれない。

 それだけは絶対に嫌だ。誤解を解きたい。

「あ、あの……変な意味じゃなくて……いや、別に言葉以上の意味なんてないって意味でね……」

 だんだん言っていて、さらに自分の不審さが増しているだけではないかと思えてきた。

「はは……何言ってんだろうね……」

 結局、弱々しくごまかすことしかできなかった。

 どうしよう。明日からもう彼女に話しかけられないかもしれない。

 俺は、顔には笑顔を貼り付けたまま、絶望的な気持ちに心が占められていた。

 すると、彼女は小さく吹きだすように笑った。

「遠野さんこそ、かわいいですよ」

 その笑顔も声も、俺にとっては会心の一撃だった。

 体中の血液が速度を増し、急激に巡るのを感じた。

 俺の様子がおかしかったのか、彼女は口を覆って俺を怪訝な顔で見ていた。

「え……」

 俺は何か言おうと思ったが、何も出てこず音だけが漏れた。

 動揺をしていることが丸わかりすぎて、余計に恥ずかしくなる。

 結局何も言い出せず、彼女も何も言わず、沈黙の時間が過ぎた。

「あ、あの! 休憩の邪魔してすみません! それじゃ!」

 俺は意を決して、とにかくここを抜け出したくて切り上げる言葉を言った。

 あとはそのまま立ち去るだけだ。

 彼女がどういう表情をしていたかは知らない。

 正直、明日からどういう顔をして彼女に会えば良いのかわからない。

 そう思いながら、次の日会社に来たら、俺の悩みは杞憂だったとわかった。

「遠野さん」

「はい!」

 廊下ですれ違った彼女に声をかけられ、俺は驚いて思わず裏返った声で返事をした。

 もう穴があったら入りたい。

「良かったら、これどうぞ」

 恥ずかしさで彼女の顔を見れなかったが、彼女は特に気にした様子もなく、何かを俺の方に差し出した。


――ここで終わりです。

 遠子は、チャットを打ち込む。

 周りのアバターたちが、パチパチと拍手の動作をした。

――主人公の名前は、なぜ遠野さんなの?

 EAが聞く。彼はキャラクターの設定などをよく聞きたがる。好奇心が旺盛なのだ。

 特に指定がなければ、キャラクターの名前や設定は、参加者それぞれが付加しても良いことになっていた。

 遠子は、今回名前がないとさすがに不便だったので、勝手につけさせてもらった。

 上野をモデルにしているが、そのままつけてしまうのはさすがに気が引けたし、ウミが上野だった場合、自分が同じ会社にいることをさとられてしまう。

 ただ、新たに考えることもできず、自分の名前と混ぜてつけることにした。

 さすがに安直すぎるとも思ったが、何となくしっくりきていた。

 由来を聞かれたら、何と言おうかは一応考えていた。

――遠野が、好きだから?

――何で疑問形なんだよ笑

 遠子が答えると、カナメがすかさずつっこんだ。

 我ながら苦しい言い訳だと思ったが、カナメが茶化してくれたから何となく雰囲気が流れてくれた。

 こういう時、カナメのキャラクターは助かる。

――遠野、って岩手県の遠野?

 SAKURAのチャットが浮かび上がる。

――うん。遠野物語が好きで、今もたまに行くの。

 こういう時にSAKURAが喋るのは珍しい。

 いつも、黙って他人の話を見て、それに合わせて話を書く。

 聞かれたこと、または必要なことだけを答えるだけの彼女であった。

――私も、遠野物語好きなの。

 同じ文字で表されているのに、彼女はそう控えめに言ったように見えた。

 遠子は、一瞬その言葉をすぐに飲み込めず固まっていたが、慌ててキーボードを叩いた。

――そうなんだ! SAKURAも好きなの嬉しい! 現地にも行ったの?

 何年も一緒にいるのに初めて知ることは、どこかにあった。

 その度に、遠子は嬉しくなって、一気に文字を出していた。

 SAKURAのアバターは、うなずく仕草をした。

――うん。学生の頃から、定期的に行ってるの。

「そうなんだー」

 思わず、画面を見ながら声が出ていた。

 だが、それは画面の向こうのみんなには届いていない。

――お話のところごめんね。とりあえず、作話の方に戻ろうか。

 そこへ、ウミの発言があった。

 遠子は、はっと口に手を当てた。

 つい話し込んでしまった。

 ウミさんは、あまり口をはさまないが、こういう時はやはり場のマスターとして仕切ってくれるのがありがたいし、さすがだと思った。

――すみません。

 SAKURAと遠子は、それぞれ詫びの言葉を発言した。

――さすが、ウミさーん。

 カナメは、また茶化す。

――カナメさんも、いちいち茶々を入れない。

 皆がどっと笑う動作をした。

――はいはーい。

 カナメのアバターは、にこにこしながら、大量の汗を出す動作をしていた。

 カナメらしい動作に、遠子は思わずくすりと笑った。

 その後は、特に自分の小説への指摘はされず、簡単に感想を言い合ってお開きとなった。

 遠子は、自分の番がとりあえず終わって安心した。

 次は、素直に仲間たちの小説を楽しみに待つことができる。

 その時だった。

 遠子のパソコンに、メールの通知が浮かび上がった。

 それは、ウミからのメールだった。

 メンバーとは、メールアドレスを交換しあっている。

 たまに、小説を書くのに煮詰まると、前の話を書いている人にどういう意図で書いたか聞いたり、単純に作業を一緒にしてもらうために通話してもらったり、そういう連絡をするのに利用する。

