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三猿封じ 1

「立石、お前その鞄なんだ?」

「ちょっとした機材です」

「何でそんなもの」

「凄いものが撮れるかもしれないじゃないですか」

「なんだ幽霊でも撮るってのか。本当に好きだなお前は。全く俺達は何をしてるんだろうな」

「捜査と解明じゃないですか。いつもと同じですよ」

「という事は犯人もいるっていうのか?」

「らしくないですね、えらく弱気じゃないですか」

「こんなに見通しがつかない事件なんて初めてだからな」

「なんせオカルトですからね」

「認めちまえばそれで片付くんだがな」

「オカルトだからって犯人がいないと決まったわけじゃないですからね」

「まったくやりがいのある仕事だよ」


 檜垣達は見谷村へと向かっていた。こんな事して何になる。捜査の糧になるのか。湧き上がる疑問は山程あった。自分が今まで真っ当に刑事として勤めてきた全てが崩れ去っていく感覚に襲われた。

 全てがオカルトだった時、自分に何が出来るのだろう。様々な事件と向き合ってきたが、当たり前だがどれも現実的な解決の道を辿ってきた。だが今回の一件はそんな檜垣の全てを否定しつつある。あまりにも奇怪で関わる者皆首を傾げた。こんな事が現実で起こり得るのか。

 現実的な答えが必ずあると信じてきた。だがそうはならなかった。三人の死は現実の域を超えていた。そんな中で分かっている唯一つの事。それが見谷村だ。


『見谷村に行く方法が見つかりました』


 笠原の連絡を受け、檜垣は決心した。この目で見届けるしかない。答えがあるかどうかも分からないが、やれる事は全てやる。オカルトだろうが何だろうが。







「ここが……」


 目にした事のない光景が目の前に広がっていた。本来水で満たされていたダム湖が空っぽになっている様を見るのは初めてだった。番組の企画で池の水が全て抜かれたように、薄暗い中でだだっぴろい濡れた地面が表面に今目の前に現れている。


「水位が下がるタイミングに合わせる必要があったんです。入れるのは数時間のみですが、刑事さんがいる前で勝手に中に入るといういうのは気にしなくても良いでしょうか?」


 ひょろりとした老紳士然とした佇まいの男は、口ではそう言いながらも悠然とした態度で何一つ悪びれる様子はない。

 湯前道冴。S大学教授で民俗学に精通しているというこの男の情報によって我々は今ここにいる。彼の横には笠原もいるが、初めて会った時と雰囲気はまるで変わっている。彼もまた今回の事件の一連を見てきた人物の一人だ。新海美玖という身近な人間が悲惨な死にも巻き込まれている。今の彼は以前にも増して鬼気迫るものがある。彼女への弔い合戦、失踪した妹。笠原にとってこれほど忌々しい対峙はないだろう。。


「定期的な渇水のタイミング、上流域の大規模な放水作業、水力発電施設の老朽化、これらの条件状況が全て重なる今行かなければ、次に入れるのはいつになる事やら」

「問題ない。手掛かりが得られるのなら入らない手はない」


 その場にいる全員が頷いた。


「もちろん何もないという可能性だってあります。全てが水に流され沈められた場所なわけですからね」


 言いながら湯前の口角は抑えきれない感情からかくっと上がっていた。

 ここで何かが見つかったとして、それは犯人を現実的に裁けるようなものかは分からないが、檜垣は浅くなった湖底に足を踏み入れた。

 水が引いたとはいえ靴底が沈む程度の水位はまだ残っている。靴が濡れ水が染み込み裾と共に足元を浸食していく。不快な足元の感触と共に辺りを見渡すが、見る限り薄闇が広がっているだけで何もない。ローラー方式でどぶさらいでも本来はかけるべきだろうか。


