9 変化
ウチの、バイトになってくれませんか?
スタースは目を覚ました。時間を見ると午前四時前。少し早く起きたようだ。
夢を見た。最初の内容は覚えていないが、最後辺りは昨日の出来事を回想していたようだ。
顔を洗い、カラーコンタクトを目に入れる。制服に着替えながら、モモが自分の分のエプロンを作らなければいけないと話していたのを思い出した。
茶房のバイトとして、これからも働いて欲しい。モモからの頼みに驚いたのを今でも思い出す。モモが言うには、男手があるとかなり開店準備が楽になるから。
それと、一緒にいて楽しかった、と。
本当にいいのか聞くと、彼女はそう言って微笑んだのだ。
これは、彼女を奴らから守る為にも必要なことだ。
モモの笑顔を思い出し、自分を戒める。
垂れた前髪をセットする。うつつを抜かしてはならない。いつも通りの自分を見て、スタースはモモを守る決意を再認識した。
トーストとスープ、サラダを食べると朝食は終わりだ。スタースはあまり支部の食堂は使わない。自分が行くと支部の皆が困ると思うからだ。
外へ出る。シンハ支部は寒暖の差が激しく、夜から朝にかけては特別寒い。しかし、雪のよく降る国の出身であるスタースには、これくらいなんてことはなかった。
エレベーターで降り、四階エントランスへ着く。受付嬢も清掃員もまだいない。生きている者の気配を感じない空間。
スタースはこの空間が嫌いではなかった。静かな沈黙が心地よい。
エントランスから西通路へ出る。その辺りに佇む靄を、東から差し込む陽が幻想的に照らし出す。少し歩くと、茶房ももの看板が見えた。スタースは足早にももを目指す。
今日は、正式なバイトになって初めての出勤。
今までとたいして変わらないだろう。それなのに、不思議と緊張していた。
「あ、隊長さん。おはようございます」
モモが裏口から出てきた。朝早く届いた荷物が置かれてある。スタースはモモの代わりに運ぶ。モモは「助かります」と嬉しそうだ。
荷物を厨房に運ぶと、中を開ける。大量の小豆と茶葉だ。茶葉は必要な分だけ出して、あとは冷凍するらしい。
「これからよろしくお願いします」
モモが気持ちをこめた礼をする。スタースは顔を戻したモモの前に、手を伸ばす。握手のサインだ。
「こちらこそ、よろしく頼む」
モモはスタースの手を握る。小さくて、折れてしまいそうなほど華奢だった。これから重い物は持たせられないな、とスタースは思った。荷物を運ぶのは、自分の役目にしようと決める。
そう伝えると、
「大変そうに見えるかもしれないけど、それなりに体力はあるんですよ」
とモモは不服そうに口を尖らせるのが微笑ましい。だが、すぐに機嫌をなおして再び礼を言った。助かるのは助かるようだ。
緊張していたスタースだが、仕込み作業も店内の清掃もいつも通りだった。拍子抜けしながら、当たり前かと笑った。
モモの対応も今までと変わらなかった。違うのは、今までは「手伝い」だったが今は「バイト店員」である。バイトといえどこれは仕事だ。
スタースは気合いを入れ、今まで以上に仕込み作業に力を入れる。
「隊長さん」
モモに名前を呼ばれ、振り返る。何かの指示だろうかとモモの言葉を待つ。
「そんなに怖い顔をしちゃダメです」
頬を膨らませ、注意される。スタースはとっさに自分の顔を触った。そんなに怖い顔をしているだろうか? すぐに、いつも周りから避けられるくらい怖い顔はしているな、と自分で納得してしまった。
「すまない。癖でつい」
「怖い顔で作っても、美味しくなりませんよ。余裕を持って、豆と対話してください。きっと美味しくなりますから」
頷いて、鍋の中の小豆を覗いた。最初に手伝った時は、豆を煮るのが素直に楽しかったことを思い出す。しばらくぼうっと鍋を見つめていた。
「ふーん。ふふふー」
鼻歌が聞こえて、視線を動かす。
モモの横顔につい、魅入られた。鼻歌を歌いながら、慈しむような目で焙烙の中の茶葉を見つめている。
なるほど、そうやるのか。さすがに鼻歌は歌えないが、スタースは心をこめて豆を煮る。
モモから注意されることは、それ以降、一度もなかった。
仕込みも掃除も終わり、二人で休憩に入った。
