イワセル 1
ーー馬鹿みてえだ。
ぐったりと椅子にもたれ天を仰ぎ見る。見上げた先にあるのは普段気にもかけない無機質な署内の天井。だが今はそれが落ち着く。ここは現実だ。ネット上に散見される村の呪いとはほど遠い場所に自分がいると思える。
見谷村。三猿の掟。三猿封じ。
どれもが馬鹿馬鹿しい。そう思っているのに檜垣は否定しきれない。
大人になった今でも説明がつかない、幼き日に見たあの女。この世には説明のつかない存在がいる事を、檜垣は知ってしまっていた。
*
季節は冬。小学三年生のしんしんと雪が降り注ぐある日。実家の和室にある炬燵の中で檜垣はごろごろと休日を過ごしていた。留守番も任せられるようになり、その日両親は用事で家を出ていた。
のびのびと一人で漫画を読みながら過ごしていたが、不意に耳が確かな違和感を捉えた。
ーーなんだ?
家の中の音に神経を集中する。
ず。ず。ず。ず。
何かを引きずるような音が、二階の廊下を進んでいる。
ず。ず。たん。たん。たん。
音が廊下から階段を降りる音に変わった所で、檜垣はようやく恐怖を感じた。
おかしい。今家には自分しかいないのに。誰かが二階から降りてくる。そんなはずないのに。檜垣はそっと炬燵の中に身を隠した。
たん。たん。たん。たん。
炬燵の中でくぐもった足音を聞きながらぐっと身を潜めた。
たん。たん。たん。ず。ず。す。
音が一階に降り立った。その時檜垣はある事に気付き絶望した。
廊下から和室に繋がる襖が開けっ放しになっている。このままでは檜垣のいる和室に入られてしまう。
ず。ず。ず。ざ。
だがもう手遅れだった。足音は最初から自分が標的だったかのようにリビングへ向かうことなく和室に入ってきた。
ざ。ざ。ざ。ざ。
ゆっくりとしたすり足が近付いてくる。恐怖と緊迫で鼓動が激しくなり呼吸が苦しくなる。思いっきり空気を吸いたいが僅かな音でも出すのが恐ろしかった。音を殺しながら小刻みに呼吸を繰り返しながら必死に祈った。
ーー消えろ消えろ消えろ消えろ。
祈りは虚しく足音は更に近付き、炬燵の目の前で止まった。
極限状態だった。殺される。訳が分からないが最悪今日ここで自分は終わる。本気でそう思った。
ーー許してください許してください許してください。
消えろ。助けて。許して。思いつく限りの祈りを心で唱え続けた。
どれぐらい時間が経っただろうか。五分。十分。三十分。感覚が分からない。本当は数分しか経っていないのかもしれないが、無限のように感じられた。
炬燵の前で止まって以降、ぴたりと足音は止んでいた。まだいるのか。それとも消えたのか。どうか消えていてくれ。精神は限界すれすれだった。
ーーちょっとだけ……。
もう許してくれ。解放してくれ。
少しだけ。少しだけなら。そこにいない事が確認出来ればここから出られる。両親が帰ってくるまで耐えるのが本当は一番良いだろうがもう心が持たない。
細心の注意を払い、檜垣はゆっくりと腕を伸ばした。被さった炬燵布団を摘まみ、そっと上に引き上げる。暗闇の中に光が差し込む。僅かな隙間から見える和室の風景を注視する。
ーーいない。
何もいない。ちょうど足音が止まったあたり。誰かがいるならそいつの足が見えるはずだ。だが今、そこには誰も立っていなかった。
ーー良かった……。
はぁっと深く息を吐いた瞬間、引き上げた隙間を何かが塞ぎ光が消えた。
檜垣の手は炬燵布団を引き上げたままだった。なのに光が消えた。何が起きたか理解した瞬間に檜垣は耐えきれずついに絶叫した。
隙間をすっぽり埋めるように逆さを向いた女の顔がそこにあった。黒く長い髪はだらりと垂れ下がり、真っ黒な空洞のような眼窩、そして心底嬉しそうに大きな口を開き、女は笑いながら
「やっと見たやっと見たやっと見たやっと見た」
*
そこでぶつりと意識は途絶えた。その後どうなったかは覚えていないが、以降この女を見た記憶はない。強烈な体験だったにも関わらず、今回の事件が起きるまで完全に檜垣は女の記憶を忘れ去っていた。
“なんだかオカルトの香りがぷんぷんしますね今回”
田所の現場で急に甦った幼い日に見た異形の記憶。すっかり大人になったのに思い出した瞬間当時と同じ恐怖に襲われ身震いした。
あれは何だったのか。見間違いでも記憶違いとも思えないほどはっきりと脳内で再生された女の顔。気持ちが悪いほどの笑みには悪戯を超えた邪悪さを孕んでいた。
やっと見た。何故あの女はそんなにも自分を見て欲しかったのか。
ーー見る。
見る。見させる。
俺は果たしてあの女を見たのか。それとも見させられたのか。不穏な考えがぽつぽつと頭に浮かび上がった。
ーーくそ。
オカルトの香りとやらが脳に充満し始めている。
ダメだ。こんな調子じゃろくに物事は前に進まない。気晴らしに外の空気でも吸った方がいい。
檜垣は立ち上がり署の外へ空気を入れ替えに出る事にした。