「湯前先生は今回の件どう考えてるんですか?」


 呼びかけたのは立石だった。


「起きている状況からすれば現代に三猿封じが甦ったという所でしょうか。掟に触れた者達が処刑されている。即ちそれは守り人がまだ存在している事を意味します」

「確か超感覚的な力で触れることなく人を処する事が出来るという存在ですよね。彼らが発端という事でしょうか?」

「ある意味では。どうやって守り人が今尚存在しているのかは分かりませんがね」


 湯前は立石の質問に悠然と淀みなく答えていく。


『湯前という男が今回の件に関わっているかもしれません』


 新海美玖が死んだ後の取り調べで笠原が漏らした言葉だった。

 民俗学者として俗習等に詳しい事は当然ではあるのだが、既に沈みほとんど情報が残っていないとされる見谷村についても核心的な情報を知っていた。笠原は彼以外にも見谷村についての情報収集をかけたが結果はゼロだった。


『この男が田所へ情報提供した人物かもしれません』


 確かに湯前は見谷村についてかなり詳しい。情報提供者の候補の一人として確かに有力ではある。檜垣は湯前の挙動に注意を払いながら湖底を進んだ。







「おい、あれは?」


 しばらくして突然笠原が何かを指差し声を上げた。檜垣達は彼が差した方向に突き進む。檜垣はそれを目前にして目を疑った。


「これは……祠か?」


 そこにあったのは黒ずんだ小さな石造りの祠だった。苔と泥に覆われた外壁はまばらに亀裂が走っている。祠の屋根は厚い石板で組まれているが、長い年月の中で削られているのか角は丸みを帯びている。正面には扉が備え付けられているが、何かを封じるかのように重い鉄の錠のようなものが付いている。しかしこちらはほとんど朽ちており触れるだけで崩れ落ちそうな程ぼろぼろの状態だった。ただ扉はそれでもがっちりと閉じられたままだ。

 こんなものがダムの底で壊れずに眠り続けていたのか。幾多の凶悪な人間を見てきた檜垣でも身体の芯から冷えるものを感じた。明らかに異様だった。祠の周辺だけ空気が淀み重力が強さを増したかのように重い。


 一歩踏み出す足が先程までとは比べ物にならないほど重い。急に鉄球の足枷でも付けられたかのように歩みが鈍くなっていく。それと共に耳鳴りが始まった。段々視界に靄もかかり始める。踏み入れてはならない領域に入ってしまったのか、様々な異常が急激に起こり始めている。


 祠へと目を向ける。錠は外れているが固く閉ざされた扉。あの中に何かあるのか。いや、何がイルのか。


「あの中に、守り人が……」


 湯前が呆けたように呟いた。その顔は上気したような表情で頬が自然と緩んだように笑みを浮かべている。笠原が言ったように、やはりこいつは何かしらよからぬ思いを抱いている。


「この目でお会い出来るのか」


 皆の歩みが遅くなる中で、湯前は我先にと祠へと足を進めた。

 ダメだ。脳内に危険信号が鳴り響く。こいつはあの祠を開ける気だ。開けさせてはいけない。しかし身体にかかる重量は増していく一方で、ついにはその場で膝をつき動けなくなってしまった。