 ウミとも、企画のことで質問をしたり、複数名で通話をする時に連絡のやり取りをしたことがあった。

 今回の件があったので、少しいつもより緊張しながら、メールを開いた。

 その文面を見て、遠子は固まった。

 正確には、そこにあったある文を見て。

〈今日のアオさんが書いてくださったお話に、モデルはいませんよね?〉

 どうして、ウミがそのようなことを気にするのだろう。

 もしかして、あの話に身に覚えがあるからだろうか。

 やはり、ウミが上野さん?

 遠子は、様々な考えが頭を巡っていた。

 いや、単純に自分の話の作り方がおかしかっただろうか。

 自分でも、妙に熱が入ってしまったような気もする。

 だが、全く自分の考えと違う問いなのかもしれない。

〈いませんよ? 何か気になることがありましたか?〉

 どちらにしろ、遠子はそれに正直に答えるわけにはいかなかった。

 返信にメッセージを打ち込み、遠子は送信した。

 さりげなく、どういう意図で聞いてきたのかも探るように。

 すると、すぐにまたメールの通知音が鳴った。

 遠子は、素早くメールを開く操作をする。

〈そうでしたか。すみません、とてもキャラクターの心情がリアルだったので、遠子さんか知り合いにこういう経験があったのかと気になっただけです。今度良かったら、どういう風に考えてキャラクターを動かすのか教えてください。それでは、失礼しました〉

 とりあえず、遠子はほっと胸をなでおろした。

 この返答で、特に問題はなかったようだ。

 しかし、本当にキャラクター談義になった時に、ウミに何と言ったら良いのかは、考えなくてはいけないようだ。

 遠子には、また考えることが増えてしまった。

 だが、もやもやとした気持ちを抱えながらも、眠気は襲ってくるものだ。

 遠子は、ベッドに入り込むとすぐに眠りに落ちた。


 そして次の日も、変わらない毎日がやってきた。

 そう思っていたが、遠子は異変に気づいた。

 遠子が会社に出勤すると、いつもは早めに来ている隣の机の同僚の姿がなかった。

 どうしたんだろうと思いつつ、特に美咲からも何も連絡がないし、単純に今日は遅れているだけかもしれないから、遠子はそのまま自分の仕事の準備を始めた。

 だが、朝の確認事項が終わり、業務開始となっても遠子は現れなかった。

「誰か、野中さんから連絡ない?」

 主任が、部内の皆へ聞きに来た。

 会社にも、遅刻する旨の連絡は来ていないらしい。

 今までそんなことがなかったので珍しい。

 何か事故に巻き込まれたのだろうかなど、部内の皆が不安になった。

 すると、そこに電話が鳴った。

 主任が素早く電話を取ると、その顔に安堵の色が浮かび上がった。

 それだけで、周りの皆は美咲から連絡があったのだとさとった。

 主任は、極めて淡々と会話をしている。

 そして、電話が終わって受話器を置くと、ふうと小さく息をついた。

 固唾をのんで見守る一同に、主任は視線を向ける。

「美咲さんは、朝トラブルに巻き込まれていたそうです。彼女は無事で、明日はいつも通り出勤できるそうなので、今日は彼女の分の仕事を皆で分担して行っていきましょう」

「はい!」

 主任の言葉に、一同はそろって返事をした。


 そして週末。

「お疲れさまでしたー」

 その日の仕事を終え、遠子は席を立った。

 周りからは、お疲れーと声を返されるのを受けながら、遠子はさっさと荷物をまとめて部屋から出る。

 今日は一人いない分、隙もないほどきりきり働いた。

 精神的な疲れだけでなく、身体的な疲れもあった。

 だが、すっきり仕事が終われたので気分は良い。

 遠子は仕事の終わりは、いつもすきっと終わらせることをモットーにしている。

 自分の創作の時間を確保するためだ。

 ただ、帰りながら美咲のことは気になったので、メッセージアプリを起動する。

――美咲、今日は災難だったね。また明日会社で!

