美(うつくし)
美
岡本 美はタンスの引き出しから、きちんと畳まれたブラウスをだした。裾の方に仕舞い込んだ時についたシワができていた。が、美はそのブラウスに袖を通した。以前の美だったら間違いなく洗濯機に戻しただろう。昔の美はいつも着る服を入念にチェックした。シミやシワがないか、畳じわがおかしな方向に向かって出来ていないか。もし一つでもブラウスにシワやシミを見つけたら、美は情け容赦なく洗濯カゴにぶち込むのでお手上げ状態になった母親は、美の服に限ってはクリーニングを利用していた。美はそれらを「服のミス」と呼んだ。「また服のやつがミスってた」
弟の勇敢は、これを聞く度に「服のミスなんかじゃないよ。服はミスなんかしないんだよ」と反対した。そんなことは美だってわかっているが、「あ〜あ、服がまたミスってる」と言ってみると「お母さんがちゃんとタンスにしまってくれないから」の文句を消してくれるからだ。だが、幼稚園児の頃から弟は物質に肩を持つやつだった。美はコップを割った時などわざわざ弟に「コップが割れることにしたみたいよ」と言ってやる。
勇敢はその度に考え込み「コップが割れることにしたんじゃないよ。コップは割れたくなかったと思う」
「じゃあ何が、コップを割れることにしたの?」
「何が? 何が?」勇敢が考える時、鼻に皺が寄るほど唇を上に向けたり、下に伸ばしたりするのが癖でその百面相が面白くて弟を揶揄うことがやめられない。勇敢が考えている間美は笑い転げるのだ。
弟の名前が「ゆうかん」だと言うと、お坊さんみたいねと友達に言われる。多分勇敢はお坊さんになった方がいいかもしれない。まず、墨染めの僧衣を着せたら、我が弟ながらどれほど美しいか想像できる。もしお坊さんがアイドルだった時代の古の都に勇敢が生まれたとしたら、位の高い婦女子によってかなりの地位まで上り詰めたのではないだろうか。
勇敢の顔立ちでまず目に飛び込んでくるのが切長の涼やかな目だ。大き過ぎない目と無駄のないフェイスラインとのバランスが清涼感を醸し出す。それに比べてと美は思う。それに比べて私のなっちゃいない顔はどうだ。それはアンバランスの集結と呼べるだろう。女の子にしてはシャープな頬の線と、少々高めの頬骨、黒く太い長めの眉がまっすぐに伸びていて、大きいことは大きいのだが、ややつり気味の細い目に翳りを加えている。唇は薄めで、これもまた左右に真っ直ぐ伸びていて、見る人は美の口が大きいという印象を持つ。美と勇敢は幼い時からずっと容姿を比較されてきた。
「ウッちゃんとゆうちゃんが入れ変われば良かったのにねえ」と言われてきた。まだ小さな子供は何を言われたって解らないからと思っている大人は残酷だ。美は5歳の頃には二つ下の弟が綺麗な顔をしていることに気づいていたし、大人たちはその顔を見ると表情を緩ませて、みたこともない慈愛の眼差しで勇敢に話しかけることも知っていた。
母の友人で子供なんか大嫌いだと豪語している雪乃おばさんも、勇敢には甘い。絶対に触るなと美にはドスを効かせる、写真が趣味の雪乃おばさんのカメラを勇敢がいじくり回しても、雪乃おばさんは微笑んでいる。このときの雪乃おばさんは全く気色が悪いのだ。雪乃おばさんがちょくちょく我が家に遊びにきたのも、勇敢の写真を撮るためだと美にはわかっていた。勇敢と雪乃おばさん。勇敢と誰か。誰か達は勇敢との交流だけを求めていて、そこに美は存在しない。近所の駄菓子屋の婆さんも、勇敢が行くと何やらオマケを弾んでいる。
美には一度だってくれたことがないのにだ。
勇敢は幼稚園からモテた。年長組の女の子達が勇敢がいる教室を覗きに来るのだと言う。勇敢は4歳にしてチョコレートを貰いまくったので、母親がお礼の折り紙などをごっそり買っていたのを美は覚えている。
勇敢には物語の雰囲気があると言ったのは大尊寺八子という漫画家志望のクラスメイトだった。
「甘さもある端正な顔立ちの物静かな少年といった風情よね。
立ち並ぶ木々の向こうにひっそりと在るお屋敷で暮らしているの。
旅の多い両親の帰りを乳母と二人だけで待つ孤独な少年。
いつか家族と暮らしたいと言う願いも虚しく、
少年は寄宿学校に入れられるのでした。
そこで経験する初恋。
少年は次第に1年留年していると言う不良のクラスメイトに心を奪われて行く」がぴったりだと言った。(ゲロゲロ)どこかで聞いたことがある話だ。こんなありきたりな発想で、はたして大尊寺八子は漫画家になれるんだろうか?まったく余計なお世話だが、美はこのクラスメイトがたびたび気になった。この大尊寺とは小学校1年の時から、中学3年までずっと同じクラスだった。これはもう、奇跡なのではないだろうか?9年間同じクラスだなんて、全校生徒の数が3人とかいうような僻地の学校ではないのだ。クラスは一学年に3クラスある平均的な学校だ。親友と別れたの一緒だのと一喜一憂するクラスメイトが
