第2話 星と歩む学問の日々
江戸に出てからの日々は、伊能忠敬にとって試練そのものだった。
師となった高橋至時のもと、天文学・測地学を基礎から徹底的に叩き込まれる。
「子午線一度の長さを知らずして、地球の大きさは測れぬ」
至時の言葉は鋭かった。
「星の運行を知り、角度を測り、計算を尽くさねばならぬ。地図は感覚では描けぬのだ」
忠敬は必死に学んだ。昼は算盤を弾き、三角関数の計算に挑む。夜は星図を広げ、庭に観測器具を据えて北極星を追う。
老いた目は霞み、手は震えた。だが彼は休まなかった。
「師匠、本当に五十五の人ですか……」
若い弟子が呟く。
彼らもまた徹夜の観測に疲れ果てていたが、忠敬の背中だけは揺るがなかった。
ある夜。観測を終え、冷たい露に濡れた机で計算を繰り返していたとき、弟子の一人が思わず漏らした。
「伊能様、なぜそこまでして……」
忠敬は筆を置き、静かに答えた。
「私は、この地球の大きさを知りたいのだ」
弟子たちは顔を見合わせる。
「地球の……大きさ、ですか?」
忠敬は頷いた。
「われらは天に星を仰ぐが、その星の下にある地の広さを正しく知らぬ。日本の形すら曖昧だ。人が大地を歩き、国を築く以上、まずは足元を知らねばならぬ」
その言葉は弟子たちの胸に強く刻まれた。
やがて、幕府において蝦夷地測量の必要性が高まる。北方からのロシア来航が相次ぎ、正確な地図の必要が叫ばれていたのだ。
忠敬は至時に進言した。
「蝦夷地を測らせてください。私の足で歩き、正しい地図を描きます」
至時はしばし沈黙した。五十を過ぎた弟子に、荒れ地の測量を任せるのは無謀に思えた。
だが彼は、これまでの忠敬の努力を知っている。誰よりも計算を重ね、星を追い、誤差を許さぬ姿を見てきた。
「……本気なのですね」
「命を賭してでも」
ついに幕府から許可が下りた。
忠敬は蝦夷地測量の一行に加わることを許されたのである。
旅立ちの前夜。江戸の町は静まり返り、星が鮮やかに瞬いていた。
弟子たちは師の背を見つめる。
「師匠、蝦夷地は険しい道です。老いた身で……」
心配を口にする若者に、忠敬は静かに笑った。
「老いたからこそ歩くのだ。夢を抱いたのは五十五からだ。余生を測りに費やせるなら、これ以上の幸せはない」
彼の声は凛として夜空に響いた。北極星は揺るがず、彼の志を見守るように輝いていた。
こうして伊能忠敬は、蝦夷地への旅に歩み出す。
学問に身を投じた五十五歳の老人が、ついに日本を描く第一歩を踏み出したのである。




