美(うつくし)
美は呆然としながら、剛の腕の中にいた。
そして、我に返った。
「ごごご剛くん!剛くん・・・ありがとうございました」
「ど、どういたしまして・・・」
「では、さようなら」
「うん、さようなら」
「・・・・・」
「・・・・・」
「手を離してくれると、助かります」
「まさか!俺まだ手を離してない?」
「まだ」
剛が手を離すと美は勢いよくUターンして、久しぶりの行進をした。そうでもしなければ美は草の中に倒れ込んでしまいそうだったから。早く治れ、胸の鼓動よ。こんなに高く打っていたら、家族中に聞こえてしまう。
それは剛も同じだった。
「俺のばか!」
河原夕日はとっくに山の向こうに落ちていた。
「今井先輩、付き合ってもらえませんか?」
今井剛が高校3年の時、学校帰りに声をかけてきたのは、学校トップのアイドル系と言われている内山 早苗、高校2年だった。
「何処へ?」
「これからずっと」
「え?」
「好きです」内山早苗は、溢れるような大きな瞳で剛を見つめた。
「俺のこと?」
「今井先輩、私と付き合うのは嫌ですか?」
「嫌というわけでは無いけど、俺ほとんど毎日地層を見に行ってるんだ」
「は?」
「地層だよ。地層を見ると太古の状況や地震の有無などがわかって、面白いんだよ。あ、君も地層部に入部しないか?」
「あーーー私、いいです」
「おい今井! お前内山早苗を振ったって、マジ?」
翌日、剛の周りに男子が集まった。この高校では女子が圧倒的に少ない。だがこの内山早苗は、他校も認めるトップクラスのアイドルだった。原宿や渋谷で再三スカウトされているという。だが内山家は医者で、とても芸能活動を許す家ではないんだそうだ。内山家では、父親、母親、兄3人が全て医者だという。
「振られたのは俺だよ」
「なんで?」
「地層部に勧誘した」
「あはははは!そりゃあ女子には人気がなさそうだな」
剛を取り巻いていた男子は、何処かほっとした様子で郷から離れていった。
吉祥寺の井の頭公園を、道ゆく人たちが度々目を止めるカップルが歩いていた。
岡本勇敢19歳と、長尾 詩乃美22歳の二人だった。
関東一帯の桜が去って、満開のツツジの季節を迎えていた。
詩乃美は黒のTシャツにデニム、スニーカーという出立ち。卵型の顔、一重の目、一見地味な顔立ちだで目を引くことはないのだが、よく見るとなかなかの美人であることがわかる。だが、すれ違う人々は詩乃美の美しさまでは気づけず、アンバランスなカップルだとう印象を持った。
「うわっ 男かっこいい!」
「でも・・女が平凡」
「もうちょっといい女見つけられなかったのかなー?うちらみたいな」
「ね、ははははははははは」
勇敢は大学受験を2度失敗した。
「どうして今年もダメだったの?先生が絶対に大丈夫だって太鼓判を押してくれているのに」母親は毎日ブツブツ言っていたが、勇敢は1日スケッチブックを抱えて、歩き回っている。勇敢はそこで長尾自動車修理会社を見つけた。
詩乃美はその会社の整備士であり、長尾自動車修理の娘でもあった。
勇敢はある日、自動車の内部が見たくなって立ち寄った長尾自動車で車の下から寝板に乗って出て来た詩乃美と目が合った。詩乃美は油で汚れた白いツナギを着て、頭に白いタオルをかぶって後ろで結ぶという出立ちで手も顔も汚れていた。
勇敢は、その顔と姿に魅了された。
それからの勇敢は機械を見に来ているのか、彼女を見たいのかわからなくなる状態が続いていた。このことを剛に相談すると
「お前、ストーカーになるなよ。ちょっと危険信号だな」
「何処がだよ」
「黙っているところ。好きならさあ、どんと行けよ。振られることなんか怖がるなよ」と言う。剛が言う。
そこは置いといて・・・・
「その人の何処が気に入ったんだよ?」
何処なんだろう? 風情かな? 僕の周りにいた女の子とは全然違うんだ。
希薄じゃあないんだ。あの人は生きて僕のそばにいる。
長尾自動車修理会社の門の前をうろうろしていた勇敢に詩乃美が声をかけた。
「また自動車の内部見学ですか?」
「あ・・・その・・・お茶を飲みませんか?」
(ああ、・・・唐突すぎたかな?お茶を誘う前に何か言うべきだたかな?)