 返事をさせるようなメッセージだと、彼女のことだと気を遣わせてしまうから、この程度にしておこうと思う。

 色々気になることはあるが、明日会社に来てから色々聞けば良い。

 携帯の画面を消して、遠子はカバンの中に入れた。

 そして、遠子は家路を急いだ。

 同僚のことも気がかりではあったが、遠子にはもう一つ気がかりなことがあったのだ。

 ひとまず美咲の無事は確認できたし、目下自分の心配ごとの方を気にしてしまうのはしようがなかった。

 今日は何と言っても、自分の次の物語が聞けるのだ。

 あの続きを聞いて、この週末に上野に何を贈れば良いのか選びたかった。

 遠子の頭は、それでいっぱいになっていた。

 いつものように、家に帰り、まずは服を着替える。

 流れるように作り置きしていた食事を電子レンジへ入れ、スイッチを入れる。

 食器を用意し、温められた食事をそれにのせていく。

 テレビをつけて、何となく流し見をしながら食事を口に運ぶ。

 食べ終わったらすぐに食器を片付け、片付けながら入浴の準備をする。

 本当なら、多少食休みが必要なのだが、そんな暇は終業後の夜の時間にはない。

 入浴も烏の行水だ。

 いや、それは言い過ぎかもしれないが、全身を洗って数分入浴をして体を温めたらすぐに出る。

 服を着て、冷蔵庫から炭酸水を取り出し、それを開けながらパソコンの前に座った。

 これで、完了だ。

 こうして落ち着いて、パソコンに向かえるのだ。

 遠子はパソコンの電源をつけ、すぐにチャットの画面を開く。

 調べものができるように、ブラウザをもう一つ開き、メモ帳も開いておく。

 手元には、念のためにスマホも用意する。

 主にメッセージをチェックするためだ。

 音がないと寂しいので、BGMを流すようにパソコンのオーディオアプリも起動する。

 よし、いつでも参加できる。

 そう思えたら、遠子は入室のボタンを押すのだった。


――こんばんはー。

 遠子がチャットを入れると、部屋の中にいた全員から挨拶が返ってきた。

 いたのは二名。ウミはいつも一番最初にいる。

 EAは、時間のとり方がまばらだが、余裕がある時はとても早く来る。

 今日は余裕のある日だったようだ。

 そして、今日は彼が遠子の物語の続きを書く番だった。

 書く順番は、くじのアプリで毎回ランダムに決められている。

 ウミがそれを引き、メンバーに伝えるのだ。

――EA君の小説楽しみだなー。

 遠子は、つい浮き立つ心を押さえきれずに言った。

――プレッシャーですよ、アオさん……。

 EAは、汗を流すしぐさをした。

――ごめんごめん。いつも自分の次の人の作品期待しちゃうんだよね。

――その気持ち、わかりますよ。

 ウミもアオに同意を示した。

――ですよねー。

 遠子は、つい嬉しくなって返した。

――こんにちはー。

 そうしていると、続々とメンバーが入室してきた。

 挨拶もそこそこに、EAの話が始まった。



 彼女が差し出したものは、小さな袋菓子だった。

 コンビニで売ってそうな、食べ切りサイズのスナック菓子だ。

「え?」

 俺は突然差し出されたそれの意味がわからず、その場に固まってしまった。

 すると、彼女は照れたようにはにかんで笑った。

「私このお菓子好きなんです。良かったら食べてみませんか?」

 差し出されたものを、俺はそのまま受け取った。

「あ、ありがとう……」

 彼女の意図がつかめなくて、何と言えば良いのか俺は迷っていた。

「あまり好きなものじゃなかったかな。それなら……」

「いや! 大丈夫! 好きだよ!」

「え……」

「あぁー! 好きっていうのは、こういうお菓子が好きってことで……」

 俺はとてつもなく恥ずかしかった。

 こんなのもう好きだって言っているようなものだ。

「そんなに必死にならなくても……ふふっ……わかってますよ……」

 すると、目の前の彼女はおかしそうに腰を曲げて口元を隠して、震えるほど笑っていた。

「そ、そうだよね……」

 俺はぎこちなく笑って返すことしかできなかった。

「嫌いじゃなくてよかった。それじゃ、呼び止めてごめんね」

 そう言うと、彼女は去っていった。

 俺は、もらった菓子袋をついぎゅっと握りしめていた。

 やっぱり彼女の前では、うまく話すことができない。

 いい加減、この状況を何とかしたいとは思っていた。

 まだ彼女に恋人がいるという話は聞いたことがない。

 もうすでに手遅れかもしれないが、このままただの同僚として終わりたくないとは思っていた。

 恋に破れるなら、せめて当たって砕けたい。

 そう考えながら、俺はもらった菓子の袋を開けていた。

 中の菓子を一つ取り出す。

 一件すると、チョコレートのように見える。

 口に入れると、ほろりと溶けるような口どけに、焼き菓子であることがわかった。

 少しほろ苦い味が、俺の好みだった。

 食べるたびに、先ほど見た彼女の顔が思いうかぶ。

 今まで思ってきたんだ。あきらめられない。

 これからは、積極的にいこう。

 菓子を一口噛みしめるほどに、俺はその思いを強くした。



――これでどうでしょう?

