美(うつくし)
剛がおばあちゃんの家に着くと、門の外に登志子が立っていた。
細っそりとした小柄な女性で、80歳だったが、どうしてその強靭な体力と気力は若い頃とさほど変わっていないと自ら信じるだけあって、登志子の背筋はまっすぐ伸びてその立ち姿は美しかった。
「ご苦労様。お代は」
「いいえ奥さん、結構です。いただいておりますから」
明日になったら、今井家に剛を迎えにやろうと相談していた矢先、今井織江から剛をお返しすると言う電話が入ったのだった。
「今夜遅くになりますが、必ず剛を帰します」と言った織江の声はしっかりとして力強かった。
剛はタクシーを降りた後、倒れ込むように布団に入った。そして、本当に安心して眠った。
翌朝、アパートに戻った恒行は血相を変えた。
「織江っ 剛はどうしたんだ!」
「本当の家に帰しました」
「本当の家はここだろうが!」
「ここな訳ないじゃありませんか!」
「あんな老い先短いばあさんにこれからの剛を預けて置けるか!ちゃんと父親になれる働き盛りの健全な男がいる家にいた方が」
ここで織江が鼻で笑った。
「なんだ?貴様」
「ちゃんちゃら可笑しくて聞いてられないよ。どこに働き盛りの頼れる男がいるんだよ!毎日飲み歩いてる唐変木のくせに、よくもそんなセリフが言えたもんだ!あのおばあちゃんは金持ちなんだよ。それはあんたの金じゃない。文無しで借金ばかりの土手カボチャとどっちが剛の役に立つのか分からないのかい、どかちん頭が!」
「な・・・・・・なにい・・・」
織江の勢いに恒行は目を白黒させた。
織江はおとなしい女だ。・・・ったはずだ・・・。
段ボール工場時代に知り合った。決してしゃしゃり出てくる女ではないことが、恒行の気をひいた。
恒行が苦手な女とは、自分の意見を言う女だ。俺に反対する女だ。自分の気持ちやらなんやらを主張すると言うことは、この恒行より自分が好きと言っているのと同じではないか!。それは絶対に許せない。こんな織江を見たのは初めてだった。
3人の子供たちも目を見開いて見ている。
「あんたもさあ、日頃から言ってる本当の家族ってのがいるんだったら、そっちにいきゃあいいだろうが!
いつまでも赤ん坊みたいにしみったれた男はこっちから願い下げだよ。とっとと出て行け!」
「はあああ?お前、誰に言ってんの?」
「目の前のおたんこなすにだよ。他に誰がいるんだい」
「このアマ・・・」と言った恒行に勢いはなかった。長年連れ添った女房は・・・この女だったか?恒行は弱い男だった。恒行が威張っていられたのも、相手が織江だったからだ。
「ふざけやがって!」恒行は外に飛び出した。
行先は前日の夕方から翌日の昼ごろまでやっている飲み屋だ。現金を持っていないことに気づいたが、まさか戻って行っていつものように織江、金とは言えない。
いいや、顔で飲ませてくれるだろう。あの店に俺が落とした金は相当なものになているはずだ。たまには文無しでも飲ませてくれるだろう。俺にはそのくらいして当然なんだ。俺はあの店にとっちゃあ上客なんだからな。恒行はそこだけが今の自分を受け入れてくれる唯一の場所だと思った。
織江と3人の子供たちは、逃げる父親の後ろ姿を見ていた。
きっと明日の朝になると父親は、ニマニマした顔をして何事もなかったかのように家に入ってくるのだろう。
「さあ、荷造りよ」織江が言った。
親父が今夜帰っても、もう僕たちはいないんだ。
そう思う子供たちの心の中に、父への哀れみが広がったが、父親不在で出発する新たな道を前にして心が弾むのは抑えられなかった。
喜佐子は病室で、圧森高子を前に報告書を読んでいた。
「しかしこの今井恒行と言う男は、どうしようもない男だねえ。だけど織江さんは大した人じゃないか」
「そうなのよ。旦那の借金を一人で返した人だからね」
「なんでこんな男と結婚したのかねえ」
「まあ、謎に満ちた結婚はたくさんあるからねえ」圧森高子は自分と夫との結婚生活を思い描きながら、ポツリと言った。