モモは昨日作ったのだと、抹茶バウムクーヘンをテーブルに出してくれた。モモのお菓子のレパートリーには、いつも驚かされる。何より、美味しいのだ。お菓子の専門店並みに。いや、それ以上だろうか。
バウムクーヘンに、モモが丹精こめて炒ったほうじ茶と合わせる。
スタースはすっかりほうじ茶好きになった。モモから茶葉を購入して、自室で飲むくらいである。
二人は和やかに談笑しながら、休憩時間を過ごしていた。スタースの緊張もすっかりほぐれ、穏やかな時が過ぎる。
スタースは時計を見上げた。九時前。時間はあっという間である。
「不思議だな。ずっとここにいたくなるのは」
スタースはぽつりと本音を漏らした。そう思っている自分が、怖くなる。
自分の信念を忘れたのか、ともう一人の自分が責めるのだ。
「また明日も来てください。明後日も、明明後日も、空いている日は」
向日葵のような笑顔のモモに、スタースは心の温もりを感じる。
(この子のこの笑顔を、失くさせはしないさ)
その為のバイトなのだから。スタースは立ち上がり、制服を着ると店を出る。
「では、行ってくる」
「行ってらっしゃい!」
モモの声が、背中を押した。太陽は顔を出し、店の外は光りできらめいている。いい日になりそうだと、スタースは空を眺めた。
それから数日が経った。今日の朝も、スタースは茶房ももにしっかり出勤だ。開店準備を終えると、モモに見送られ茶房を出る。
今日の予定はシンハ市の巡回、午後から書類仕事だ。もちろん異喰イが発生したら第二部隊も出動である。今日はまだ呼び出しはない。
昼も過ぎ、スタースはほうじ茶を飲みながら書類にペンを走らせていた。
執務室のドアがノックされ、トーマスが入ってくる。
「バウリン、この書類について聞きたいことがあるんだが……それはモモちゃんのほうじ茶か?」
茶房ももの常連でもあるトーマスが、めざとく見つける。
「ああ。美味しかったから茶葉を買ったんだ。君もよく買いにいくらしいな」
「そうなんだ。モモちゃんのほうじ茶を飲むと心と体が癒されるんだよなあ」
「たしかにな。いい飲み物だ」
「そうだよな。……は?」
トーマスは、化け物を見たかのようにスタースを凝視している。
「どうした? スコット」
「い、いや、その……」
何か言いたげだが、スタースの顔色を伺っているようだ。
「ちなみに、ももの中で好きなお菓子はあるか?」
トーマスは探りを入れるように聞いてくる。
「どれも美味いから、選べないな。君はどうせ大福だろう」
「ああ。そうだな!」
トーマスの顔が輝く。実は、お前の好きな大福は自分が作っているんだ。そう話した時のトーマスを想像する。面白すぎて、吹き出すのを必死にこらえていた。
「バウリン。最近、何かいいことでもあったのか?」
「何故そう思う?」
「いや、今までより態度が柔らかくなったような……なっていないような」
「どっちなんだ」
そうつっこむと、トーマスは信じられない、といった目でこっちを見る。
「バウリンのコミュニケーション力が上がっているだと? 信じられん。まさか、偽物か?」
「スコット、君はなかなかお茶目な性格だったんだな」
二人はしばらく沈黙する。お互いを見つめ、突然、笑い出した。
「ふむふむ。やはりバウリンも茶房ももの魅力に気づいたか。ならば、また今度、一緒に行こうじゃないか」
「そうだな。一度行ったきりだしたまにはいい。なんなら、今日行くか?」
トーマスの目が無垢に輝く。
「よし。なら、今の書類を終わらせたら行こう! 今すぐに!」
「おいおい、サボるのはやらんぞ?」
「いやだいやだ、今すぐ行こう!」
トーマスがぐずりだす。よほどももに行きたいらしい。どうやら彼は、ももの話になると性格が変わるようだ。
(こいつ、こんな性格だったのか)
知らないトーマスの一部分に、新鮮さを感じる。
今まで二人は、必要な会話以外で口を開くことがなかった。なので、スタースもトーマスもお互いについて知らなかったのだ。トーマスの知らない一面に驚きつつ、嬉しさも感じる。
何かいいことがあるとすれば、モモとの時間だろう。バイトと隊長の仕事をこなすのは大変だが、それよりも充実感を感じるのだ。
「不思議だな。あの子は」
モモの笑顔と、見送る時のいってらっしゃいが頭の中で重なる。
スタースは、トーマスに聞かれないように小さく呟いたのだった。