――あ、終わり?

 そう発したのはカナメだった。

 カナメは、本当にチャットで会話しているのだろうかというほど、思ったことをそのまま言葉に出す。

 遠子はその発言を見ながら、顔を歪めた。

 書く長さは、個々人の自由となっている。

 暗黙の了解で、長さに関する発言はしないようにしていたが、カナメはあまりそういう空気を読まない。

――あ、そうです……。ちょうど良い切れ目だと思ったので……。やりづらいですか……?

 文面だけではわからないが、EAはすっかり恐縮していそうだ。

 これは助け舟を出そうと、遠子はキーボードに指を置いた。

――私が言うのもなんですが、次の話者に要素を考えてもらうように話を振るのは楽しいと思いますよ。

――よかったー。

 EAは、笑顔のしぐさをした。

――私もそう思います。それぞれ自分の考えた設定や展開があると、自分の作った話としても愛着わきますしね。

 あきもコメントをしてくれた。

 こういう時に頼れるのはやはりあきだ。

 遠子は、自分の言葉だけでは不安だったので、加勢してもらえたのは正直安心した。

――いいなー。EAはみんなにかわいがってもらえて。俺も褒められたいー。

 二人の言葉に、カナメはちゃかして返した。

 とりあえず、EAについてはこれ以上触れられなさそうで遠子はほっと息をついた。

――面白い話書いたら、褒めてあげるよ。

 カナメの言葉に、遠子も憎まれ口で返した。

――はい、それじゃあ次に書く人を決めますよ。

 そこに、ウミの〆の言葉が入った。

 アオは手厳しいなぁとぼやきながら、皆それぞれ自分のくじを引いた。

 次の担当はカナメになった。


「何だかんだ言ってた人が当たっちゃったわねー」

 遠子は、あははと笑いながらパソコンを閉じた。

 くじが当たった時、カナメはマジかーと大げさにリアクションしていたし、皆笑っていた。

 カナメは、空気を凍らせることもあるが、何だかんだ皆のことをなごませる。

 良い意味でも悪い意味でもムード―メーカーだった。

 だからカナメは、このメンバーにもなじんでいた。

 なんだかんだ似通ったどちらかと言うと静かな雰囲気のメンバーの中、彼が良い刺激になっている。

 遠子も、それのおかげで集まりを面白く感じて続けられているところもあった。

「さて、寝よう」

 そうして、遠子はいつものようにベッドに横になるのだった。


 次の日、会社に同僚の美咲が来た。

「おはよう! 美咲!」

 遠子は、隣の席にいる美咲に声をかけた。

 つい嬉しくて、声を妙に張ってしまった。

 美咲は、その遠子に穏やかな笑みを向ける。

「おはよう、遠子」

 いつもの美咲だ。

 遠子は、その顔を見れてほっと安心した。

「美咲、大丈夫だった? このあいだは大変だったみたいだね」

「うん、大丈夫だよ。助けてもらえたし」

「そうか、よかったよ。気にしないで……って言っても無理だろうけど、何かあったら言ってね。話聞いたりとかはできるし。今日一緒にご飯食べに行く?」

 遠子が言うと、美咲は嬉しそうにうなずいた。

「うん。誰かと食事したいって思ってたの。どこがいいかな?」

「近くに良さそうな新しいカフェがあるの見つけたの。看板のおすすめメニューがおいしそうで、気になってたんだよね」

「いいね、行ってみよ。混んでないといいね」

「そうだね。お昼休みになったらすぐに行こ!」

 遠子と美咲は、お互いに笑い合いながら席についた。

 そして昼休み、美咲と二人でランチに行く途中、廊下ですれ違った人物がいた。

「あ、上野さん」

 遠子は、その人物にも用事があったので声をかける。

「こんにちは、青島さん」

 上野は声をかけられて、遠子に気づいて笑顔を向けた。

「これ、私の好きなお菓子なんです。良かったら食べませんか?」

 これをするのも、なかなか勇気が必要だった。

 自分がきちんと笑顔でいられているか、不安だった。

「あ、ありがとう……」

 上野も、戸惑った表情を浮かべながら遠子の菓子を受け取っていた。

 突然こんなものを渡したら、そりゃ戸惑うだろう。

「あ、あまり好きなものじゃなかったらごめんね……」

 少し弱気になって、引っ込める言い訳をしてみた。

 すると、上野は大きく首を振った。

「大丈夫! 好きだよ!」

「あ、そ、そっか……良かった……」

 上野の勢いに、遠子は気圧されてぎこちなく笑い返す。

 上野も気まずそうに、遠子から少し視線をそらした。