 ーーくそ、まずい。


 ぼやけた視界の中で湯前が祠に手を伸ばす様が見えた。


「や、めろ……」


 声を発しようとした所でうまく自分が喋れない事に気付きぞっとした。

 感覚を奪われている。目、耳、口。まさに三猿封じのように三つの器官の機能が失われているようだった。

 檜垣の声は届く事なく、湯前はゆっくりと祠を開いた。檜垣は顔を伏せ項垂れた。動けない。檜垣は襲い来るであろう何かに身構えながら目をきつく閉じた。


 ーー頼む。何も起こるな。


 祈った途端、ふっと身体が軽くなった。かかっていた重力も耳鳴りも止んだ。急に異変が起きる前の静かな自然に戻った。


 ーー助かったのか


 目を開けると視界もくっきりと戻っている。喉元に手を当て声を出してみる。こちらも問題ない。安心した檜垣はゆっくりと顔を上げ、すぐに後悔した。


「やっと見たぁ」


 真っ黒な空洞の目、異常なまでの笑顔を張り付けた女が祠の前に立っていた。


「やっと見たやっと見たやっと見た」


 幼い日に見て以来、出会う事を恐れ続けたあの女が今目の前にいた。やっぱりいたのだ。あの日の出来事は現実だったのだ。


「はは……」


 渇いた笑いが思わず漏れた。女は愉快そうに笑いながらぷらぷらと身体を揺らしている。そして女の前で湯前は膝を折って場違いなほど大きな笑い声を上げた。


「はは、ははははは!」


 気が触れてしまったのかのように、湯前はしばらく大声で笑い続けた。

 

「運命に導かれるとはこの事か」

 

 笑顔を浮かべながら噛みしめるように湯前が呟いた。


「お前何をどこまで知っている?」


 感覚は戻ったが身体は震えて動かなかった。情けない事にトラウマを目の前にして檜垣は完全に恐怖に支配されてしまっており、声を出すだけで精一杯だった。

 こちらを見る湯前の顔は幸福に満たされたようだった。しかしその目は幸福とはほど遠い血走った狂気的な眼光だった。


「全てだよ」

「全て?」

「あまりに情報がなくてずっと知りたいと思っていた村だった。だが知り得たのは民俗学者としては口にも文字にも起こすに至らない都市伝説レベルのもの。田所達が知っていたものにすら適わない程度のね。だがある日急に湯水のように頭に歴史が雪崩れ込んできた。いや違うな。元からあった忘れ去ってしまった記憶が甦ったかのように見谷村の情報が脳内に溢れ出した。この村の掟や守り人の存在といった。もはや調べようもないはずの情報がね」

「そんな都合の良い事があるわけーー」


 言いかけた言葉がぴたりと止まった。

 思いついた瞬間に悪寒が全身を駆け巡り、胃液がせり上がるほどの気持ち悪さに襲われた。こいつは嘘をついていない。湯前は本当に何も知らなかったのだ。自分で調査したかのように語っていた見谷村の情報も、自分の力で得たものじゃない。

 

“元からあった忘れ去ってしまった記憶が甦ったかのように見谷村の情報が脳内に溢れ出したのだ”


 ーーまさか。


 記憶が甦ったかのように。これとまるで同じ感覚を檜垣も経験している。


「やっと見たやっと見たやっと見たやっと見た」


 女は楽しげに笑い続けていた。嘘だと信じたかった存在が、長い時間を経て現実に甦ってしまった。この女は一体何なんだ。


「生きて、たのか……いや、もう死んでるのか……」


 笠原の声がした。見れば笠原も信じられないといった様子で女を見ていた。


「なあ、真美」


 ーー真美だと?


 檜垣は視線を戻す。目の前にいるのはケラケラと笑い続ける女が一人。

 

ーーそんな馬鹿な。


 幼き日に檜垣の前に現れ、今眼前にいる女が。失踪した笠原の妹の真美だと。 

 起き得ないはずの出来事が現実を捻じ曲げている。そんな訳がない。時代も年代もまるで整合性がとれていない。真美とあの女が同一人物なわけがない。だがそんなあり得ない事実が成立してしまっている。

 何をどこまで疑えばいいのか。檜垣の脳内は混乱を極めた。


「生死、命、そんなものは超越されておられる」


 神の前に跪くように湯前は女の前で両腕高々と広げている。その姿はもはやカルト宗教の狂信者のようだった。


「もうお前らも分かっているだろう」


 この状況下と湯前の態度から導かれる答えは一つだった。


「この方こそ、見谷村の守り人であられる」


 この女が、守り人。


「見谷村で何があったかを教えてやろう」


 湯前は子供に物語を聞かせるかのように語り始めた。


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