美(うつくし)
美は唯一の遊び友達を失った。
「ゆりちゃん、遊ばない?」
「だめ。器械体操があるから」
「昨日も行ったのに。器械体操って毎日あるの?」
「週に1回なんだけどね。でも、週に3回通うと後は何回通ってもいいんだよ」
「毎日行ってるの?」
「当たり前じゃない。オリンピックに出るんだもん」
「えええ〜っ」
美は自分も器械体操をやりたいと母親に願い出た。
「器械体操だって?やめておきなさい。首の骨を折るから」
この母の一言に美は心に軽い打ち身を食らったが、ゆりちゃんと別れたくない一心で食い下がった。
「大丈夫だよ。子供がいっぱい来てるんだよ」
「あんた、器械体操のことなんか考えてないで、将来のために何か始めなさい。一人で生きていけるように、あんたは手に職をつけておかなきゃならないんだからね」
「私、オリンピックに出る」
「あんたがオリンピックに出られるわけないでしょ?運動会ではビリだったくせに」
「走るのはビリだけど・・・ゆりちゃんだってそんなに速くないよ」
「ゆりちゃんだってオリンピックは無理でしょう。区の大会にだって出られないわよ」
「どうして?」
「ゆりちゃんて、デブじゃない。スポーツをする体型じゃないからね」
だがゆりちゃんは中学生で東京都代表選手に選ばれ、床運動で銀を取り、ジュニア代表としてアメリカとスペインで戦った。
母がデブと言ったゆりちゃんの体は脂肪が筋肉と化して強いバネになり、その引き締まった体をゴム毬のように弾ませた。オリンピック出場は叶わなかったものの、その後体育大学に進学したゆりちゃんはパートナーと出会い、今は亀戸で夫婦共に後進の育成に情熱を燃やしている。
「百合子さんは凄いわねえ。あの子は小さい頃から見込みがあったわよね」
おいおい、お母さん。掌返しはやめて欲しいわ。ゆりちゃんのことなんか鼻もひっかけていなかったくせに。
「百合子さんは小さい頃から技術を身につけて、しっかりとした生活を送っているのだから偉いわ。それなのにあんたは一体何をして来たのかしら?」
「私も器械体操クラブに通いたいと言ったら、反対したじゃない」
「当然ですよ。母親ですからね。心配の種を見つけちゃ反対しますよ。でも、本当にウッちゃんがやりたい事なら親が反対したってやるんじゃないのかしら?」
確かに!悔しいが、確かに母親の言う通りだと思った。器械体操を諦めた美は、次に習いたくなったのはピアノだった。バレエにも憧れた。勇敢が絵の教室に通い出した時も、自分も一緒に通わせて欲しいと親に頼んだが、母親は「あんたが絵を描いているところなんか見たことがないわよ。人真似はよしなさい」と言った。
思い起こしてみれば、美がやりたくなったものは仲良くなった友達が習っていたからに過ぎない。
美には幸田ゆり子のような人間が不思議でかなわなかった。ゆりちゃんはどうして生涯歩み続けるであろう道を選び、またその時に選んだ道でなぜ才能を発揮できたのか?その子供が元々持ち合わせている才能がそれをやりたいとけしかけるのか、それとも、それほど才能がなくてもその道を歩み続けることで、才能というものは育ってゆくものなのか?
どちらにしても、美にはやりことなんて幼い頃から何もなかった。味気のない小学校時代を送り、今や中学校2年を目前に控えたある朝に美は突然悟りを開いたのだ。
私はまだたったの13年生きただけじゃないか。
自分の本当にやりたいことを発見するためには時間をかけて勉強する必要があるのだ。学校というものは本来そういうものなのではないだろうか?学校の勉強はきっと生涯の仕事に出会う力になってくれるはずだ。だって、それを知っているはずの大人が作ってくれたのだから。それが学校なのだ。美はそれから人が変わったように勉強をやった。自分の将来に役立つはずのことを一言だって聞き逃すまいと美は授業に集中し続けた。時に先生と目が合うことがあっても、
びの集中は揺るがなかった。