「あ、あの……俺こういうお菓子は好きだから……大丈夫だから……」

 何だか言い訳しているように、口の中でもごもごと言う。

 遠子は、その様子がかわいらしく見えて、思わず笑みがこぼれた。

「大丈夫です……ふふっ……わかってます……」

 言っている途中も、笑いをこらえきれずに漏れてしまった。

「う、うん……」

 上野は、ぎこちなく笑みを返した。

 彼も、こういう風に気まずくなることがあるようだ。

 彼のこういう面が見れただけでも、話しかけて良かったと思った。

「嫌いじゃないようなら良かった。呼び止めてごめんね。それじゃ」

 そう言って、遠子は美咲と共にランチへ向かった。


 その日は二人でランチに行ったし、いつも通りに仕事を終えることができた。

 きっちり定時で仕事を終えられて、とても良い一日だった。

 このまままた日常が続くと、遠子は思っていた。

 だが、その日から美咲の様子がだんだんとおかしくなっていった。

 どこが、というと具体的に言えないのだが、仕事をしていてもぼんやりとしていて、聞き逃しやミスが多くなった。

「美咲、何かあった?」

 遠子は心配になり、美咲に声をかける。

「ううん、大丈夫。ごめんね、最近調子悪くて……」

 美咲はそう言って、笑顔で首を振るだけだった。

 美咲とは仕事から知り合った仲間ではあるけれど、休日は二人で出かけたりもするし、ある程度お互いに話せる友人だと思っていた。

 だから、単純によそよそしい態度を取られるのが寂しかった。

 そう思うほどに、美咲の様子は明らかにいつもと違って見えたのだ。

 大丈夫と言われたものの、美咲の様子が改善する様子はなかった。

 気にはなったものの、美咲に拒絶されてしまっては、遠子にはこれ以上何もできなかった。

 遠子は、どうにかできる術も思いつかなかった。

 そうして日々は過ぎ去り、美咲がついに職場に来なくなった。

 最初に来なくなった日から、連絡がつかなくなり、二、三日過ぎたある日のことだった。

 突然美咲から連絡がきた。

 まず、無断欠勤の謝罪があり、仕事を辞める旨が伝えられたという。

 主任の電話口での会話に、つい遠子は聞き耳をたててしまっていた。

 電話が終わった後、主任から美咲が会社を退職することを告げられた。

 意志は固く、ただひたすら申し訳ないと謝りながらも、辞めることを撤回はしなかった。

 来週、簡単な引継ぎと、会社にある私物などを整理しに来るらしい。

 遠子は、できればそこで最後にみんなで送別会でもしたいと考えていた。

 同僚たちや同期にも声をかけ、何人か集まりそうだ。

 美咲にもそれを伝えた方がより確実ではあるのだが、遠子は美咲への連絡は気が進まなかった。

 彼女へのメッセージ欄を開くと、指が震える。

 私が彼女に何を言ってやれるのだろう、と遠子は陰鬱な気持ちになっていた。

 でも、自己満足でも良いから別れが寂しいことだけは伝えたい。

 メッセージは送れなかったが、遠子は美咲が来る日を楽しみに待つことにした。


 遠子は、それから夜の集まりも気もそぞろになっていた。

 いつもの習慣でログインするものの、話をする気にもなれず、すぐにログアウトしてしまった。

 何もしない時間だけが、ただ過ぎていく。

 気になるなら、連絡すれば良いのに。

 遠子は、わかっていた。

 ただ、自分はいじけているだけなのだ。

 友人と思っていたのに、美咲にとってはそうでもなかったことがショックだったのだ。

 そしてその中、美咲は最後の出勤のために会社に来た。

 遠子はそんな気持ちもあり、挨拶以外はなかなか美咲に話しかけることができないでいた。

 だが、美咲が帰ろうとしたところで、意を決して声をかけた。

 何とか、送別会に誘うことはできた。

 決まれば、遠子の動きは早い。

 すぐに同期や同僚の予定をまとめて、店を予約する。

 行動を起こせば、気分も上がってくるので、遠子はほっとしていた。

 快く美咲を送り出せそうだ。

 このまま、少し時間がたてば、また美咲と友人として会えるようになるだろうと思えた。

 同期に声をかけている途中、遠子は上野を見かけた。

「上野さん」

 ちょうど良いと思い、遠子は声をかける。

 以前は目が合っただけでも緊張したが、今は少し慣れた。

 きっとあの昼休みからだろう。

 上野は、いつものように気さくな笑顔で答える。

「青島さん、どうしたの?」

