美(うつくし)
「あの岡本美はなんだっていつもあんな調子なんだ?ものすごい形相でこっちを睨みつけているんだぜ。
どこか悪いんじゃないのか?」
「私なんか授業中ずっと野獣に狙われているようで落ち着かないったらないよ」
職員室では度々美の話が持ち上がった。
放課後、担任の中山静香が岡本美を呼び出した。
岡本美は両腕を大きく振り、膝を高く上げた行進の格好で真面目に廊下の右側をやって来た。
中山先生は職員室の隣の校長室の前に立ち、入るようにと岡本美に手招きをした。
「岡本さん、この頃体調とか、どう?」
「体調はとても良いです」
校長室の大きな机の向こうにちんまりと座っている校長に深々と頭を下げた美が、中山先生に向き直りながら答えた。
小柄で猫背な校長先生は何度も頷きながら二人の声を聞いている。この校長にないものは「貫禄」だった。
いつも少々くたびれたグレーのスーツを着ているが、今日は上着を脱いでシャツの袖を捲り上げている。こうしていると校長先生は用務員のおじさんにしか見えない。廊下を歩く校長先生が誰にも気づかれないなんてことも度々起こるのだ。
毎週月曜にある朝礼の時間、体育の五反田先生が朝礼台に上って生徒を整列させてから校長先生を呼ぶのだが、ある日校長先生は呼ばれないうちに朝礼台に上ってしまった。背が190センチある大柄な五反田先生はいつも校長がいるあたりを振り向いた目線は、自分の横に立っている157センチの校長の頭の遥か上を滑って行ってしまった。
「おや?校長先生!長瀞先生!!あ、松坂くん、長瀞校長を呼んできて」
生徒たちが一斉に「横、横、横」と声を上げたものだから、校長先生の「五反田先生、ここにおりますよ」の声をかき消し、朝礼台の周りに並んだ先生たちが校長先生を指さしているのだが、五反田先生にはなんのことなのか見当もつかないらしい。「早く呼んでこいや!」気の短い五反田先生が怒鳴った。
すると、校長先生はわざわざ朝礼台を降りて行き、もう一度上がって来るところを繰り返した。
その朝礼台を降りて行く校長先生に初めて気づいた五反田先生は慌てた。
「あわあっ!校長先生!いらっしゃったんですか!見えなかったものですから気がつきませんで申し訳ありません。見えなかったものですからね」五反田先生は慌てまくって頭に上ってしい、校長先生が見えなかったせいだと言わんばかりに繰り返して言い訳をした。
「五反田先生、見えなかったって失礼ですよ」と五反田先生を諌める声。
「早く呼んでこいや!」生徒たちが真似をする声、笑い声。その全てが止むまでの10分を校長先生は静かに立っていた。美はその校長先生を見ていた。
校長先生は全員が自発的に鎮まるのを待って、この1週間の間に好きになったものがいくつあるかを数えなさいと言った。美は最初に「校長先生」だと思った。
「よく眠れてる?」中山先生がまた聞いた。
「はい。万全の体調管理をしています」
「というと?」
「はい。夕食後、夜8時から1日の復習を2時間やります。10時30分には就寝。朝5時に起きて行進30分。その後録音しておいたラジオ体操をやります。それからざっと予習のために教科書を読みます。そしてラジオの英語番組を聴きながら朝食です。メニューはバタートーストに卵、牛乳、サラダ、スープ、ヨーグルトです。それから着替えて7時30分に家を出て、行進しながら学校に向かいます。行進しながら図書館に行って」
「ちょっと待って岡本さん。そのちょいちょい出てくる行進てなんなの?」
「行進です。朝礼の後各教室ごとに列を作って教室に入る」
「はい。わかりました。岡本さんは歩く時にはいつも行進を取り入れているということですね?」
「はい。そうです」
すると校長先生が、「どうしてですか?」と聞いた。
「えっ?・・・それは学校が私たちにやらせているものは、私たちの健康を思ってのことだと思っていますので、積極的に取り入れているのです」
「はあ・・・なるほどね・・」
校長先生は顔中のパーツを顔の中心に寄せて座っている。中山先生が、「岡本さん、帰っていいですよ」と言った。
美は商店街の日を避けて、商店街と並行に流れている川の遊歩道を歩いて帰った。
正面から母親がやって来るのが見えた。