「あんたらも親友になればいいじゃん」と言ったが見るとこ大尊寺八子は変わり者だ。あんなチマチマした絵を何時間も飽きずに描けるところが不思議だ。美はいつも画用紙1枚につき15分で描き上げることにしている。
絵なんてそれで十分でしょう。だいたい弟がとんでもないのだ。あいつは絵1枚に3日も時間をかけ、酷い時は10日経っても完成じゃないとか言って、なんやかやを穴のあくほど見つめている。絶対に二つ三つの穴が空いていると思う。そんな目で穴を開けるようなやつとは友達になれないでしょ!弟だで十分だと美は思った。
中学生だったある朝、美の唯一の友達の渡中東子が飛んできて、
「1年2組の岡本勇敢て、岡ちゃんの弟なの?」
「だったら何?」またか!とうんざりしながら美は言った。
「別に何でもないけどさあ・・・でも、全然似てないね」
「あっちは綺麗で、私はブスだと?」
「言ってない言ってないそんなこと〜 やだなあ、岡ちゃんは」
「いいよ。別に、そうなんだから」
「岡ちゃん、岡ちゃん。岡ちゃんも可愛いよ」
美は気を遣って言われるお世辞が大嫌いだった。比較されて評価されるのは慣れていたし、何より真実だと思っているものだから、別に構わない。でも、勇敢を誉めた分美のことも持ち上げておかなければと言う気遣いからお世辞を使われるのが堪えるのだ。今まさに、たった一人の友達が必死で美の機嫌の回復に頑張ってお世辞を言っている。しかもまったく的外れなお世辞だ。
「岡ちゃんは可愛いんだからさあ」(どこがだ)
「みんな岡ちゃんを素敵だって言ってるよ」(みんなって誰)
「岡ちゃんは憧れられる人だからさ」(ワタちゃん、もういいよ)
「ワタちゃん、分かったよ。私も十分魅力的なんだなって!」
「そうだよ〜岡ちゃん」
優しい嘘つき。でも本当に優しいのだろうか?
この時以来渡中東子は勇敢のことばかりを聴きたがるようになった。
「それで、ゆうちゃんはどんな趣味があるの?」
ゆうちゃんは毎日絵を描いているんだって。鉛筆画なんだって。とっても上手なんだって。
好きな食べ物はね、苺。カレーも好きなんだけど肉がゴロゴロしているのは嫌なんだって。
へえ〜渡中さんはどうしてそんなことを知っているの?
だって、勇敢くんのお姉さんが私の親友だもの!
渡中東子の周りには人が大勢集まってくる。けれど、実の姉のところには誰も来ない。
「勇敢くんの姉さんと言ってもさあ、岡本さんて、ちょっとね〜怖いよね」
「そうそう、話かけづらいって言うか・・・」
「そうでしょ〜?岡本美ちゃんは気むづかしいところがあるからね。気を遣わなくちゃいけない時が結構あってさ」渡中東子の言葉だ。
「気をつかう親友なんてあり」
「嫌な時もあるよ。でもあの子友達いないしさ」
「付き合ってあげてるんだ」
「でもいいじゃない。勇敢くんのこと聞けるんだから」
授業が終わって教室に残っていたクラスメイト数人の会話だった。窓の外の花壇の花を見に行った美が耳にした言葉。美は黙って教室にカバンを取りに行った。
「あ、岡ちゃ〜ん、一緒に帰ろ〜」
「いいよ。無理して付き合ってくれなくても」
「え・・・」
教室の中に沈黙が走った。
どう見たって明らかに美しさが優っている人間のそばを離れることが出来ない、身内の気持ちを察してもらえるだろうか?
何においても高い能力を有し、天上と地獄ほどの差を持って美を与えられ、片や美しさのかけらも許されず、才能の片鱗も見当たらないこの二人は、家と両親を共有する家族なのだ。
母親は口癖のように言う。
「勇敢は誰に似たんでしょうねえ。お父さんもお母さんも平凡な顔つきでしょう?」
はあ?お父さんが平凡ですって? 美は父がもっとありきたりな顔をしていてくれたらよかったのにと思っている。
美は父に瓜二つと言われて来た。
だが、勇敢はそんな自分にまったく無頓着だった。周りがどんな目つきをして自分を見ていようと、まったく気にしない。とにかく外界に影響を受けない。何があっても何時もの勇敢以外の勇敢を誰も見たことがない。
そして勇敢の描く絵だが、小さい頃から分解した時計の中とか、自転車のペダルとチェーンが巻かれてある周辺をクローズアップで描くのが好きだった。その絵はおよそ子供とは思えない観察眼で精密に描かれ、大人たちを驚愕させた。母は喜んでお絵かき教室に通わせたが、機械にしか興味が持てない勇敢が描く他の絵は、まず、話にならない。