 何だかウキウキと浮かれているようにも見えたが、遠子はとりあえず自分の用件を伝えることにした。

「同期の野中美咲さんわかる? 彼女が退職をするから、今日みんなで送別会をしたいと思ってるの。よかったら、参加しない?」

「うん、ぜひ行かせてもらうよ。お店の場所だけ教えてもらえる? もしかしたら少し遅れるかもしれないから」

「うん、ありがとう。お店はね……」

 遠子は、青島に予約した店の場所を教えてその場を去った。

 再び美咲を呼ぶために、オフィスに遠子は戻った。

 誰もいない部屋の中、美咲は机の前に立ち、そっと撫でていた。

「美咲……」

 遠子は、何となく気後れしながら美咲の名を呼ぶ。

 美咲は遠子に気づき、淡く微笑んだ。

「遠子、呼びに来てくれたの? ごめんね」

「ううん。今日の主役だからね」

 遠子は、美咲に近寄って、机の前に並んだ。

「……本当にやめちゃうんだね……」

「うん……遠子にも、何も言えなくてごめん……」

 美咲は、さらに何か言おうと口をわずかに開いていたが、息をついて閉じた。

 何かを彼女は、あきらめたように見えた。

 どこか美咲への気持ちが一瞬冷めていた遠子だったが、それを見てまた切ない気持ちがうずいた。

 やっぱり、仲良くなった友人をあきらめたくなかった。

「……いつでも連絡して。また一緒にお茶しに行こう。私も、また電話もするし、メッセージも送るから。だから、お返事ちょうだい」

 遠子の言葉に、美咲は驚いたように彼女を見た。

 遠子は、視界が潤むのを感じた。

 色々な感情が沸き上がってきて、抑えられなくなってきた。

 自分は、美咲に対して大きな感情があったこと実感した。

 言葉も、詰まりながらになってしまって、美咲に気づかれたかもしれない。

 少し恥ずかしくなって、遠子は視線を下げる。

 すると、美咲は遠子の手を両手でそっと握った。

 遠子は、驚いて顔を勢いよく上げた。

「ありがとう」

 美咲の満面の笑みが、そこにあった。

 遠子は、それだけで満たされた気持ちになった。

「……いっぱいメッセージ送るから……いつか、ちゃんと話してね」

 素直な気持ちが、ぽろりとこぼれ出た。

 美咲は、ゆっくりとうなずく。

 笑顔から、少し申し訳なさそうに眉を下げた。

「うん……ごめんね……」

 美咲はそう言った後一呼吸おいて、口を開いた。

「本当に、ありがとう……」

 握る手に、ぎゅっと力をこめて美咲は言った。


 退職日にする仕事もなく、美咲は早めに会社を出た。

 皆が集まる時間までまだ少しあるので、買い物でもすると言っていた。

 新しい場所に住むらしく、色々準備しないといけないようだ。

 そう話す美咲は少し複雑そうな表情をしていたが、新しい生活への期待に目が輝いているようにも見えた。

 美咲が少なくとも今の状況に満足しているようで、遠子は良かったと思った。

 そして同時に、そんな美咲をうらやましく思えた。

 自分はどうだろう。

 仕事もプライベートも、何も変わらない生活を続けている。

 恋すらも、ずっと片思いのままだ。一歩すら踏み出せない。

 そのままが心地良いと思って、何もしないのだから当たり前だ。

 少し心に靄のようなものを抱えながら、遠子は退勤の時間まで仕事をこなした。


 今日は幹事なので、みんなで協力してきっちり今日終わらせる仕事は退勤時間までに終わらせた。

 時間になると、皆一斉に立ち上がる。

「先に行ってます!」

 遠子はそう言い残すと、誰よりも先に部屋を飛び出した。

 会社の入口に近づくと、人影が見えた。

 もう営業も終わる時間で、この時間に外から人が来るなど珍しいなと遠子は立ち止まる。

 すると、その人物も遠子に気づいて近づいてきた。

 逆光で、表情はよく見えない。

 遠子は、つい身構えてしまった。

「すみません、少しよろしいですか?」

 すると、穏やかな男性の声が聞こえた。

 身長は高くて迫力があるものの、優しく微笑む男性がそこにはいた。

 その男性の顔立ちが整っていたので、遠子は思わず惚けて見てしまった。

「あの……?」

 戸惑う声に、遠子は我に返る。

「あ、すみません。会社の者にご用ですか?」

 遠子が答えると、男性は安心したようにまた表情をやわらげた。

「はい。私は野中さんの友人の吉岡宣仁といいます。野中美咲さんと約束があったんですが、遅かったのでこちらに来てしまいました。いらっしゃいますか?」

 遠子は、不審そうに眉を寄せる。

