考えることについて
人は食べたものでしか体を作ることはできない。これは思考についてもいえることで考えることは与えられた考え方以外で考えることはできないと思っている。もちろん世の中には天才というものがいて自分ひとりで新しい境地に達することができるということも中にはあるかもしれない。しかし自分はそうではない。本やら、会話やらで得た考え方を以外に思考法というものを持っていない。このことはもともと持っていた考えではあるがここ最近、考えていることをアウトプットするようになって強く思うようになった。例えばこの連載の一番最初の話はもちろん司馬遼太郎先生の影響であるし、二話の小説家と売文家のあたりは6年ほど前に縁があったy先生の影響を強く受けていることを感じずにはいられない。(昔の話なので違うかもしれないが)三話で触れた政治の考え方はいろいろな人の考え方が混じりさらに、そこから自分なりに考えたことも入っているはずなので誰のということはできない。しかし自分一人で考え出したものではないし少なくと他人の思考による影響は随所にみられると思っている。
では次に書くことについて考えてみる。書くことも先ほどの考えかたと同じである。小説を書く際に使う単語、言い回し、それに話の展開などは知っていることでなければ当然かけない。自分の小説である「俺の戦記」なんて読み返してみる話の展開はいくつかの小説の名詞を入れ替えただけの物であると感じてしまし文体も似たような小説が何冊かある。オリジナリティーなんて洒落たものは一切ない、そんな感じである。これは考え方も同様である。
では自分の考えとは何か、なぜ自分の考えた話とは何か。オリジナリティーとは何か。私の考えはこうである。それは与えられた思考法そして言語は道具であって結果ではなく、この道具をどの場面で使い、どのように使い、そしてどれと合わせて使うか。ここにオリジナリティーは発揮され、それを見せるためにものを書きそしてしゃべるのであると思う。
では最後に凡人がまったく新しい思考方法を生み出すことについて。思考法は先ほど道具であるとした。この道具は作り方までは教わることができるが完成品をもらうことはできない。しかし常に教わった通りに組立てることができるわけではない。例えば材料が違う、組み立て方が違うなどだ。ここでの材料は言語にある。日本語と英語では同じ人間が同じような考え方をしたはずなのに全く違う結論に至ることがあるらしい。例えるなら木でできた製品と金属でできた製品は全く同じ構造でも性能がまるで違うように。自分の言語圏にない考え方を他の言語圏から持ってくるとき全く新しい考え方を生み出す可能性がある。そして組み立て方が違うは教わる側が教えている側の思った通りに言語を解釈していなかったため、教わった側が組み立てを終えた後できた道具が全く違うものだったという可能性だ。しかし、こういった想定外の完成品が案外、使い勝手が良かったりして残っていき、今の多様な思考法がある社会になったのだろう。