「私と?」と詩乃美は自分を指した指を勇敢んにも向けた。
「はい」
「いいわよ。私のコーヒーでいいなら一緒に飲みましょう」
(えっ マジ?
もう、いいに決まっていますよ)
「こっちに休憩所があるの。どうぞ」車が並ぶ中を歩いて行くと、丸テーブルと椅子が2脚置いただけの小さな部屋があった。
「ここで私はいつもお茶を飲むのよ。ちょうどよかったわ。私もあなたに興味があったし」
「えっ?僕に興味?」
詩乃美はポットのコーヒーをカップに移しながら聞いた。
「あなた、どうして車の中なんか見に来るの?車が好きなの?」
「僕は機械が好きなんです」
「機械を作る人?」
「いいえ、機械を見るだけの人。機械を見るのが好きなんです」
「あはははは そう言う人がいるんだ」
「なんのや役にも立ちませんね」
「風景を見るのが好きだったり、女性を見るのが好きだったり、どれもなんの役にも立たないわ。機械を見るのが好きは上等じゃない?」
「映画を見るのは好きですか?」
「特に。あなたは好きなの」
「特に」
「私を誘ってくれるなら、本当に好きなところに誘ってくれる?」
「じゃあ、機械博物館に行きませんか?」
「いいわよ」
「本当に?」
「私、長尾詩乃美」
「僕は岡本勇敢」
「ん?勇敢?」
「え・・
「ううん、何処かで聞いたことがあるなと思って」
こうして勇敢と詩乃美は小金井市の農工大学科学博物館を見学した後、ラーメンを食べ、吉祥寺の井の頭公園の池の周りを歩き、ソフトクリームを食べるというコースを満喫した。詩乃美も相当な機械好きとわかり、勇敢はこの上ない幸せの中にいた。
勇敢が家に帰ると母親が鬼のような形相で勇敢を待っていた。
「ユウちゃん、これは何?」
母は叩きつけるように自動車学校の案内書をテーブルに置いた。
「僕、自動車の整備士になりたいんです」
「何言ってんのよ。大学に行かないでどうするの。自動車の整備士だなんて!」
「僕は自動車学校に行きます」
「勇敢、お母さん本気で怒るわよ」
「僕は自動車学校に行きたいです」
「じゃあ勝手にしなさい。この家から出ていってもらうわ。わがままを通すなら全部自分でやりなさいよ」
「お母さん、いい加減にして!」見かねた美が声を上げた。
「ウッちゃん、あんたの出る幕じゃないわよ」
「お母さんは私に、好きなこと、一生の仕事を見つけなさいって随分言って来たわよね。勇敢が機械が好きなことはお母さんだって知っているじゃない。それなのに医学部に行けなんて勇敢に合うはずないじゃない」
「ウッちゃんとユウちゃんは違うのよ。ウッちゃんは強いの。でも、勇敢には一生の補償が大切なのよ」
「お母さん、僕は弱くないよ」
「自分でそう思っているだけで、ユウちゃんは」
「ユウちゃん、自分の好きなことを諦めたらダメだからね」
「ウッちゃんは自分の心配をしなさい!もう部屋に行って」
それまで黙っていた父親が言った。
「勇敢が行きたいところに行かしてやろう。素晴らしいじゃないか。これからの時代乗り物がなくなることはない。身につけておいて損はない技術だぞ」
父のこの一言で母が折れたのに美も勇敢も驚いた。
「・・・・・・お父さんがそう言うなら仕方がないわね」
「父さん、ありがとう。ウッちゃんもありがとう」勇敢は頭を下げた。
そして母にも「母さん、ありがとう」母は少しだけ笑顔を見せた。
この夜、長尾けでも騒動が勃発していた。