「どういったご関係ですか? あまり社員のことは話せないのですが……」

「あぁ、これは失礼しました。私は、野中さんの恋人なんです」

 吉岡と名乗った男性は、朗らかに笑ってそう言った。

 その答えに、遠子は驚いて目を見張った。

「あぁ、そうだったんですか! それは残念でした。入れ違いでしたね。野中さんはもうすでに退社してるんです」

「……そうでしたか。ありがとうございます。それじゃあ……」

 言うと、吉岡はすぐに踵を返して去ろうとした。

「あ、待ってください」

 遠子が声をかけると、もう背を向けようとしていた吉岡は、再び姿勢を戻した。

「この後会社の送別会があるので、また会うことになっているんです。よかったらそこに行きますか?」

 その時、吉岡の目が一瞬鋭く光ったように見えた。

 だが、次の瞬間にはまた穏やかな顔つきになった。

 あまりにも素早い変わりように、遠子は先ほどの変化は気のせいだと思った。

「……いえ、会社の皆さんとの場に行くのはさすがに遠慮しておきます。連絡すれば大丈夫だと思いますので。でも、念のためにお店だけ教えていただけますか?」

 そう言うので、遠子は吉岡に店の場所を教えた。

「……ところで、吉岡さんって美咲とどういう感じで知り合ったんですか?」

 つい好奇心で、遠子は聞いてしまっていた。

 初めて会った相手に無粋すぎると思ったが、今まで美咲に恋人がいるなどという話は聞いたことがなかったので、とても興味があった。

 もしかしたら、美咲が退職した原因かもしれない。

 吉岡は一瞬戸惑った表情を浮かべたが、照れくさそうに笑いながら簡単ななれそめを話してくれた。

 吉岡は、美咲が遅刻した日に偶然の再会をしたらしい。

 やはり、美咲の退職の原因は彼にあるかもしれない、と遠子はより確信した。

 これは後で詳しく聞かなければ、とも思っていた。

 そして、吉岡は話すとすぐに立ち去っていった。

 少し心配ではあったが、親しいのなら連絡を取るだろうと思い、遠子はとりあえず送別会の会場へ向かった。


 送別会は、つつがなく終わった。

 美咲も楽しそうに過ごしていたし、始終場も明るい雰囲気だった。

 これで気がかりなことは、一通り終わった。

 週末の星屑ラジオの集まりも、心置きなく参加できるというものだ。

 遠子は、心地良い気分で帰路についた。

 帰宅してからのチャットも、他愛のない会話を楽しめた。

 その日、いつもいるウミが参加していないのが気がかりであったが、明日には全員に会えるからと、遠子は特に気にしていなかった。


 そして休日の夜。

 この日は、メンバーが全員そろった。

 理由のない嫌な予感を抱えていた遠子は、少しほっとした。

――今日はウミさんの日ですねー。めっちゃ期待してますー。

 カナタは、また調子の良いことを言う。

 そのチャットのコメントを見ながら、遠子はやれやれという気持ちで小さく画面の前で息をついた。

 ウミのアバターは、笑う仕草をした。

――プレッシャーですね。期待に応えられるものだと良いのですが。

 ウミはそう言いながら、物語を語りだした。



 彼女と食べ物のやり取りをしてからは、またいつもの日常が過ぎていった。

 結局、ただの仕事場でたまにすれ違う程度の同僚から何も動けていない。

 そんなある日だった。

 彼女の同僚であり、友人であり、さらには同期である女性が退職することになった。

 彼女の送別会には、同期も案内があったので、俺はもちろん参加することにした。

 彼女は幹事だろうから、最初から参加するだろう。

 今日は定時に仕事を終わらせて、なるべく最初から参加したかった。

 長く一緒にいれば、どこかで話す時間が取れるかもしれない。

 それを期待して、俺はきっちりその日定時で仕事を上がった。

 そこまでは良かった。

 そこで俺は、会社の入り口に向かうところである場面に立ち会った。

 入口で、彼女と見知らぬ男性が向かい合って話していたのだ。しかも、なごやかに。

 物で頭を殴られたような衝撃を感じて、しばらく動けなかった。

 他に誰もいなかったので、物陰から二人を見守った。

 二人は話をしただけで、男性は会社から去っていった。

 彼女も、男性を見送るとすぐに彼とは反対の方向に歩いていった。

 彼女は、きっとこのまま送別会の店へ向かうのだろう。

 誰もいなくなったエントランスホールで、俺はしばらく動けずにいた。

 

 気づいたのは、同僚に声をかけられた時だった。

 肩を叩かれ、俺はそこで我に返った。

 どうしたんだよと笑われて、彼らと一緒に送別会の会場へ向かった。

 一番に出てきたのに、結局着いた時にはもう大勢集まっていた。

 彼女は忙しそうで、声なんてかけられそうになかった。

 結局そのまま同僚たちと席を囲み、送別会の時間は過ぎていった。

 送別会をされる同期とはあまり話をしたことがなかったので、俺から声もかけづらく、いつもの飲み会とあまり変わりがなかった。

 我ながら、数年かけて築いたこじらせ方は、そう簡単にとけないものであることをまた実感した。

 しかしなかなかあきらめきれず、送別会はだらだらと最後まで残ってしまった。

 酒は強い方ではあったが、何時間も飲み続けていると、さすがに結構酔いがまわってくる。

 彼女が開く飲み会は、だいたい二次会はないので、ここで終いとなる。

 それも見越して、俺は残っていた。

 最後にシメの挨拶をして、送別会はお開きとなった。

 終わってみると、あっけないものだったようにも思う。

 特に関りがなかったが、これで一人の人間が明日から会社に来なくなると思うと、少し物寂しいものを感じた。

 ずっと一緒に働いてきた同僚の彼女なら、その気持ちもひとしおだろう。

 店の前に出た時、皆を見送って一人で帰ろうとする彼女を見かけた。

「***さん!」

 俺は、その時には勝手に体が動いていた。



――ここで切らせていただきます。

 そうウミが言った。

――彼女には、あえて名前つけなかったんですか?

 EAが聞いた。

 若い彼は、他人の創作で気になるところがあると、吸収しようとする意欲がとても感じられた。

 そして、確かにその部分は気になったので、皆黙ってウミの反応を待った。

――えぇ。私はこの彼女に名前をつけたくないと思ったんです。

 でも、この後書く人が彼女に名前をつけるのは自由だと思います、とも加えた。

 だがそんなことを言われたら、他の皆も名前がつけづらいに決まっている。

 そういう無言の圧を感じた。

 それには、何となくこれ以上の理由の掘り下げをさせない圧もあった。

――次どういう展開にしようか悩むねー。お話も盛り上がってきたし。

 すると、カナタが口を開いた。

 こういう時の、空気を読まないカナタの発言は助かる。

――まるで、次自分が書くみたいな言い方だね。

 遠子は、笑いながらチャットをうっていた。

 アバターも笑顔になる。

――次は俺になる気がするんだよねー。

 そう言いながら、小説を書いていない残りのメンバーでくじを引いた。

 すると、カナタのアバターが勢いよく手を挙げた。

――ジャジャーン! やっぱり俺だな!

――楽しみにしていますね。

 ウミは何気なく言ったが、何となくその場にいたウミとカナタ以外のメンバーは、その言葉に重みを感じていた。


 ふう、と遠子は一息ついた。

 物語についてひと段落つくと、あとは皆のんびりと雑談モードに入る。

 それぞれのタイミングで抜けたりしても良かった。

 遠子は、皆の会話をのんびり聞くのが好きで、だらだらと飲み物を片手に画面を見るのが常だった。

 だが、今日はどうしようかと思案していた。

 思案しているうちに、皆の会話は目の前の画面にログとして出てくる。

 そのログは、ただ遠子の視界の上を滑っていった。

 そうして遠子が思い悩む原因は、今回のウミの物語の内容だった。

 物語が、最近自分にあったことと重なる。

 同僚の送別会。会社のエントランスで理紗の彼氏に話しかけられたこと。

 それを誰かが見ていたことは知らなかったが、状況がとても酷似していた。

 送別会の後も、そういえば上野に話しかけられた。

 帰る方向が同じだから途中までと言って、他愛もない会話をして駅まで行き、途中まで同じ電車に乗って別れた。

 特に、いつもと代わりない穏やかな彼であった。

 彼が、このように自分に特別な感情を抱いているなど考えたことがなかった。

 これは、ただ単に状況が似通っただけなのか。

 ウミが上野だと考えるのは、自意識過剰だろうか。

 どう考えれば良いのか、遠子はわからなくなっていた。

 混乱していたから、こんな考えが浮かんだのかもしれない。

 遠子は、気づいたらメッセージソフトを起動して、上野にメッセージを送っていた。

《上野さんへ お話したいことがあるので、通話できませんか?》

 送った後、詠美の心臓は大きく跳ねていた。

 キーボードに触れた手すら、鼓動を感じた。

 思わず震える手を、もう片方の手で押さえて、胸に抱えた。

 返事がすぐにくるかもわからないのに、しばらく画面の前で待っていた。

 すると、返事を知らせる通知音が鳴る。

 遠子は、慌ててすぐにそのメッセージに飛びついた。

〈わかりました。ソフトとID教えていただけますか?〉

 その後に、上野が使うソフトとIDが記されていた。

 特に当たり障りのないメッセージで、遠子はほっとした。

 すぐにそのメッセージに返信をし、自分もソフトを起動して待った。

 すると、通知が入る。

 IDは知らないものだった。

 恐らくウミだろうと、遠子はそれに応答した。

「こんばんは、アオです」

 すると、通話マイクの向こうで息を飲む気配を感じた。

「……こんばんは、ウミです」

 返ってきた声に、遠子は確信した。

 この声は、遠子の知っている上野の声だ。

 マイクを通していても、間違いようがない。ずっと片思いしている相手の声なのだから。

 そう思うと、遠子の気持ちは抑えられなくなっていた。

「ウミさんは、もしかして……上野さん、ですか?」

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